第2話 こっちの世界
私がこの世界に来て、どのぐらい経つだろう。
それは突然のことだった。
会社に行こうとワンルームマンションのエレベーターで1階に降りる途中、急に底が抜け落ちたのだ。
足元には知らない人の顔が見えていた。
『ぶつかるー』
恐ろしさで目をぎゅっと瞑った。
次に目が覚めたらクラシカルなホテルのスィートルームのような立派な部屋にいた。
傍らには赤茶色の髪が印象的な、伏せた瞳に睫毛の影がわかるほどの、青年と呼ぶにはまだ少し早い美少年がいた。
彼は私と目が合うと微笑み、両手で私の手を握った。
「ペラペーラペーラペラ」
嬉しそうにたくさん話しかけてくれるのだが、さっぱりわからない。
スマホがいるなと部屋を見回してみる。
そこにはグレーヘアーの素敵なダンディーに、筋肉質な体にそぐわないベビーフェイス。
それに艶々した黒髪に女性かと見間違うほどの整った顔の男がいた。
そう超イケメン軍団に囲まれていたのだ。
どーなってるの?よりもイケメン軍団の視線に恥ずかしさがこみ上げてきた。
結局、スマホは使えないし、何だかよくわからないまま日にちだけが過ぎていった。
あの頃の私はどん底だったな。
言葉が通じないというのは本当に不便なことで、説明もできなければ状況も全くわからない。
体は痛いから(多分打ち身に脱臼)日がなベッドに寝そべって、考えて寝ての繰り返し。
ある日、もしかして同じ状況になったら家に帰れるのじゃないかと思い、部屋のバルコニー(2階)から下に飛び降りたこともあった。
みんなの私を見る目は『こいつヤベーな!』とますます険しくなり、さらに両足首も捻挫した。
そんな中でも赤茶色の美少年、後で判明したのだが王子様はいつも心配そうに顔を出してくれた。
その後ろで物凄い形相で、こちらを睨みつけていたのが、王子の右腕、黒髪のコーテッド様だ。
そんなこともあってだんだん居心地が悪くなり、食事は全然喉を通らなくなるし、話しもできないのに王子様が訪ねてきてくれるのも気が引けて、会うのを断ったりするようになる。
要は狸寝入りでやり過ごしていた。
はっきり言ってひきこもり一直線だった。
私はここから追い出されそうもないと、勝手に安心しきっていたのだ。
そんなある日、私はいきなり馬車で外に連れ出されたのである。
これはもういよいよ観念するしかないと腹をくくった。
認めたくはなかったが、きっとここは地球ではないどこかだと思う。
地球と存在する物があまりにも違いすぎる。
そして残念ながら私は勇者でもない。聖女でもなければ悪役令嬢でもない。
乙女ゲームの中でもないし、神様に何かチートなものを授かったわけでもない。
ごくごく普通の会社員で、特技といえばかき氷を食べても頭が痛くならない!
・・・ぐらいしか思いつかない。
しかも特技と呼ぶには弱すぎる。
ここよりも進んだ文明で暮らしていても、ただ享受しているだけだ。
ほとんどの物が、どのような仕組みになっているのかもわからない。
何か手に職があるわけでもないし、畑仕事もしたことがない。
はっきり言って、このままここで生き残るのはかなり難しいだろう。
死をも覚悟していたのだが、私はどこかに捨てられることもなく、王子の邸宅に連れてこられただけだったのだ。
ここに来てからは『このままではいけない』と猛省し、言葉を覚えるために色んな人に話しかけまくった。
みんな初めこそ『なんだコイツ?』って感じだったが、『他意はありませーん』と笑顔を振りまいた。
そうしたら、みんな会うたびに単語を教えてくれるようになった。
特に私のお世話をしてくれているデーンさんは、親切なおばさんで本当に助かった。
何度言い間違っても、笑って訂正してくれて、根気よく発音も教えてくれた。
この人のお陰で、今や話していることは、ほぼわかるようになったのだ。
「ねえ、あんた。なんであんなに坊ちゃんに警戒されてるんだい?」
「坊ちゃん?」
王子様のことだろうかと聞き直す。
「コーテッド坊ちゃんのことだよ。
毎日毎日、あんたの様子を訊いてくるからさ」
そりゃ空から急に降ってきたんだから当然のことだよね。
完全に不審者認定されていることはわかっている。
ベビーフェイスマッチョも、何度か見かけたけど、様子を伺うようにしてたしな〜。
逆に王子のように、屈託なく接してくれるほうが、不思議な感じがする。
私はどう説明したらいいのかわからないので、何のことだかわからない、と首をかしげ、話題を変えた。
「ところで、この間話していた文字のほうはどうなりました?」
音だけで言語を学ぶには、限界があるような気がして、文字を教えて欲しいと頼んだのだ。
デーンさんも口頭で話すなら付き合えるが、書くとなると、仕事の合間に教えるのは難しいと断られたのだった。
「ああ。明日から坊ちゃんのところに行けば、教えてくれるそうだよ」
コーテッド様の冷たい目を思い出す。
間違ったりしたらめちゃくちゃに怒られそうだな~と、不安になったのだった。
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