第5話



 石を握るというのは、簡単に言えば石の数当てゲームだ。


 対局する片方の人間が白石の入った碁笥の中に手を入れて石を握り掴み、片方はその握られた白井市の数が奇数化偶数化を当てる。その際、握られた石が奇数であると思えば黒石を一つ置き、偶数であると思えば二つ置く。奇数か偶数かを当てられれば、当てた方が先攻である黒石を打つことになる。

 今回紫桜は黒石を二つ置いたので、生市が握った白石が偶数なら紫桜の先攻だ。

 果たして、生市が握りしめた白石を碁盤の上に並べると、その数は十三だった。

 すると、自分が先攻になった生市は、白石を碁笥の中に戻しながら紫桜にとって信じがたいことを言い放った。

「俺が黒か。なら、コミは八目半でいいな」

 その瞬間、紫桜は思わず信じられないことを聞いた思いで生市の顔を見た。

 本来、囲碁と言うのは先手を務める黒が有利なゲームである。

 どれだけ黒が有利かと言えば、およそ七〇パーセントの確率で黒が勝つと言われるほどだ。

 そこで、昭和以降、囲碁の公式戦では黒にはハンデとして、白には先にある程度得点をつけることになっている。

 日本の囲碁界では主に六目半のハンデを着けることで白と黒の勝率を対等にまで引き下げているが、それでも尚、若干黒の方が有利である。そのため、海外では七目半のハンデを着けるのがスタンダードとなっている。

 だが生市は、それよりもきついハンデである八目半を着けると言い切った。

 それも、プロである紫桜を相手にしてだ。


「……いくら何でもやりすぎじゃないか?プロを相手に八目半の縛りを着けて勝てるとでも思っているのか?」


 はらわたの底から湧き上がる、ふつふつとした怒りにも似た感情を押し殺しながら紫桜が言うと、生市はにやにやと笑いながら言い返した。


「さあ?どうだろうな?勝てるかもしれないし、負けるかもしれない。まあ、でも。プロからすりゃあ、引っ込めてほしいか?何しろ自分から喧嘩吹っ掛けておきながら、八目半もハンデを着けて負けりゃあ、言い訳の立つ瀬もねえもんな」


 絵にかいたような挑発だったが、それは返って紫桜の頭を冷静にさせ、そして同時に、生市に対する敵愾心と闘争心をより強く固めた。


「なら、君の言う通り八目半のコミを着けさせてもらうぞ?」


「俺から言い出したことだから、別に構いやしないよ。持ち時間とかは設定する必要もねえか。とっとと打って終わらそう」


 そう言うと生市は、ぱちりと音を鳴らして黒石を盤上に置いた。

 囲碁のルールを簡単に説明すると、石で囲んで陣地を作り、それを広げるゲームだ。

 黒と白の二色の石を使い、黒は先手が、白は後手が使うことは先に述べた。

 石は縦横に線が引かれた碁盤の線の交わる点に置き、そうして取り囲んだ交点を自身の陣地とする。

 その際、相手プレイヤーの使う石を自プレイヤーが囲むことで相手の石を取ることができ、相手の使う石を取れれば、その分だけ陣地を広げることができる。

 従って、基本的にはこの石を取り合うことがゲームの一つのルールになるが、同様に白黒のコマを使うリバーシや、囲碁と並ぶ日本の伝統遊戯である将棋とは違い、この白と黒の石は、相手から取った石を使うことはできないというのがこのゲームの特徴になる。

 また、ここで注意するべきは、囲碁の勝敗の決着は相手の石を取った数ではなく、あくまでも陣地の広さによって決着するという点である。

 相手の石を取るのはあくまでも陣地を広げる手段でしかなく、これ自体が勝負の行方を決めるわけではない。

 勝敗の行方を決めるのは、自分の使う石で囲んだ交点の数である。

 そして、自分が広げた陣地のことを地(じ)と呼び、その地の数を目という単位を使って表す。

 先に述べられた八目半のコミとは、すなわちこの地を八目ないしは九目分の陣地を相手に渡すということであり、このあたりは実力が拮抗している場合は相当に不利な状況ということになる。

そのため、コミを導入しての碁である場合、先手である黒石はリードを取り返すために積極的に攻めに入り、後手である白石は先に付けられたリードを守るために、守備を固めることが定石とされる。

 そして、実際に黒石を握った生市は果敢な攻めを繰り出しており、こちらが気を抜けば一瞬の内にでも戦局は生市に傾くだろう。

 最初にプロを相手に八目半の縛りを着けると言ったのには苛立ちを抑えきれなかったが、いざ打てば、プロを相手に言うだけのことはある。そう思わずにはいられない実力を持っていた。

 そうして、紫桜が目の前の碁盤に向かって集中していると、


「この碁は、まるで桜竜だな」


 目の前の生市は、不意にそう口を開いた。

 一瞬、何を言われたのかわからずに顔を上げると、黒石を右手でいじりながら、今までになくまじめな顔をした生市の姿があり、思わず先ほど言われた言葉を訊き返していた。


「桜竜?」


「ん?ああ、聞いてたのか。桜の巨木に宿る、美しい竜だ。白く淡い体色に翡翠の七支刀を持ち、風をまとって花を散らす。月の光の中に生きる、美しい竜だ。お前の碁は、そう言う魅せる碁だな」


 何となく訊き返しただけの紫桜の疑問に対して、生市は顔色一つ変えることなくあっさりとそう言い返した。

 思わぬ誉め言葉に、つい紫桜は返答に困った。

 その詩的な表現は、今までの生市の様子からかけ離れすぎて居て、まるで気持ち悪さすら感じられた。まさか、そんなことを素直に言う訳もいかず、思わず曖昧な苦笑を浮かべた。


 その時だった。


「だが、驚くほどに弱い」


 そう言いながら、生市は黒石を置いた。


「桜竜とは弱い竜だ。雷撃の斬撃に耐えられぬ、脆く儚い哀れな竜だ。そう言う、美しさの代わりに強さを捨てた竜だ。お前の碁は、まさしくそう言う碁だ」


 その評価に思わず頭にきた紫桜は、強い口調で生市に食って掛かった。


「随分なことを言うじゃないか。なら、僕がその桜竜だとして、じゃあ君の碁は一体何なんだ?梅の虎か?牡丹の獅子か?それとも菊の鳳凰か?随分と自分を高く買っているんだな」


 すると、生市は口元をわずかに上げながら、得意げに鼻を鳴らした。


「決まってるだろ。ルドウイークだ。呪われた、醜い獣。かつての勇猛なる剣士にして、心折れた狩人。だが強い。少なくとも、お前よりはな」


 その言葉と共に、生市の本当の猛攻が始まった。

 一手一手に迷いがなく、間髪を入れずに打つ生市の碁は、全てが全て一見すれば悪手にしか見えず、その場では紫桜には何の意図があって繰り出されるのかまるで意味が分からない。

 しかし、十手先、二十手先で、それぞれの石がまるで未来でも予知していたかのように紫桜の打つ手を潰していき、確実に紫桜の持つ地を削り取っていく。

 気付けばあれだけ必死に守っていたリードは瞬く間に埋まってしまい、遂には逆転されてしまった。

 そしてその時点で、勝敗は半ば決していた。

 状況としてみれば、あくまでも一時的な逆転でしかない。打つ手によってはここから更に逆転することはできるだろう。

 だが、ここまで打てば理解できる。いや、理解させられる。

 逆転など、目の前の相手は絶対に許さない。いや、むしろ、ここから更に攻めの姿勢を強くして、今着いた差をますます広げるようにするだろう。

 それが分かり、分かるからこそ、紫桜は石を置くこともできず、声を出すこともできずにただ、逆転した盤面に視線を落とすことしかできなかった。

 それほどまでに、生市と紫桜の実力には開きがあった。

 圧倒的な強さの前に、うつむく事しかできない紫桜に対して、生市は何も言わずにしばらく座っていたが、やがて深々とため息をついて声をかけた。


「さすがにそろそろ部活も切り上げる時間だ。悪いけど、後五秒以内に石を打たないなら俺は帰るぞ?」


 その言葉に、紫桜は一瞬、びくりと肩を震わせて、のろのろとした動きで白石を置こうとするが、結局はどこにも石を置くことができずにその手を下げることしかできなかった。

 それを見た生市は、がたっ。と音を鳴らして椅子から立ち上がると、折り畳み式の碁盤と碁石を片付け始めた。

 やがて全ての道具を片付けた生市は、未だに白石を一つだけ握りしめている紫桜にむかって、じゃあな。と声をかけると、紫と若葉に声をかけて教室を出ようとした。

 その時だった。 



「待って!待ってくれ!」



 突然、紫桜は弾かれたように椅子から立ち上がり、教室を出ようとする生市の腕を掴んで、無理やり引き留めた。


「次、次もまた僕と打ってくれないか?明日にでも。いや、明後日でもいい。もう一度、頼む」


 生市の腕を強く掴みながら、まるで縋りつくようにそう言う紫桜に対して、生市はその腕を振り払いながらため息交じりにその頼みをすげなく断った。


「あのなあ。明日は修了式で、そのあとは冬休みだ。何でわざわざお前の相手をしなきゃいけないんだよ。こっちも色々と予定が詰まってんだよ。いきなりお前に合わせる理由はねえぞ?」


「じゃあ、休みが!休みが明けたら!」


「休みが明けたら受験だろうが。頭のいいお前とは違って、俺みたいなバカはギリギリまで勉強しても志望校に受かるかわからないんですけど?後、先回りして言うけど、受験が終わったら、そもそも学校で碁を打つ理由ねえからな」


 紫桜からの提案に対して、尽くのらくらとした態度で決して紫桜からの提案に首を縦に振ろうとしない生市に、思わず紫桜は怒鳴り声をあげた。


「どういうことだ、亘・生市。君は強い!プロである僕ですら太刀打ちできないほどに強い!それだけの碁の実力を持ちながら何故、そこまで碁に情熱を注ぎながら、何故そんなに適当でいられるんだ!」


「だから言ってんだろう。個人のつーか、家庭の事情だ。これ以上何言えっつーんだよ。つーか、もういいだろう。お前の望み通りに碁を打った。勝負は俺の勝ち。これで話はおしまい。何でお前は俺にそうまで突っかかるんだ」


 生市からの指摘に対して、紫桜は何も言い返すことができず、ただただ黙って唇を噛みしめることしかできずにいた。

 すると、そんな紫桜を見かねたように、紫桜の右肩に手を置きながら、紫が生市に話しかけた。






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