第4話
今村由香の音楽性は、三つの大きな流れがある。
一つは、雑誌の宣伝上、ガールポップと称された、打ち込み系シンセサウンドを中心としたニューミュージック風アイドル歌謡。もう一つが、ブラックコンテンポラリーをポップに畳み込んだ独特なAORの流れ。そして、自身がバンドを組んでいたフュージョンサウンド。
正確には、後に大ブレイクすることになるもう一つの流れも早くから汲んではいたのだが、その流れが花開く時に、彼女自身はそこから遠ざかっていってしまう。
それが凋落を早める契機となったことは間違いはない。最も、その流れに乗っていても売れたかどうかは分からないのだが。
あの日以来、佐和田怜那は、油断と隙を全身に載せて無防備に笑っている。
ごく普通に自宅マンションを教えられ、ごく普通に家まで送らされた。
下手をしたら腕を組みかねない勢いだった。距離感が凄まじくバグっている。
地味子の皮なのに、信頼しきった満面の笑みを浮かべる可憐な中身の今村由香。
隠れファン的には、仕草の一つ一つと、
さりげなく繰り出されるボディタッチが実にえげつない。
今村由香の言動の恐ろしさは、その天衣無縫さにある。好奇心旺盛な幼い猫のように、躊躇いもなく、予想もつかない人物の懐にするっと入っていってしまう。
全盛期には、今村由香は失恋ソングの女王として一部で有名だったが、セッションやイベントの際に突如繰り出される、無自覚な距離感ゼロ攻撃の前に、人生を狂わされるほど勘違いさせられた哀れな男性ミュージシャンも少なくなかったと聞く。
俺はただの隠れファンだから勘違いしようがないのだが。
ともあれ、佐和田怜那が後の今村由香であることは、今や間違えようもない。
ただ、ここまで詰めたからといって、彼女に対して何ができるか?
というと、現時点では、極めて限られた選択肢しかない。
今村由香は、1987年にラジオ局共催のオーディション番組で審査員特別賞を受賞、主催した大手レコード会社から、88年にシンガーソングライターとしてデビューする。しかし、90年まで、アルバムの売り上げも1万枚程度の半地下的な存在だった。
理由は幾つかある。歌詞が未成熟であったこと、アイドル路線で売ったのに顔も髪型も地味子のままで、ダンスも案山子同然であったこと、化粧が本人の肌質とまったくあっていなかったこと、声質はともかく、歌唱力が平凡以下であったこと、それに見合うように広告宣伝費が微々たるものであったことなどなど。
このうち、容姿は舞台慣れするに連れ、やや洗練されていくようになったものの、歌唱力とのアンバランスさが、皮肉にもアイドル然としたカルト的人気を集めてしまう。その歌唱力は、ボイストレーニングによって、現役晩年には一応は歌える程度になったが、その頃には、彼女の言動と音楽性から瑞々しさが消え失せており、アーティスト路線に傾斜しすぎた作詞、作曲の暗さもあって凋落を食い止めるには至らなかった。
要するに、ヒットの要素が時系列によってバラバラだったのである。
であれば、まずもって、今村由香に、早くボイストレーニングや歌唱レッスンを受けさせたほうが良い。しかし、現時点の彼女は、自分の声質に強い忌避感を抱いている。それを増幅した経緯は間違いなく俺の目の前で繰り広げられた合唱コンクール事件だが、その前から深いコンプレックスがあったようだ。
なぜ、87年になって、急に人前で歌おうと思うようになったのかは大いなる謎だが、こと、声へのコンプレックスに関しては嘘はない。なにしろ合唱コンクールの顛末を俺がしっかり見ている。
ということは、少なくともこの時点で、彼女の歌唱力を引き上げる術はない。
まず、声質が「良いもの」であることを自覚させないといけないが、今村由香自身が著作で述べているように、1970年代末から1980年代初頭はハスキーボイス絶頂期なのだ。逆張りとなるサマー・サスピションが売れるのは1983年であり、現時点で佐和田怜那――というよりは日本人――の思い込みを変えるのは不可能である。
ということで、82年時点で彼女をボーカリスト志向へ仕向けることはできない。
ただ、この距離感であれば、こういうことならば、できる。
「佐和田さんさえよければ、勉強、見ようか?」
そう。
「学歴」を、本物にするのだ。
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