ずっと、このまま

結城暁

第1話:化物と少女

男は闇の中を走っていた。人の手の入っていない獣道であるため思うように足を動かせなかったが、男は息を切らしながら進んでいく。背負った荷物は重く、肩紐が食い込み痛みをもたらしていたが、その重みこそが男に活力を与えていた。


「くそっ、霧が出てきやがった」


 段々と霧が濃くなる山の中で野宿に適した場所を探し出すのは不可能に思われた。しかし男は諦めずに歩みを進める。洞窟か、せめて大木でも見つかれば、と歩き回っていると霧の中にぼんやりと光るものを見つけ、もしや人家かと歩みを早める。霧の中から現れたのは立派な門で、その門灯が男を導いていたのだった。門の向こうには貴族が済んでいるような大きな館が霧の中にも見える。見たことのない豪奢な作りの館に面食らうも、男はすぐにその門へ手をかけた。


「へへ……ツイてるぜ……」


 門には錠がかかっておらず、そのまま男は庭を進む。夜の闇、霧の中からでもよく手入れされているのがわかる重厚な扉が男を迎えた。高価であろうドアノッカーを使い、男は館の住人に聞こえるよう声を張り上げる。


「もうし、もうし! どなたかおられるか! 山の中で迷ってしまった、一夜の宿をお借りしたい!」


 静寂の中に響いた男の声が小さく反響する。男は物音がしないかと耳を済ませていた。ややあって静かに扉が開いたので男はこれ幸いとその隙間から館の中へ滑り込んだ。

 広々とした玄関ホールにぽつねんと一人の少女がたっていた。服装からするに使用人だろう。使用人らしき少女はまるで人形のように一礼をすると男に声をかけてきた。


「こんばんわ。いらっしゃいませ。当館は我が主人あるじ様の持ち物です。どのようなご用で当館をお尋ねになりましたか」

「夜分遅くに申し訳ない。私は旅をしているのですが、山の中で迷ってしまい困り果てていたところに館を見つけ一夜の宿をお借りしたいとここへ来ました。どうかお慈悲を賜りたい」

「──少々ここでお待ちください。主人にうかがって参ります」

 それだけ言うと男の返事も聞かずに少女は館の奥へと去っていった。男は自分以外がいなくなった玄関ホールをぐるりと見回すと口角を釣り上げる。


「なかなかいいモンがあるな。こんな山奥にいる変わりモンなら飾ってあるモンがひとつふたつなくなったって気にしないだろう」


 男の背負った皮袋がじゃらりと音を立てた。袋の中身は男が盗み取った宝飾品の数々だった。男は終われた末に山へ入り込み方向を見失ったのだ。


「お客様。主人はお客様の滞在を許可されました。部屋へ案内します。どうぞごゆるりとおすごしください」

「え、ええ。ありがとうございます」


 音もなく現れた少女に驚きながらも男は少女のあとについて歩く。案内された部屋も豪奢なものだった。きっとこの館の主は相当な金持ちなのだろう、と男はますます笑みを深くした。


「案内をありがとう、お嬢さん。ご当主にもお礼を伝えておいてくれ」

「はい。この部屋でどのように過ごされても構いませんが、地下にある北の間には決して入らないようお願い致します。すぐにお食事をお持ちいたします」

「ああ、わかった。なにからなにまで本当にありがとう」

「お気になさらず」

 扉を閉じようとする少女に男は待ったをかけた。


「ご当主に是非ともお礼が言いたいのだが、お会いできるだろうか」

「いいえ」


 きっぱりと少女は言い切った。


「主様はどなたにもお会いになりません。失礼致します」

 表情を微動だにせずお辞儀をした少女はやはり音もなく男の視界から暗闇へと消える。取りつく島もないとはこのことだ。扉の閉まる音に何故だか気味の悪さを覚えた男は二の腕を擦った。


「よほど偏屈な奴らしいな。まあいい。顔を見られずに済むに越したことはないからな」


 部屋を手早く家探しした男は見つけた風呂で温かい湯を堪能した。すっかり温まって風呂を出ると夕食が届いている。いつの間に、と驚きつつも男はぺろりとそれを平らげた。あの使用人は人間に見えたが古い屋敷に居着いて住居の手入れや住人を手助けするという屋敷妖精なのかもしれぬ、と男は子どものころ聞いただけの話を思い出した。

 夕食を食べ終わり食後のワインを楽しんでいると部屋の扉を叩く音がした。


「お客様、夕食はお済みでしょうか。食器を下げに参りました」

「ありがとう、美味しかったよ」


 扉を開ければいたのはやはり少女だった。男は精一杯愛想を良くするのだが、少女には少しも響いた様子がない。警戒されているのか、人見知りなのか、判断は付かなかった。


「それではお休みなさいませ」


 素早く後片付けを終えた少女はやはり闇に溶けるよう消えた。

 ベッドに体を投げ出して、今まで横になったどの寝台よりも寝心地の良いそれに驚く。睨んだ以上の大金持ちだ、と男は期待に胸を膨らませた。


 ──深夜。

 男は仮眠から目を覚ました。部屋を抜け出し、手燭の灯りだけを暗い廊下を進んでいく。

 見かける調度品はどれもこれも値の張るものばかりだ。入るなと言われた地下の北の部屋にはいったいどれだけの宝があるのだろう。逸る気持ちを押さえて男は静かに歩いていく。暗闇の中を進んでいくと、地下への階段を見つけ、浮かぶ笑みを隠すことなくその階段を降りていった。

 軽やかな足取りで辿り着いた地下はやはり暗い。そして空気がひんやりと冷えていた。

 上階はそうでもなかったのに、と男は首を竦めた。音も立てず北へ北へと進んでいく。その内に一番北の部屋に行き着いた。

 重厚な扉に細工は見られない。高価、というより頑丈さに割りふられた扉だ。この頑丈さでもって中の宝を守っているのだろう。

 男は床に膝を付き商売道具を取り出した。懐から取り出したそれは男にとってどんな錠前でも開けられる魔法の道具に等しい。いつも通り鍵穴に差し込んだ。


「…………? 開いてる?」


 違和感に立ち上がり、疑問を覚えながらも男はドアノブを回した。


 ギィ。


 ドアは重厚な作りに相応しい重さで開いていく。隙間から中を除くが見えるのは暗闇ばかり。男は手燭を伴い部屋にするりと入り込んだ。

 内部は手燭で照らしていてもなお足元しか見えない。男は慎重に進んでいく。わずかな臭いに気づき、歩みが鈍る。どうにも獣臭い。この部屋は宝物庫ではなく動物の飼育部屋なのだろうか。まさかここにあるのは宝ではなく当主の愛玩動物なのだろうか。

 当ての外れた気持ちで男は一歩踏み出した。


 ぞわり。


 瞬間、肌が泡立つ。思わず、とっさに、一歩下がろうとした男だったが、それはできなかった。何者かに顔を掴まれ、持ち上げられる。宙に浮いた足がいくらもがいても床を蹴ることはなかった。

 顔に押し付けられた何かを外そうと男はあらん限りの力で抵抗したが、まったく外れる気配もない。

 嫌な汗が全身から吹き出した。まさか、魔物を飼っているのではなかろうか、それが今自分を持ち上げているのではないのか。

 男が悪い予感に身を震わせて、未だ顔を包んでいる正体不明の何かに破れかぶれで噛みつこうとすると、ふう、と生暖かい風が男の体を撫でて通りすぎていった。


「アレから話を聞いていないのか?」


 腹の底に響く重苦しい、低い声音だった。

 その声を発している者が自分の顔を掴んでいるのだ、と男は理解した。弁解しようにも男の口は塞がれていて、呻き声すら出せない。


「アレが言っただろう。地下にある一番北の部屋に入るなと」


 聞いた。確かに使用人の少女から決して入らないようにと言われた。

 男は今さらながら自分はなにかとんでもないことをしでかしてしまったのだと気付いて、体の震えも冷や汗も止まらない。


「この部屋に来ずに、夜が開けたらおとなしく出ていけばよかったのになぁ」


 なにか、恐ろしい、音がする。

 猫が喉を鳴らすような、犬があげる唸り声のような、けれど、もっとおぞましい、なにかの音が。

 ぷぅん、と漂ってきた部屋の空気よりももっと生臭い臭気と、湿った温かな呼気に男は目の前に何があるのか理解した。

 きっと、自分の目の前には口をあんぐり開けた化け物がいる。


「人の忠告はキチンと聞くモンだぞ、ニンゲン」


 それが男の耳にした最後の言葉だった。


タゼルは長い舌で口の周りの汚れを舐めとりながら廊下を歩く。灯りはひとつもないがタゼルの目には暗闇でもよく見えた。従者は眠っている時間だが知ったことでない。


「ロッテ! お前また忠告しなかっただろう!」


 獣の咆哮の中から辛うじて言葉が聞こえる、といった暴風にも似た雄叫びに、けれどロッテは起きなかった。すやすやと安らかな寝顔を晒している。怒鳴られるのはいつものことなので慣れてしまったのだ。

 まったくカワイゲのないニンゲンだぜ、とタゼルはロッテの上掛けを剥ぎ取った。やはり起きない。屋敷に居着いたばかりのころは震えていたものだったが、それもわずかな間だけで、今ではご覧の有り様だ。

 仕方なくロッテの襟首を掴んで揺さぶる。ここでようやく呻き声が上がった。しかしながら恐怖で上がったのではなく息苦しいから上がったものだった。


「ロッテ! 起きろ! お前のせいでまたクソ不味いモンを喰わなきゃならなかったんだぞ! 従者のフリすんなら形だけでも主人オレに従えや!」


 ぱちり、と目覚めたロッテはじっとタゼルの目を見据えた。

 数多の人間がただ見ることさえできないタゼルの目を見つめ続けられる人間をロッテ以外タゼルは知らない。おそらくこの人間はどこかおかしいのだ、とタゼルは了解している。

 でなければいつ自分を喰うかわからない化け物とひとつ屋根の下で暮らそうなどと思わないだろう。

 タゼルが戯れに腕を払っただけで死ぬはずなのだが、ロッテの目には恐れがちっとも見えやしなかった。単なる人間であるはずなのに、ロッテの目にはおよそ人間とは思えない暗さの底のない沼の様に黒いものが広がっている。


「お早うございますご主人様」

「まだ真夜中だよバカ」

「バカと言ったほうがバカなのだそうですご主人様」

「どこで覚えてきやがるんだ。本ッ当、口が達者だよなお前」

「ありがとう存じますご主人様」

「誉めてねえ」

「息苦しいので下ろしてくださいご主人様」

「お前の言うご主人様は鳴き声か何かと思うぜ」

 呆れのため息をひとつ、タゼルはロッテを下ろしてやった。ロッテはベッドの上にこぢんまりと座る。

 ロッテは今よりももっと小さく細い時分に独りで森にいたところを切紛れにタゼルが拾ってきた。あれから何年か経ったが変わったのは図体だけで、泥沼よりひどい濁り目も態度もなにひとつ変わらない。出会ったときからずっとロッテは不遜だった。

 それでもタゼルがロッテを生かしておくのはいれば生活が便利だからだった。欠くことのできない生活必需品。それがロッテだった。

 だからといって生涯側に置いておく気は毛頭ない。いなくなったらなったで、ロッテを拾う前の生活に戻るだけだ。自分で面倒を片付けるか、ロッテに面倒をかけられるかの違いでしかない。

 ロッテにはもちろん余さずタゼルの考えを伝えてあるのだが、ロッテが屋敷から出ていく気配はなかった。毎日毎日、飽きもせず同じ生活を繰り返している。

 いったいいつまでこの人間はここにいるつもりなのだろう。タゼルは重苦しい気分を吐き出すように溜め息をついた。

 ずっとこのままでいられるはずないのに。

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