第19話



 1986年、7月。

 バブル最盛期に向かおうとする華やいだ空気。

 ユーロビートとロックの旋風がアイドル市場を揺らす頃。


 遂に、今村由香デビューアルバム『greeting』は発売された。

 音楽雑誌の位置づけ的には、メロウなAORスタイルに、

 小森明姫や山科万里を思わせる、女性の琴線に触れる切ない歌詞、

 桜木聖を手がけた小村雅美の洗練された職人芸、

 そして、余人の追随を許さぬ、深さと甘みのあるバカラ・ボイス、


 「新世代、ガール・ポップの旗手誕生、か……」


 概ね好意的な評価だ。

 お話にならないホヨホヨ声だと叩かれた前世を考えると隔世の感しかない。

 

 それにしてもやっぱりバカラ・ボイスなのか。

 ギミックを仕込んだアルバム上のライナーノーツの表紙で、

 バカラ社提供の水晶の城(バブル……)をバックに

 恥ずかしげに写っている今村由香がただただ眩しい。

 史実通り、ラジオの聴取率は既に上位に食い込んでいる。

 

 なにより、『gare/気づかないで』は、

 ドラマの勢いそのままに、最終話時点では遂に某ベストテンに入り、

 タマネギ頭の司会者に顔写真つきで、

 「お待ちしております」と言われる栄誉を得た。


 概ね順風満帆というほかない。

 それだけに、俺の存在は、今村由香のアキレス腱になりかねない。

 少なくとも、あのマンションはいずれ引き払わないといけないだろう。

 結構苦労して探した思い出(……)のマンションだが。

 

 「おい。」

 

 !

 な、なんだ…。

 

 「なんですか、井伏さん。

  構内は関係者以外立ち入り禁止ですよ?」


 史実並の早さで、史実よりも成功した作曲家デビューを果たした井伏雅也。

 相楽美佐への曲提供はほぼ史実通りの展開である。

 野心旺盛たる精悍な顔つきはまだ失われていない。


 「お前にだけは言われたくないな。

  話題の男が、なんでそんなシケた面してんだよ。」


 話題の男?


 「なんですか、それは。」

 

 「……とぼけてるわけじゃないのか。

  お前ともあろうやつが、抜かったなぁ。」


 ? 対談?

 『主婦公論』?

 井伏雅也がこんなものに?

 

 ん?

 

 山科万里と今村由香?

 

 「ま、あのドラマが最終話近くの頃の取材だよ。話題だったからな。

  主題歌gareの製作秘話という名の薄い記事なんだが…

  ここだ。」

 

 山科:私ね、アイドルみたいなことをやらされてたでしょう?

    だから、辛さは凄く分かるの。

    でも、最初から出ない、っていうのを貫くっていうのは

    由香ちゃんみたいな人だと、なんていうか、大変よね?

 

 今村:はい。

 

 山科:どうなの? そのへんは。

 

 今村:いや、だって、私、彼氏いますから。

    彼氏持ちはアイドルにはなれませんよね?(笑)

 


 「ぶっ!?!?!?」

 


 な、な、な……!!

 

 山科:大丈夫? これ、記事になるのよ?(笑)

 

 今村:あ、そうですか? 

    でも、スタッフさん、みんな知ってますから。

 

 山科:まぁねぇ……。

    やっぱり、話題のあの子?


 今村:はい。


 山科:そう。ふふふ……。



 「ふふふ、じゃねぇよっ!!」



 「お、お前、本当に知らなかったんだな……。」

 

 「当たり前でしょう!!!

  なんでこの記事、差し止められなかったんですか!!

  なにもかも台無しですよっ!」


 「その原因作ったの、絶対、お前だぞ?」

 

 「は、はぁっ?」


 「石澤氏が、メディアを全然統制できてないんだよ。

  お前が操ったあの若い奴が、

  お調子でべらべら喋っちゃってるからな。」

  

 がはっっ!?!?

 

 「じ、事務所はどうなんですか!?

  マネージャーさんは、この取材に立ち会ったでしょう?!」


 「…お前、怜那の恐ろしさ、知ってるだろう?

  あの人、もうすっかり距離感ゼロなんだよ。完全に怜那側。」


 !?

 だ、抱き込まれてる……!?

 

 「は、早川副社長は?」

 「さぁ? あそこまで偉くなっちまうと、

  大して気にしちゃいないと思うぞ?」


 そ、それもそうか……ぁっ。

 

 「だいたい、お前、高校の頃から、全然隠す気無かったろう?」

 

 「な、なにをですか?」

 

 「お前な。

  怜那と、付き合ってることに決まってんだろうが。」

 

 付き合って?

 付き合ってる?

 「付き合う」の定義が、俺には、もう分からない。

 

 「え、まさか、お前……」

 

 

  『古河君が、すき』

 

 

 まさか。

 そんな、まさか、あれは…………。

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