[6-6]個人レッスンとドキドキハプニング

 月夜見つくよみ祭の準備も学校以外のことも、ぜんぶ順風満帆だった。

 ピアノの練習はうまくいっている。河野かわの先生は教え方が上手でよく褒めてくれるし、改善点を的確にわかりやすく教えてくれる。最初は音が飛んでいたり途切れ途切れだった演奏が、練習を重ねるたびに上達していくのを感じた。


 わたしがピアノの練習に追われている間、アルバくんは雪火せっかに協力を仰いで妖力を補充する方法を見つけたみたい。悪夢を食べず済むから身体に悪影響もないってことで、一安心だ。ほんとうによかった。

 その話の流れなのかもしれないけれど、アルバくんは雪火せっかのハーブショップの手伝いを始めた。妖力を補充できる場所は雪火せっかの家の近くだから都合もいいらしくて、今日は授業が終わるとすぐに二人で家に帰ってしまっている。アルバくんは義理堅いところがあるし、きっと恩義に感じてそうしたいと申し出たのかも。あと純粋にお金を稼ぎたかったのもあるんだと思う。


 なにもかも、すべては順調だった。たった一人、雨潮うしおくんを除いては。


雨潮うしおくん、ここはもう少し音を低くした方がいいよ」


 わたしは一緒に練習するまで知らなかったのだけど、実は雨潮うしおくん、かなりの音痴らしい。河野かわの先生は知っていたみたい。

 楽譜の読み方を教えてって頼んできた時はびっくりしたけれど、妙に難しい顔をしていたのはそのせいだったのね。

 わたしがピアノの音を出して、河野かわの先生が雨潮うしおくんの歌を聞いて音程が取れてるか確認する。ここのところ毎日、放課後の練習に付き合っているものの、彼の音痴はなかなか根深く、改善しなかった。


「わかった。努力してみる」


 最初は不満そうにしていた雨潮うしおくんだけど、練習には真面目に取り組んでいる。少しずつ上手にはなってきてるんだよね。

 だからこそ先生も練習には付き合ってあげているし、わたしも力になってあげたい。苦手なものって放り出したくなるの普通だと思うもの。


「そろそろ休憩にしましょうか」

「そうですね」


 先生はよく細かい休憩を取ってくれた。

 もともと音楽が好きなわたしはともかく、雨潮うしおくんは決して根を上げなかった。彼の性格もあるのだろうけれど、歌が苦手な雨潮うしおくんが無理なく練習を続けられるのは先生のこういう気遣いがあるからなのかも。


「先生は近くのコンビニでお菓子とお茶を買ってくるから、三重野みえのさんは紙コップを準備してもらえる? 準備室の棚に買っておいたのがあると思うから」

「わかりました」


 教壇の上に置いてあったバッグを持って、音楽室から出て行く前に先生はそう言った。

 小夜さよちゃんを抱っこしている久遠くおんさんも連れ立って出て行く。三人で休憩用のお茶買ってきてくれるみたい。


あやちゃん、またコンビニ行くの? 今日こそパパのお人形当たるといいねっ」

小夜さよちゃん、それはここではしーっ、だから!」


 弾んだ小夜さよちゃんの声に続いて、焦ったような先生の声が聴こえてきた。

 うん? 久遠くおんさんのお人形ってなんのことだろう。コンビニにそんなものあったっけ。

 よくわからないけれど、機会があったら今度先生に聞いてみよう。


 それよりも、先生たちが買い出しに行ってくれている間に、わたしはお茶休憩の準備をしておかなくちゃ。


「わたし、紙コップ取ってくるね。雨潮うしおくんはちょっと待ってて」

「ああ、わかった」


 黒板の右端にある扉を開けると、そこが音楽準備室だ。

 窓際には先生の事務机があって、室内はきれいに整理整頓されていた。この分なら紙コップはすぐに見つかりそう。ええと、どこにあるのかしら。


 部屋を見渡してから、わたしはすぐに目当てのものを見つけた。本棚の上にビニール袋に入った紙コップが乗っかっている。

 腕を伸ばして背伸びもしてみたけれど、全然届かない。どこかに踏み台でもあればいいのだけど。


 少し探してみると、脚立を見つけることができた。畳んであったそれを起こして、安全の留め具をしっかりとかけて倒れないようにする。

 高いところはこわくない。だから、あまり深く考えずに脚立に登ったのだけど。

 なぜか、ふと気になってしまった。

 制服のスカートは極端に短くはしていないけれど、膝上くらいの長さで、少し短めだ。もしかしたら誰かに下からのぞかれると、見えちゃうかもしれない。


 ——って、わたしってば何考えてんの!

 今、準備室にはわたししかいないじゃない。早く紙コップを取って、音楽室に戻ろう。いつまでも雨潮うしおくんを一人で待たせるわけにはいかないし。


「うーん、もうちょっと!」


 腕を伸ばすと、ビニール袋をつかむことができた。中に入ってる紙コップは封が切られてないみたいで新品だ。

 よし、これでとりあえずミッションは達成ね。


 ほっとひと息をつき、わたしは脚立を降りようとした時だった。

 ふいに準備室のドアが開いて、銀の人影が入ってくる。


三重野みえの、紙コップ見つかっ——」

「え、うそ! きゃあっ」


 声をかけられた瞬間、わたしはひどく動揺した。中が見えちゃう、とっさにそう思って急いで下りようとしたの。それがいけなかったんだ。

 見事にずるっと脚立から足を踏み外し、世界がぐるんと斜めに傾く。

 しまったと思った時にはすでに遅かった。


紫苑しおんっ」


 目を閉じる寸前、たしかにそう名前を呼ばれた気がした。


(……あ、あれ?)


 ものの見事に脚立から落っこちたはずなのに、ちっとも痛みを感じなかった。

 すぐに目を開けてから、すぐにわたしは事態を飲み込んだ。

 床に投げ出されたはずの身体はある人の上に乗っかっていて、気がつくとわたしはたくましい腕の中にいたのだ。


 視線を巡らせると、倒れた脚立が見えた。


 一瞬のうちに起きた出来事を思い返し、わたしはすぐに起き上がろうと思った。

 もしかして、今わたしは雨潮くんの腕の中に——。違う、そうじゃない。もしかしなくてもわたしってば、雨潮うしおくんを下敷きしちゃってるんじゃない!?


「ご、ごめんなさいっ! 雨潮うしおくん大丈夫!?」


 とっさだったからか、さっきは苗字ではなく名前を呼ばれたような気がする。けど、そんなこと気にしている場合じゃないわ。

 すぐに雨潮うしおくんの上から下りて、彼の顔色を確かめてみた。


 雨潮うしおくんはいつもと変わらず、平然とした様子でむくりと起き上がっている。軽く握った拳を口もとに添え黙り込んでいた。なにか考え事をしているんだろうか。

 見たところ青ざめていないし、血色は悪くない。でも見ただけじゃ怪我がないかどうか分からない。


「痛いところない? 絶対強く打ったよね!? 今からでも保健室に——」


 一度、先生に診てもらおう。そう言って雨潮うしおくんの腕を取ろうとした瞬間、逆に彼はわたしの手首をつかんできた。

 強い力じゃない。振り払おうと思えば振り払えるくらいの、やんわりとした力。

 なのに、わたしはとっさに振り払うことができなかった。


(え、なに。どういうことなの)


 身体中に動揺が走る。

 雨潮うしおくんは真顔で、赤いルビーみたいな両目をわたしに向けていた。

 まっすぐな視線はどこか真剣な雰囲気で、思わず心臓が跳ね上がる。


 わけがわからない。どうしちゃったの。まるで強い意思を宿したような瞳だった。こんな雨潮うしおくん、初めて見る。

 先生たちは買い出しに行っていて、音楽準備室に二人きり。その事実が、心臓の鼓動を早めていったのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る