第10話
その時の生市の表情をどう言い表したらよいのだろう。
それはまるで紫桜のことを、試しているようであり、からかっているようであり、憐れんでいるようでもあった。一言で紫言い表すなら、紫桜のことを見下していた。
まるで一段上の領域から紫桜のことを見て、それで桜の言葉や行動を全て見通しているような、そんなある種の優越感のようなものを、その時の生市は語っていた。
当然ながら、そんな表情を浮かべられて紫桜の気が良いはずもなく、思わずむっとして生市を睨みつけたが、生市は紫桜に構うことなく話を続けた。
「あの爺さん、アホだし、調子いいし、気前よく見えるけど、あれで話は中々通じない。やっぱ、そこは神なんだよ。人とは考えの物差しがやっぱり違う」
「その上で、北斗の神はそれに輪をかけて気位が高い。会うどころか、一目見て生きて帰れるだけでも御の字だぜ?ましてや、そんな相手と碁を打ちたいだなんて、狂気の沙汰だ。命が幾つあっても足りやしない」
「そんな、僕は別に碁を打ちたいという訳じゃ。ただ、できれば一目会って話を」
「じゃあ打ちたくねえのかよ?」
思わず声を上げた紫桜の言葉を、生市は一言で黙らせた。
言われて初めて気が付いた。いや、本当は気づいていながらも、気づかないふりをしていたことに気づいた。
紫桜は、南斗の神や北斗の神と碁を打ちたかった。だからこそ、この家に再び来たのだ。
それなのに関わらず、そんな自分の心境を表に出すこともせずに、生市の前に素知らぬ顔で現れたことが異常に恥ずかしくて、羞恥心の余りに顔が茹で上がるほどだった。
そんな紫桜の様子を生市は軽く鼻で笑うと、暫くの間黙り込んでいたが、
「……そんなに味わいたいなら、一遍味わってみるか?神の領域って、奴をな」
そう言った。
「え?」
「俺の知り合いに、
生市はそこまで言葉を切ると、今まで紫桜に向かって浮かべていた見下すような笑みを引っ込めて、真面目な顔で紫桜を見た。
「分かるかどうかはお前次第だ。七種さんと碁を打って、心変わりしないんだったら、北斗の神に合わせてやってもいい」
「それは……、一体どういう意味だい?」
今まで見たこともないほどに真面目な顔をする生市の様子に、思わずしり込みしながら紫桜が質問すると、生市はさあ?とはぐらかすように口を開いた。
「仮にも俺が神と呼ぶ人だぞ?そいつは、会ってみて、打って話してみなければ、分からないというものだろうさ」
そう言うと生市はスマホを取り出して、紫桜に見せつけるように突きつけた。
「どうする?お前が望むなら今すぐ連絡してみるけど?」
その言葉に紫桜は半ば反射的に応えた。
「分かった。頼む」
「OK。んじゃ、今からDM送るわ。碁を打つとして、何時に予定を入れる?」
スマホを弄りながらそう訊いてくる生市に、紫桜は間髪を入れずに答えた。
「その七種さんが何時でも相手にしてくれるなら、できれば今すぐ碁を打ちたいかな。スマホを持っているんなら、アプリで対戦できるだろうし、って……何その眼?」
不意に、今までの真面目な顔とも、見下したような表情ともまた違う、どこか信じがたいものを見たような表情で睨みつけてくる生市の顔に、思わず紫桜は顔をしかめた。
しかし、生市は「別に」とだけ言いうとスマホを弄ってDMを送った。
「……あとは返事待ちだな。ただ中々剛毅なことを言うじゃないか。仮にも俺が神って呼んでる人を相手に、今すぐ打ちたいとはな。さすがプロは違うぜ」
「随分と嫌味なことを言うじゃないか?」
紫桜が思わずむっとして言い返すと、生市はそんな紫桜を鼻で笑いながら畳間に寝転がった。
「普通は、自分の都合を告げるより、相手の予定を聞くもんじゃねえの?知らんけど」
「それは……」
「ま、プロならお伺いを立てられる方だし、実際に普通なら俺たちの方がお前の予定を気にするべきだから、何も問題はないんだけどさ。あ、そうかプロ棋士の立花先生は今日の御予定はいかほどの物でございましょうか?一体、俺達のような暇人とこんなところで無駄話をしていても大丈夫なのでございましょうか?」
如何にも嫌味な口調と表情でそう言う生市に、紫桜も自分が少し図に乗っていたと思い立ち、言い返すこともな黙り込んだ。
すると、生市はそんな様子の紫桜に対して、畳みかけるように尚も嫌味を口にしながら起き上がった。
「おっとっと。申し訳ございませんでしたねえ。こちとら一般人でございましたから気づきませんでしたが、プロ棋士様を前にして寝ころぶなんてはしたない真似をしてしまいました。申し訳ない申し訳ない。申し訳ないついでに、こんな汚い家で申し訳ない。プロ棋士の立花様がいらっしゃるとわかっていたのなら、掃除の一つもできたのでございますがねえ」
紫桜が何も言い返せないと知った上で、これ見よがしに嫌味を言いながら、当てつけのような身振り手振りをする生市に、思わず紫桜が拳を握り締めた。
その時、生市の背後にやって来た紫が、勢いよく生市の頭の上にからお盆を叩きつけた。
「痛ってえな!何しやがるテメエ!」
「やりすぎ。嫌味を言うなら少しはやり返される用意はしなさい。弱みを握った相手に、言い返せない状況で生意気言っているだけなのは、ダサいわよ?」
紫の言葉に生市は軽く舌打ちすると、「わーったよ」と言って紫桜に頭を下げた。
「俺が悪かった。流石に調子乗り過ぎだった。ほら、これでいいか?バカ野郎」
「何その態度?誠意が足りなくない?それは謝っている人の態度じゃないでしょ?」
「言い返させない相手に生意気言うのはダサいんじゃなかったのか?」
紫の言葉に悪態をつきながらも、生市は流石に反省したのか、紫桜に「悪かったよ」ともう一度言うと、ちゃぶ台の上に置かれた茶をすすった。
「まあ、座れよ。とりあえず、俺としてはお前が何時七種さんと打とうが構わねえが、できればアプリ越しはよしといたほうがいいと思うぞ」
「それはまた何で?確かに僕の態度は失礼だったかもしれないけど、アプリで対局するのまで悪いとは思えないんだけど」
「そこは大した理由じゃねえ。画面越しの対局よりも対面で顔を突き合せた方が分かることは多い。それはプロであるお前の方がよく分かっているんじゃねえのか?」
その言葉に紫桜は一も二もなく同意した。
確かに、同じ対局でもモニター越しのオンラインと、直接対面しての対局とではまるきり意味が違う。
同じ一手でも、モニターの一手と対面の一手とでは、じかに触れる情報が違うからだ。
相手の表情、呼吸、態度、温度、匂い、音、それらの全てが作り出すその場の空気が、通常の脳とは違う回路を働かせる。
その空気こそが、まさしく勝負の空気だ。
後から振り返れば何故そんな初歩的な、と思えるようなミスをすることもあるし、逆によくこの状況で思い立てたなと思う一手を繰り出すこともある。
それは全てその空気に呑まれてのことだ。
そう言う意味では、純粋な棋力だけがモニター画面に反映されるオンライン越しの対戦の方が、純粋な対局と言える。
ただ、プロの世界では勝負の空気に呑まれない精神力こそが求められる。
そしてそれこそが、紫桜の求める囲碁の道である。
そう言う意味では、確かに生市が一目ほどの相手との対戦は、対面での対局が望ましい。
ただ、それには問題がある。
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