茜色の教室と食中毒

早雲

第1話

「ちょっと、何してるの?」


 日が傾いて、涼しい風が窓から入る。

 教室の中は茜色で、つまり少しロマンチックとも言えなくはない。

 夕暮れどきの教室。淡いブラスバンド部の音色。遠くから聞こえる運動部の掛け声。私はひとり帰路に着こうとして、スマホのメッセージに気が付く。そこにはクラスのきになる男の子から。「今日、放課後教室で待っててくれない?」。

 すってき!!


 そんな妄想をしていると、ある珍妙な光景が目に入った。素敵な空間にやぼったい男の子がひとりで、机にむかって(そしてその机は私の机だ)、何かを吐いていた。


 何かを吐いている。もう一度言おう。彼は茜色の素敵な教室で、女子の机にむかって何かを吐いている。


 私はその男の子に対する嫌悪感を覚えたが、それを抑えて大きな声を出した。


「ちょっと!!」


 男の子は振り向いた。


「やあ、こんにちは」


 嫌悪感と恐怖を超えて怒りがわいた。とりあえず上段回し蹴りを食らわせられる位置まで踏み込む。そして勢いそのまま、男の子を思いっきり蹴った。


「げふぅ」


 男の子は崩れ落ちた。当然のむくいだ。そう私が思っていると男の子が息も絶え絶えに言った。


「いきなり蹴るのはひどいよ……」

「いや、人の机でつばを吐いている方が悪いでしょ……」

「つばはいてないし…。それに片山さんの机じゃなくて、俺の机。場所を移動しただけだよ。後で戻すつもりだった」


 私は少し落ち着いて周りを見た。机に目をやると確かにそれは私の机ではなかった。そして気が付かなかったが、サランラップで机がコーティングされており、その上にガラスの理科の実験でよく見る皿とアルコールランプ、そしてピンセットなんかのこまごました道具が置かれていた。なにこれ?


「なにこれ?」

「培地入りのシャーレとアルコールランプとピペット、コンラージ棒」

「だからそれはなに?」

「細菌の検査セット」

「はあ!?」

「簡単に言えば、菌がいるかいないか確かめる実験道具かな」


 私は16年間生きていてこれほどわけのわからないことに会ったことはない。なんで目の前の男子はここでばい菌を育てようとしているのだ?


 というか、今この男子が同じクラスの須藤君だという事に気が付いた。我ながら本当に今の今まで我を忘れていたんだなあ、と思う。


 さっきは変な姿勢で何かを吐いているようなしぐさをしていたからやぼったく見えたが、須藤君はそこそこ背が高くて、顔もかっこいい部類に入る。が、いかんせん、変人で名が通っている。確かにこの男の子なら夕暮れ時の教室でなんか変な実験をしそうだ。


「てか、片山さんはなんでいるの?」

「私は……」


 私がこの時間、この教室に戻ってきた理由は、誰にも話したくない。やっぱりさっきまで私は我を忘れていたようだ。そうだった。私は落ち込んでたんだった……。

とりあえず私は会話の矛先を反らす。


「いや、まず君がなんでばい菌なんか教室で育てようとしてるのかを教えてよ。正直怖いんだけど」


 須藤君は、「まず、蹴ったことを謝ってからだと思うんだけれど…」とぶつくさいってから、顔を上げた。


「まあ、説明するけどさ。えっと片山さんは今日はお昼食べた?」

「食べたにきまってるじゃん」

「学食?」

「そうだよ。だって弁当なんて持ってきてないし」

「ごはん食べた?」

「ごはんってごはんのこと?食べたよ。今日は唐揚げ定食」

「見た目の割にけっこうがっつり食べるね」

「おい」

「いや、それはいいとしてさ。サイトウ・アキラって知っている?」

「斎藤君?隣のクラスの?」

「そうそう、その斎藤。彼さ、今日昼ごはん食べた後、トイレで吐いたらしいんだよ」

「なんでそんなこと知ってるのよ……」

「いや斎藤、友達だから。それであいつの昼食、学食の定食だったらしいんだよね」

「なに、どういうこと?」

「それで、その話聞いたあとに俺もコンビニのおにぎり食べた後だったんだけど、ダッシュで学食行って、定食を注文したんだ」

「……」

「で、そのごはんを少しコニカルビーカーに入れて……」


 須藤君は手のひらの容器を振った。プラスチックのふたが付いた試験管のようなものだ。




「ごはんに入っている細菌を検査してる。」


 私は思った。これは変人という名は伊達でなかった、と。そして感想を口にする。


「だから、どういうこと?」

「だから、食中毒かもしれないってこと」

「えっ」

「食中毒。だって、斎藤は昼食の後すぐに吐いたし、お世辞にもうちの高校の学食はきれいとは言えないし、おまけに問題の食品は冷えたごはんだった」


 食中毒、と言われても私はぴんとこなかった。


「なに?冷えたごはんだと問題があるの?どうして食中毒ってわかるの?」


 須藤君は落ち着いた声で答えた。


「米って実は食中毒の事例が結構あって、その食中毒の原因のトップはBacillus cereusなんだよね」

「ばし…せ…、なんて?」

「バシラス・セレウス(Bacillus cereus)。グラム陽性桿菌、通性嫌気性、芽胞形成能ありのバクテリア」

「バクテリア…なんだっけそれ」

「細菌のこと。で、バシラス・セレウスは米の中にときどき付いてて、熱に強くて炊いたご飯の中でも生き残れるし、ご飯が冷めて常温になったら増える」

「えっと、じゃあ、その細菌がご飯の中にいて、たべたら食中毒になるってこと?」

「そうかもしれないってだけだけど」


 私は血の気が引いたのを感じた。今日食べた唐揚げ定食。そういえばごはん、冷たかった……。


「どうしよう、食べちゃったじゃん!」

「いや、落ち着いてよ。食べたからって必ず食中毒になるわけじゃないし、軽症の場合も多い。そもそもまだセレウス菌がいるって決まったわけじゃないから」

「そんなこといってもさ」

「菌がいるかわからないからとりあえず検査してるんだよ」

「……いや、まって。とりあえずなんでばい菌の検査をしてるかは分かった。わかんないけど、とりあえず分かった。でもそもそもなんで君が、教室でやってるの!?」


 落ち着いていた須藤君の目が泳いだ。


「それは……」


 彼はしばらく言いよどんだあと、ぼそっと言った。


「……趣味?」


 理解できないものを見た気がしたが、ここはわからないけど、大体わかった精神で行きたいと思う。

 

 それよりも切羽詰まった問題ができてしまった。私は食中毒になってしまうのだろうか。

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