[5-8]天狗の采配と握り飯

紫苑しおんばく、いつまで突っ立ってんだ。いい加減に中へ戻るぞ」


 久遠くおんさんが呼んでる。

 制服と髪を濡らしたまま、雨潮うしおくんは彼の隣に立っていた。口を引き結んでいて不満そうに見えるけれど、無表情だからどう感じているのか読めなかった。とりあえずは落ち着いたのかな。


「あいつ、またおれのこと獏って言ってやがる」


 隣でも同じような顔でアルバくんが不満をもらしていた。眉間にシワができてないから怒ってはいないんだろうけど、納得いかないって感じだ。

 でも久遠くおんさんってわたしのことはちゃんと名前で呼んでくれるんだよね。


「ねぇ、アルバくん。久遠くおんさんにちゃんと自己紹介した?」

「あ」


 口をぽかんと開いて、鋭い藍色の瞳が丸くなる。

 そう、アルバくんってまだ久遠くおんさんに自己紹介してないんだよね。

 九尾きゅうびさんには名前で呼ぶように自分で言ってたくらいだから、あやかしが名前をもつことは特別だと思っていると思うの。意地悪するほど悪いひとにも思えないし。教えてもらってないんだったら、そりゃ名前で呼べないもんね。


「少年、お前は雪火せっかに言って風呂を貸してもらえ。ちゃんと自分で言えよ」


 ほら、やっぱり雪火せっかのことも名前で呼んでるもの。雨潮うしおくんだって久遠くおんさんに自己紹介してないから少年呼びなのかも。


「俺が雪火せっかに怒られるじゃないか」

「怒られるようなことをしたのはお前だろ」

「……分かった」


 眉を寄せつつも久遠くおんさんが言うことにはあまり反論せず、雨潮うしおくんは髪の毛や指先からしずくをしたたらせながら雪火せっかの家へ戻っていった。

 びしょぬれだしあのまま家の中に入るわけじゃないんだろうけど、どうするつもりなのかな。玄関で雪火せっかを呼ぶんだろうか。


 そう思ったのも束の間。玄関のドアを開けたと同時に九尾さんの「迎えにきたよぉ!」という嬉々とした声が聞こえてきた。さすが九尾さん、外での様子を把握していたみたい。「うわあっ、寄るな!」って雨潮うしおくんが珍しく叫んでるんだけど、大丈夫かな。


「あとは獏、お前だが——」

「アルバだ」

「ん?」

「おれには紫苑しおんからもらった、アルバという名前がある。呼ぶならそっちで呼んで欲しい」


 アルバくん、ついに自分から自己紹介した。

 たぶん久遠くおんさんはアルバくんから挨拶してくるのを待っていたんだと思う。うれしそうに口の端を引き上げ、その大きなてのひらをアルバくんの頭にのせた。


「よしよし。俺様は素直な子は好きだぜ?」

「なでんな! お前、おれを小動物かなにかと思ってるだろ!?」


 久遠くおんさんの手にかかればアルバくんも小さな動物、ううんやっぱり猫なんだろうか。わたしのせいでもあるけど、今のアルバくんって猫だもんね。

 大きな翼をもっているせいか、久遠くおんさんは背が高い。

 寸前のところですっと避けたからなでられるのだけは回避できたみたい。細長い尻尾の毛を逆立てて、アルバくんは怒っていた。


 それでも久遠くおんさんは悠然とした笑みを崩さない。


「ははっ、バレたか。まあいい。とりあえずお前はこれでも食っとけ」


 そう言って久遠くおんさんが懐から取り出したのは笹の葉で包まれたなにかだった。

 ぐいっと突き出されるままにアルバくんは受け取る。中を開いてみると三角おにぎりがひとつ入っていた。白いつやつやのごはんで海苔が巻いていてとってもおいしそう。


「握り飯……?」

「アルバ、お前の刀が折れたのは妖力が弱ってるせいだ。あやかしの妖刀ってのは、自前の妖力をって作り出すもんだからな。飢えはしないまでも、身体に十分な妖力がたまってない状態で妖刀を出したら、そりゃ折れるに決まっている」

「……ああ、その通りだ」


 固い表情でアルバくんは頷いた。


 そっか。どうしてアルバくんの妖刀が折れたのかわからなかったけど、もともと彼の刀自体が折れやすくなってたのね。

 夢は獏にとっては食糧だもの。現状、アルバくんは悪夢しか食べることができない。ここ最近はわたしもいい夢しか見なくなっちゃったし。仮に悪夢を見たとしても、悪いものばかり食べてたらまた邪気がたまっちゃう。

 ちゃんと食事していないような状態だから、アルバくんの力は弱ったままなんだ。


「だから聞いただろ、ちゃんと食ってんのかってな。それは小夜さよにも食わせてる、俺様の妖力を練り込んだ握り飯だ。しのごの言わずにちゃんと食っとけ」

「悪い。恩に切る」


 ちゃんとお礼を言って、アルバくんはその場ですぐにおにぎりを食べ始めた。

 食べているのを見てる限り、どこをどう見ても普通のおにぎりだわ。今朝見たのがおにぎりを食べる夢だっただけに、ついつい見てしまう。わたしたちが食べるものとあまり変わらなさそうなのに、アルバくんにとって栄養になるなんて不思議な感じ。

 わたしも、久遠くおんさんみたいに普通の料理に妖力を練り込むことができたらいいのに。そうしたら、もっとアルバくんの役に立つことができるのに。


久遠くおんさん、ありがとうございました」

「大したことはしてねえよ。それより早く中に戻ろうぜ」


 にやりと笑って、久遠くおんさんはわたしとアルバくんを促してくれた。ほんと彼って気のいいひとだよね。

 後ろをついて行きながら、ふと気付いた。わたし、まだ久遠くおんさんの羽団扇はうちわを握りっぱなしだったわ。もう喧嘩の騒動は終わったんだし、返さなきゃ。きっと大事なものだろうし。


久遠くおんさんっ」

「どうした?」

「あの、この団扇もお返しします。ありがとうございました!」

「ああ。大して出番もなかったけどな」


 両手で羽団扇を差し出すと、久遠くおんさんは機嫌よく笑って受け取ろうと手をのばした。

 その寸前。横からアルバくんがたくましい腕をのばして、久遠くおんさんの手を遮ってしまった。


「アルバくん?」

久遠くおん、悪ぃけど。この団扇、しばらく紫苑しおんに貸してやってくれないか?」


 今度はどうしちゃったの、アルバくん。


「大天狗の羽団扇は持っているだけで妖魔退散の効果がある強力な武器だ。だからお前はおれと千秋の喧嘩を止める前に紫苑しおんにあずけたんだろ? 万が一のことが起こった時、こいつに身の危険が及ばないために」


 久遠くおんさんは黙ってアルバくんの言葉に耳を傾けているようだった。

 この羽団扇って武器なの? ってことは、アルバくんや雨潮うしおくんが使う妖刀とそんなに変わらないものなのかな。

 だた、喧嘩を止めるのに邪魔だからあずけられたと思っていたわ。


「一度も襲撃がないから、もしかするとただの勘違いかもしれない。まだ確定じゃねえけど、紫苑しおんが危険なあやかしに狙われてるかもしれねえんだ」

「危険なあやかしだと?」


 青の瞳を細めて、久遠くおんさんはやや食い気味に尋ねてきた。どうやら興味を持ったみたい。

 娘の小夜さよちゃんや河野かわの先生という奥さんがいるだけに、久遠くおんさんは危険なあやかしの存在は把握しておきたいのかもしれない。


「認めたくないが、おれはただの獏だ。夢の中ならともかく、現実世界ではあまり強く出ることができねえ。だから、その羽団扇を紫苑しおんに貸してやってくれないか。それがあったら、どこかにひそんでいるぬえの目だってかいくぐれるかもしれないだろ?」

「……アルバくん」


 まっすぐに久遠くおんさんの瞳を見返して頼み込むアルバくんの顔は、真剣そのものだった。本気でわたしのことを心配して、よく考えてくれてることがわかって、胸のあたりがあたたかくなる。

 もしかしてさっき沈んだ顔をしていたのは、自分の実力のなさ、ううん現実そのものを突きつけられたからなんだろうか。


「ちょっと待て。お前今、鵺と言ったか?」


 ふいに、久遠くおんさんの声のトーンが低くなった。

 ざわりと胸の中が騒がしくなる。予感がしていた。


「ああ、言ったけど……。もしかして、お前」

ひそんでいるって言ってたな。あのいけすかねえ野郎ならよーく知っているぜ、アルバ」


 悠然の微笑みは突然に崩れた。久遠くおんさんは眉を寄せ、端正なその顔を不快と言わんばかりに歪ませる。

 ピリピリとした空気が肌に刺さる。寒気さえしそうなこの感覚には覚えがある。殺気だ。


「鵺は俺様がこの世で最も殺してやりたい存在だ。なにしろ、小夜さよの母親を殺した仇なんだからな」

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