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早雲

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 高速で移動していると何故か気が晴れる。止まると何故か気が塞ぐ。


 僕は子供のころ、母が運転する車でよく眠っていた。車が止まると、不思議と目がさめてしまって、さっきまで心地よかった車内が突然よそよそしくなる。


 そんな感覚は大人になっても残っていて、たった今、それを思い出した。


「ただいま台風の影響で」「復旧の目処が立ち次第」「大変ご迷惑を」


 止まっている電車の車内。さっきまで読めていた文庫本も、文字が頭に入ってこなくなる。


 少しの間、逡巡する。周りの乗客は立ち上がったり、電話をかけたり、メールを打ったりしている。


 僕の場合は予定していた目的地にさしたる用事もなく待つ人もない。ついでに言えば現在の僕は”休業中”の身なので、時間にも困ってはいない。


 つまり、この駅で降りて、そのままアパートを探して、田畑を耕し自給自足の生活を始めても何の問題もない。


 どうやら復旧の目処は立たなそうだ。とりあえずこの駅に降りて今夜の宿を探すことにした。


 何の野菜を育てるかはそのあと考えることにしよう。



「ふーん、お兄さんも大変だねー。僕もねー、この間職場で…」


 大変でもないのに労われたとき、どうやって応じればよいだろうか。ちなみに僕はほとんど身の上を喋っていない。きっとこの中年男性には一目見ただけで苦労人かどうかがわかるのだろう。


 居酒屋とバーの中間みたいな店で夜ご飯とお酒を楽しんでいると、この男性が話しかけてきた。僕がこの土地の者でないとわかると、ものすごいいきおいで家庭や職場の愚痴を喋り出した。聞いていても全く面白くないので全部無視することにした。


 ギネスビールは冷たく美味しく、初対面のオヤジの愚痴。足止めをくらって降り立った見知らぬ土地。


 僕が人生の不思議をかみしめているうちにどうやら、僕と話すのに飽きてしまったらしい。隣から人がいなくなっていた。


「ごめんね。お客さん。さっきの人常連なんだけど、すぐ酔って知らない人に話しかけるんだよ」


 自分の失態ならいざ知らず、常連がかけた迷惑まで謝罪しなければならないとは。僕は今の仕事を廃業して次の仕事をするとしても、バーみたいな居酒屋で働くのはやめようと決心した。


「大丈夫ですよ。でもよく喋る人ですね」

「そうなんだよ。高校の先生っていってたろ?職場ではしっかりしなきゃいけないんだよ。威厳を保たなきゃ。でもそういう何かしてるふりってのにあの年頃の子供たちは敏感だろ?とたんに嫌われちまうんだろうな。先生の前ではそりゃおとなしくしててもさ、嫌われてるかどうかってのは当人はわかっちまう。でもそれでも認めたくないんだろ。そりゃそうだ。誰だって40人そこらの人間全部に嫌われてるなんて思いたくねえよ。でも子供ってのは残酷だからね。自分の思ってることが相手に伝わってようが気にしないんだね。まったくかわいそうな人さ。」


 僕はさっきの男性の話をまったく聞いていなかったので、彼の職業が教師だとはじめて知った。そして高校教師になるのもやめようと決心した。


「お客さんはどっから来たの?この辺の人じゃないね?」

「この台風で足止めをくらって。今日はこの辺で宿を探しているんですが、ちょっと一杯やりたくなったんですよ」

「ふーん、若い人がこんな風に飲みに来るのは珍しいと思ったんだけどね。宿なら何軒か行ったところにゲストハウスがあるよ。最近できてね。ヒッピーみたいな若いおにーちゃんがよく使ってるよ。女性用の部屋はないみたいだけどね。俺なんかもうああ言うのは抵抗あるけど、お客さんは若いしそういうの慣れてるんじゃない?」

「僕もあんまりそういうところは使ったことないですね。実をいうとほとんど旅をしたことないんですよ。大きな旅は今回が2回目。1回北海道に行っただけ」

「その割には旅慣れしているね。宿も決めずに居酒屋とはね」


 居酒屋かバーか判断に迷っていたが、ここが居酒屋だということがわかった。


「面倒なことは後回しにしてしまうんですよ。悪い癖です。」


 どたん。


 後ろから聞こえたので振り返ると、うら若き女性が椅子から転げ落ちていた。こんな時、どう行動するかはいつも迷う。僕は善人のくせに時々ものすごく人に冷たい。身も凍るほど。基本的には優しいから、それに慣れていて、つい油断してしまうけれど、不意に気づくことが多い。


 とはいえ、女性には優しくありたいものだ。きっと。


 近寄り、腕を掴んで元の椅子に座らせる。


「ありがとう…」

「どういたしまして。大丈夫かな?」


 僕がいうと、彼女はおもむろに自分の杯を持って僕の前に突き出した。


「…?。どうしたの?乾杯でしょう、こういう時は。」


 至極当然のように言う。そう言われるとそれが自然と思えるから不思議だ。そんなわけで、僕も自分の飲んでいたギネスビールを掲げる。


 彼女は割と大きな声で言った。


「嵐の夜のステキなお酒に!」


 乾杯。



 明らかに飲み過ぎの様相を呈している彼女だが、僕が座っていたカウンター席の隣にやってきた。


「あなた、今日はなんの因果でお一人の夜をお過ごしで?」


 だいぶ余計なお世話だけれど、答える。


「新幹線が止まったから。」

「ツマラナイわね。もう少し面白い理由があるはずよ。」


 ワンモア。


「自給自足のためにとりあえず育てる野菜をどれにするか考えてる。」

「さっきよりはマシね。でも自給自足をするなら沢山の種類の野菜を育てなきゃ。それに鶏とかも飼うのかしら?」

「僕の予定では飼わない」

「いけないわね。タンパク源がないじゃない。」

「その代わり大豆を育てようかな」

「それはいいわ!大豆は栄養満点だしね!」


 会話が宙に浮いているが、気にしないことにしよう。


 きっと僕は交わした会話の意味なんて気にしてなかったはずだ。そう記憶している。


 それにしても、この居酒屋のマスターらしき人はこの女性が僕の隣にきてから全く口を出さない。気を使ってるつもりだろうか。使わなくて良いものを。


「さて、なんかいい感じだわ」


 僕が一杯のむ間にこの女性は3杯飲んでいる。小さい身体だか、もしかすると肝臓が僕の3倍の体積があるのかもしれない。


 その女性は私に尋ねた。


「お名前は?」

「ヒロ」

「ヒロ…だけ?」

「ヒロだけ」

「そ」

「…。君は?」

「私は」

「まって。当ててみる。」

「あたらないわよ。結構難しいと思うな。」

「得意なんだ。」


 そう。得意だったはずだ。人の名前を当てるのが、何故か得意だった。


「…葉月」

「全然ちがうわ。得意なんじゃないの?」

「ごめん、やっぱり難しいよ。」

「ちなみになんでハツキ?」

「…。長い話だよ」

「長い夜だもの」

「妻の名前なんだ」

「…。長そうね」


 僕は今夜の宿もない。早くしないと泊まる場所もなくなるかもしれない。つまり、あまり長話するわけにもいかない。僕は提案した。


「やめる?」

「やめない。よろしく」


 うら若き乙女の頼みだ。謹んで承ろう。


「妻がいたんだ。8月生まれの。でも彼女は死んだ」

「でも、あなたは…」


 彼女は言い淀む。


「いいわ。続けて。」

「僕はこの前まで社長だったんだ。自分で作ったベンチャーの」

「社長さん?見えないわね。」

「そう。見えないでしょ。妻にもよく言われた。僕には似合わないって。だから僕はずっと仕事をしてた。見返したかったのかもしれない。」

「どんな仕事?」

「わかりづらいよ」

「いいから」

「…じゃあ。そうだね。例えば君がこの店を乗っ取ってなんか雑貨屋さんを始めたいとする」


 居酒屋のマスターがびくっとなった。気にせず進める。


「でも、君がそんなことをしたら、このマスターだって黙っていない。あれやこれやで君の邪魔をすると思う。そんなとき君はどうする?」

「そもそも雑貨屋さんなんて始めないわ」

「始めるとして」

「…じゃあ何とかしてマスターの悪評を近所に広めたり、何かしら犯罪の疑惑をかぶせたりするかしら。商売が続けられないように。でもこの店や場所自体のイメージは悪くしたくないから、あくまでマスター個人の、なんか浮気とか動物いじめとか、そんなことを広めるかしら。」

「陰険だね。」

「つまり、あなたのお仕事ってこれ?人の悪口とかを広めたりする仕事?」

「全然違う」

「…わかりづらいわね」

「…そうでしょ。わかりづらいんだ。さっきの話でいくと君が悪質なやり口でマスターが商売をする気がうせたとして、最終的には店についてマスターと交渉をしないといけないね。場所を借りるのか。買うのか。いくらか。期間は。普通の家を借りる時なら町の不動産の親父でもできるだろうけど、商売については結構いろんな要素が付きまとってくる。ついでに言えばいろんな制限も。どんな契約を結ぶと不利かとか、そんなことが。だからふつうそんな七面倒なことは専門業者にお任せしたいね。僕なら特に法律に詳しい人にお任せしたい。」

「弁護士さん?」

「そう。弁護士さん。でもあの人たちは高いお金を払わなきゃ働いてくれない。もしかしたら君が抱えている問題は商法の一文を読めば解消されるかもしれない。でも君には自分が抱えている問題が難しいものか、簡単なものかすら判断がつかない。だから本当はちょっと調べればわかる問題であっても、多少高いお金、例えば自分の月給の半分とかを払っても弁護士さんにお願いしたくなる。いい商売だよね。」

「それで、あなたの会社は弁護士さんの集まりなの?」

「全然」

「…わかりづらいわね。」

「そうでしょ。わかりづらいんだ。またさっきの話だと君はもし自分の抱える問題が簡単だと判断できれば弁護士に頼むよりネットで調べたほうがずっといいってことになる。でもネットはいい加減な書き込みも多いから情報を精査しなきゃならない。それじゃやっぱり自分での判断は難しい。だから僕はちょっと高機能な辞書を作ったんだ。法律についての」

「…」

「グーグルみたいなものだよ。キーワードを打つ。そしたら関連する法の条文の一覧が出てくる。ついでに判例も出てくる。条文も判例も素人が読むのはとっても難しい。だから条文に関してはヒット数、判例についてはポジティブなものとネガティブなものをあらかじめ入力しておいてその数をカウントして、今君が抱えている問題が難しいかどうかを判断する。」

「…わかりづらいわね。」

「そうでしょ。わかりづらいんだ。さっきの例でいくと君は店、雑貨屋、買収、名誉棄損とかのワードを入力するね。そうするとそのワードに関連するすべての法律がカウントされる。例えば100個関連する条文があったとしたらスコアは100だ。そして判例。このワードに関連する裁判所の判断でポジティブな判決が出たもの、ネガティブな判決がでたものすべてをカウントする。罰金とか禁固とかはネガティブだ。ネガティブなもの以外はポジティブだ。

 そしてポジティブな判例が100ネガティブな判例が10000なら小さいほうの数を大きいほうの数で割る。今回はポジティブな判例100割るネガティブな判例10000で1/100だ。その数をさっきの条文の数とかける。条文の数100×さっきの割合1/100。トータルのスコアは1。この数が大きいほど難しい問題。少ないほど簡単な問題だ。」

「なんでこの数が大きいと難しいの?」

「まず関連する法律が多いこと。拮抗する法律が多いと最終的な判断は高度な法的な知識が要求される。そして判例がポジティブなもの、ネガティブなものが同じくらいならやっぱり判断が難しい問題であると考えられる。一方、例えばネガティブなものばかりだったら、大体同じような判決が出るものとして判断できるから、それほど難しい問題ではないと推測される。だから、この数値が大きいってことは関連する法律が多くて判決が分かれやすいってこと。だから数値が大きければ専門家に要相談。小さければ、まあ関連法を読んでみること。」

「でも判例がポジティブとかネガティブとか誰が判断したの?あなたがその辞書を作るとき。」

「弁護士さんだよ」

「…なるほど。それであなたはその辞書で商売をしていたの?弁護士の代わりに?」

「これ自体では商売してない。弁護士以外が法律相談を受けてお金をとるのは違法なんだ。だから、なんていうのかな。ユーチューバ―みたいなものかな。広告料でお金を稼いでいたんだ」

「なんだか危なそうなものを作ったのね」

「そんなことないよ。結構企業とかも使ってくれていたし、好評だった。」

「それで?奥さんは見返せたのかしら?」

「そうだね。妻には僕の仕事を5回ぐらい説明したかな。でも難しいって言ってたな。おおよそはわかってくれてたけど。それに見返すも何も妻は最初っから僕を認めてくれてたよ。」

「なんで亡くなったの」

「…事故」

「…」

「実は僕が作った辞書、プログラムは僕が作ったんだけれど、法律の部分は妻が担当したんだ。妻は弁護士だった。」


 僕は、記憶をたどりながら、ゆっくり話した。


「ある日仕事をしていたら、電話が鳴った。知らない番号だった。出たら病院からで。病院に行ったら、もう遅かった。近所での事故だったからか、持ち物は何も持っていなかった。たぶん近くのコンビニに行くつもりだったのかもしれない。」

「そう」

「なんでだろうね。妻は僕を愛していた。すごく愛していた。5回も同じ仕事の話を聞いても全然苦じゃなかった。妻を見返そうとして働いてた僕を。僕は妻を愛していたのかな。正直全然自信がない。死人には口がないから。」


 “僕”は“妻”を愛していたのか。そう口にしたとき、ふいに目頭が熱くなった。


「愛していたわよ、きっと。」

「どうして、そうわかる?」

「愛してもいない人を、見返そうなんて思わないわ。同じ仕事の話を5回もしないわ。それになにより、最後にあいたい人に選んだりしないわ。そうでしょ?何も持たずに外に出たのに、あなたに電話が病院からかかってきたのなら、あなたの電話番号を言ったのよ。病院で。だからきっと最期に会いたかったのはあなたよ。“彼”はあなたのことを愛していたの。…葉月」


 僕は。いや、私は自分の名前を呼ばれた。


「葉月。亡くなったのはヒロね?ベンチャーの話も、プログラムの話も、あなたの旦那さんの話ね。中性的な顔をしているから、最初は男の人かもしれないとも思っていたけれど。あなたは弁護士さんなのね。それで、ヒロの代わりに自分が死んだことにして、ヒロとして生きようとしているの?」

「少しの間だけ」

「なんで?」

「…」

「ヒロのふりをすれば、少しは気持ちがわかる?」

「全然わからなかった。」

「…死人に口なしだもの」


 私は、本当はとっても旅慣れしている。北海道に一回だけしか言ってないのはヒロ。私は東南アジアの国を1か月かけて回ったこともある。私は、本当は走っている乗り物が苦手だ。ヒロが死んで、会社はヒロの部下が継いだ。私はヒロが亡くなったことをその人に伝えたときに、ヒロの籍を会社に少しの間だけ残してほしいと頼んだ。きっとまだ、やりたかったことがあったはずだ。ヒロの会社で、ヒロの今の扱いは“休業中”。


「少しの間だけ、ヒロとして生きてみようと思った。いろいろわかることがあるかもしれないって。日本を回ってみるところから始めてみたけれど、わからないことばっかりだった。新幹線が止まったらどんなふうに行動するのか、知らないおじさんが話しかけてきたらなんて返すのか、若い女の子が酔っぱらって倒れたらどうするのか。そのたびに記憶を引っ張り出すけれど、うまくいかないんだよ」

「亡くなった人のふりをして生きてはいけないわ。」

「そうだね」

「ヒロはあなたを愛している。だいじょうぶ。」

「君にはそんなことわからない」

「わかるわ。だってそういう役割だもの」

「役割?」

「伝える役」

「何を…」

「じゃあね。今夜は楽しかった。嵐の夜もたまにはいいわね。」


 そういって、彼女は私の隣からいなくなった。なんの音もしなかった。初めから誰もいなかったみたいに、店内は静まり返った。



「お客さん」

「え」

「電話は終わったんですか」

「電話なんかしていませんよ」

「またまた。イヤホンでもつけてるでしょ。最近のやつはちっちゃいって言いますからね。最初は独り言っているのかと思いましたけど。あとどんな話の流れかはわからないけど、うちの店は乗っ取らせないよ。」

「…」


 私は後ろを見た。当然みたいにそこは壁しかなかった。


「ふう」

「お客さん。そろそろ宿、取らなきゃまずいんじゃない?」

「そうですね。でもさっきとは別の宿ってありませんか?」


 マスターが怪訝な顔をする。私は気にせずいった。


「私、実は女なんですよ。」




―完―


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