[5-7]天狗の羽団扇とバケツの水
やわらかな風が頬をなでた。
カラスの羽を思わせる
ふわりと身体が宙に浮いた。
背中に腕を回されていて、目と鼻の先には
先生の旦那さんだからかな。異性のひとなのに、抱き寄せられても不思議と怖くなかったし、ときめきも感じなかった。
やわらかく和ませた彼の瞳は、お父さんと同じ優しい色をしていた。
金属同士が激しくぶつかり合う音が聞こえてきて、はっとする。
あやかしの力——天狗が持つ神通力と呼ばれる力、なのかな。理屈はよくわからないけれど、一瞬のうちにわたしと
「おー、おー、派手にやってんなあ!」
正直なところ、わたしは彼のように平常心ではいられない。
ログハウス風の家の真横にはちょっとした空き地がある。アルバくんと雨潮くんは少し開けたその場所で刃を交えていた。
鈍色の刀身が鋭い音を立てて何度も重なり合う。
まるでドラマで見るバトルシーンみたいだけど、二人が持っているのは紛れもなく本物の武器だ。その切っ先が相手の衣服ごと身体を貫く可能性だってある。
アルバくんは幻術を解いて、もとの姿で応戦していた。
頭上にある猫みたいな三角耳も尻尾も、動くたびに馬の尻尾みたいに揺れる髪も白いままだ。
(よかった、邪気に侵されてない)
心の底から胸をなで下ろした。
「
「はい、お約束します」
素直にうなずくと、
「よし、いい子だ」
頭を思いっきりなでられた。髪がぐしゃぐしゃになった気がする。
でも人懐っこく笑う
やっぱりお父さんみたい。
「これをお前にあずけておく」
そう言って
カラスのような鳥の大きな黒羽根を何枚も重ねた扇子、なのかな。ううん、違う。取っ手があるから、たぶん
漆とかで塗っているのかな。短くて黒い取っ手の先に赤い組紐が取り付けられている。
「これって、団扇ですか?」
「ああ、俺様の羽根で作ったもんだ。持ってるだけで悪いものを退けてくれる代物だぜ? 失くすなよ」
「ええっ」
危うく団扇を取り落としそうになった。
扇子型に重ねられた大ぶりの羽根は光の加減で青く光る。
顔を上げると、
もう一度、手もとにある団扇を見つめる。
大ぶりの羽根。カラスの
言われたことがすとんと胸のあたりに落ちた。その瞬間、わたしは叫んでしまっていた。
「羽根をむしったんですか!? だめですよっ! 自分を、大事にしなきゃ!!」
家族がいるのに、お父さんなのに。まだ小さい、娘の
そりゃわたしのお父さんよりも若いし、あやかしだから強いかもしれないけど。
「羽根むしるくらいどうってことねえだろ。俺様を誰だと思っている?」
「
怒りにまかせて答えたら、
ひどい。なにがそんなにおかしいの。
あからさまに睨みつけたら、
まったく反省の色がない。わたし、怒ってるんですけど。
「
仕上げとばかりに、
不思議な光沢を放つ闇色の両翼が弓なりに持ち上がり、大きく広がった。
刹那。
――がきぃん。
今まで聞いてきた中でひときわ甲高い音が大きく響いた。
アルバくんの妖刀が、根元からポッキリ折れてしまっていた。
うそ、妖刀って折れちゃうことがあるの。
なのに
燃えるような炎色の瞳が見開かれる。なにかに魅入られたかのように、
鈍色の刃がアルバくんに迫っている。
なんとしても止めたかった。けれど、
視界の隅で青い光沢を放つ団扇がちらついた。
もうすがるような気持ちだった。団扇を両手で握りしめながら、あてのない祈りを捧げる。
お願い。アルバくんを助けて――。
「喧嘩はそこまでだ。二人とも刀を鞘におさめろ」
しゃらん、と耳障りのいい音が聞こえた。
思わず閉じてしまった目を開けると、わたしはほっと胸をなで下ろした。本日二回目だ。
「……あ」
大きく見開いた藍の目がすうっと細くなる。
険しかった顔がうそみたいに引いていき、アルバくんは真顔になった。冷静さを取り戻したみたい。
藍色の刀から手を離すと、アルバくんの妖刀はたちまち消えていった。あれが鞘におさめるってことなのかな。
けど、まだ解決はしていない。
「邪魔をするな!」
半月前の公園でもそうだった。西日に照らされながら、アルバくんと対峙した
いつもは口数が少ない、クールな感じの男の子なのに。
「おー、おー、熱くなってんなあ! もう一度言うぜ。喧嘩はそこまでだ。俺様の命令は絶対だ。従ってもらうぜ。
「誰が少年だっ! やめないと言ったらどうするつもりだ?」
身がすくむほどの怒りをぶつけられても、
力比べでもするつもりなんだろうか。
突然、
指先を上へ向けたまま腕を上へ掲げた。
なに、してるんだろう。
ふと疑問に思って視線を上へ向けて、言葉を失った。
なぜか
ちょっと待って。中にはなみなみと水が入ってるんだけど!?
彼は嬉々とした表情で手首を返し、二本の指を勢いよく下ろした。
ばっしゃあん!
最後の仕上げとばかりに
「こうするんだよ。どうだ、頭が冷えただろ?」
「…………」
これは逆に怒りをあおってしまうんじゃないのかな。
落ち着かない気持ちで見ていたら、なんと
その様子を見て、久遠さんは満足げに笑う。
「お前は半妖にしちゃかなりのもんだが、鬼が持つ衝動を制御できないようじゃまだまだだな」
すごい。
「アルバくん、怪我はない!?」
「
「だって緊急事態だったんだもん! 久遠さんが連れてきてくれたんだよ?」
言われて初めて、わたしは自分の恰好に気付いた。
室内から一気に屋外へと出てきてしまったから、足になにも履いてなかったんだわ。紺色の靴下が土で汚れてしまっている。でもそんなこと気にならないくらい、アルバくんことしか考えられなかったんだもん。
アルバくんはばつの悪そうな顔をして言った。
「悪かったな、心配かけて」
「本当だよ。すごく心配したんだからっ」
「ごめん」
耳や尻尾、髪も全部白いままなのに、アルバくんの顔色は悪く、沈んでいた。今にも倒れそうなくらいに。
もしかして体調が悪いんだろうか。さっき妖刀が折れたことと関係してるのかな。それとも他になにか理由があるの?
「
「
見慣れないものにアルバくんも興味を持ったらしい。よく見えるように見せてあげたら、彼は藍色の双眸を大きく見開いていた。
不思議な光沢を放つ黒い団扇をじっと見つめている。まるでなにかに取り憑かれてるようだった。
なになに? 今度はどうしちゃったの。
「……大天狗の
もしかして、この団扇のことについてなにか知ってるのかな。
そっか。たしかに言われてみれば羽根でできてるんだから、羽団扇だよね。
「アルバくん?」
「いや、なんでもない。その団扇は
「う、うん」
うなずくと、さっきまでの悲壮な表情だったのが嘘のようにアルバくんは満面の笑みを浮かべた。
「さて。
そう言った彼はまるで憑きものがとれたかのように、すっきりとした顔をしていた。
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