第9話:新たな家族

「部長。話があります。お時間よろしいでしょうか」


「ん。どうした?」


 彼女の妊娠が発覚して数ヶ月。予定日まであと二週間に迫る中、ようやく俺は部長に育児休業の話を切り出せた。


「育児休業? 男のお前が? なんで」


「……彼女、精神的に不安定で。一人で育児するのはキツいと思うんです」


 甘やかしすぎだろと部長には笑われた。他の男性社員も似たような反応だった。女性社員なら応援してくれると思ったが「私が若い頃は一人で何人も育てた」「あんたが稼がないでどうするの」と、意外にも反対意見が多かった。しかし、全員が敵なわけではなく、応援してくれる社員もいた。


「私の姉、育児のことで旦那さんと揉めて離婚したんです。私は出産経験無いですけど、たまに姉の手伝い行くことがあって。その一日だけでも凄く大変で。だから……旦那さんが一緒に居てくれると、奥さんも心強いと思います」


「うちの旦那も鈴木くんみたいに育児休業取ろうとしてくれたんだけど、結局取れなくてね……」


「俺、育休取れなかったら今年度一杯で仕事辞めるつもりです」


「えっ、鈴木くん、マジで?」


「彼女からも許可貰ってきました。『君が良いなら良いよ。僕が稼ぐから』って」


「かっけぇ」


「てか、鈴木くんの奥さん僕っ子なんだ……」


「何してる人なの?」


「バーテンダーです」


「やだ。カッコいい」


「カッコいい人ですよ」


 それから三週間が経った2月23日。予定日より十日ほど遅れて、2850gの小さめな男の子が生まれたと彼女から一報が入った。残業を押し付けられそうになったが、俺の味方をしてくれていた女性社員が「奥さんが待ってるよ」と身代わりになってくれた。彼女にお礼を言って定時退社して、海が入院している病院まで電車で向かった。


「お父さん来たよ」


 腕の中の小さな命にそう話しかける彼女は聖母のようだった。


「可愛いー……名前決めた?」


 問うと彼女は息子の顔を見て少し悩んで「みなと」と呟いた。


「どういう由来?」


「いや、特に意味はない。ただ……なんとなく。顔見たら浮かんだ」


「なんとなくかぁ……」


「やっぱり、ちゃんとした由来が必要?」


「うーん……そうだなぁ。しっくりくれば良いんじゃない?なんでも。ねー。みなとくん」


 話しかけると、彼はニコッと笑った。


「あ、ほら! 気に入ったみたいだよ!」


「じゃあ、みなとで」


「字はこれで良い?」


 俺が選んだ字は湊。海が水、俺が音に関する名前だから。


「鈴木湊くん。今日から君は俺達の家族だ。これからよろしくね」


「……こんな時に聞くのもなんだけどさ」


「育休の件?」


「うん」


「無理っぽい」


「そうか……」


「退職願出してきた。今年度一杯で仕事は辞める。だから、一ヶ月近くは一人になっちゃうけど、四月からは一緒に子育てに専念するから、それまでは申し訳ないけど頑張って」


「……うん。ありがとう。頑張るよ。君も仕事頑張ってね」


「うん。無理しないでね」


「おう」


 それから一ヵ月後、俺は会社を退職した。お祝いにと飲み会に連れて行かれそうになったが、きっぱりと断った。付き合い悪いなと嫌味を言われたが、もう関わらないから関係無いと開き直って逃げた。実際、当時味方してくれた一部の社員達とは今もたまに会う仲だが、それ以外はそれきりだ。


「と、いうわけで、今日から晴れて無職です」


「おめでとう。今日から貴様も私の奴隷として働くのだ」


 湊を顔の前に掲げて彼女が言う。「ははー」と、茶番に乗って跪くと、湊がケラケラと笑った。


「報酬は?」


「私の笑顔だ」


「ありがたき幸せ!」


「……う、うむ……」


「引かないでくださいよ殿ぉ……」


 と、茶番劇を繰り広げていると、電話が鳴った。彼女は出てくると言って俺に湊を預けた。


「ふえ……」


「お。泣くか?」


「……」


「泣かへんのかーい!」


「へへへ」


「湊お前……将来はお笑い芸人だな」


「ふえ……」


「おっ。またフェイントか?」


「ふええええん!!」


「うわっ! 違った! なんだ!? 要求はなんだ!?」


 とりあえずオムツを確認する。なんとも無い。

 じゃあミルクだろうか。作って与えてみるが、飲まない。


「えぇ? 何? どうした? パパは嫌か? そうじゃないよな? さっきまで話してたもんな?」


 パニックになってしまう。こんな意思疎通の出来ない小さな怪獣と毎日一人で戦っている世のお母さんを尊敬してしまう。仕事辞めて良かったと思った。本当は、世の男性がもっと気楽に育児休業を取れる社会になればいいのだけど。


「湊ぉ……なんで泣いてるんだよぉ……」


 泣いている原因が分からず、こっちまで泣けてきた。耐えられず「海ちゃーん! 助けてー!」と、彼女にヘルプを要求してしまう。「ごめん! ちょっとまってて!」と返ってきた。あやしながらしばらく待っていると、怒号が聞こえてきた。湊もびっくりしたのか、泣き止んで俺を見た。


「……で、どうしたいの? より戻したい?」


 廊下から海のそんな声が聞こえて、胸騒ぎがした。海は女性の方が好きだ。今でも。俺は例外だと言ってくれるけれど、きっと、女性同士の結婚が許されていたら今の生活は無い。湊も生まれなかった。


「……ごめんね麗音。大丈夫?」


 戻ってきた彼女は心配そうに俺を見た。


「……うん。大丈夫。怒鳴り声にびっくりしたのか大人しくなった」


「うー……」


「そっちまで聞こえちゃったか……」


 湊が『お母さん大丈夫?』と言わんばかりに彼女を見つめる。彼女はふっと優しく笑って彼の頭を撫でた。


「……優しい子になるんだろうな。お前は。心配するな。僕は大丈夫だよ」


 彼は『本当?』と確認するように俺の方を見た。俺の不安を見透かしているようにも思えた。


「……殿、ちょっとこちらでお待ちいただけますか」


 湊をベビーベッドに下ろし、彼女を抱きしめる。


「大丈夫じゃないでしょ。海ちゃん」


「……悪いのは全部僕だから。慰められる資格なんて無いよ」


「でも、俺は海ちゃんが何したか知らない。誰が悪いとか、俺には分からない。分かるのは、君が傷ついてることだけ。だから、素直に甘えていいよ」


「……ほんと君は、僕にとって都合が良すぎるね」


「俺の人生は君のためにあるからね。好きなだけ利用して」


「……ありがとう。……ところで、湊、やけに静かだけど、もしかして寝た?」


 ベビーベッドを覗きに行くと、彼はすやすやと寝息を立てていた。


「……マイペースだな」


「あの怒鳴り声聞いて寝れるのすげぇな。大物だわ。さすが殿」


「……この図太さや動じなさは多分、君に似たんだろうね」


「海ちゃんには似ないでほしい」


「ははっ。そうだね。……お父さんみたいな優しい子に育ってね。湊」


 そう言って彼女はまた湊の幸せそうな寝顔を撫でる。


「……海」


「ん?」


「……もう一人欲しい」


「……ん。ちょっと落ち着いたらね」


「……もう一人といわず十人くらい欲しい」


「野球チームでも作る気かよ」


 彼女はそう言っておかしそうに笑う。その笑顔を見た瞬間、彼女が俺の元を去ってしまうのでは無いかと一瞬でも疑った自分が馬鹿らしくなった。

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