第7話:勘違いだなんて言わないで
それから俺は毎日のように彼女の家に通い、添い寝をするようになった。添い寝をする。本当にただそれだけ。いわゆる添い寝フレンドというやつだ。この頃はそんな言葉はなかったけど。
彼女は隙あらば俺を誘ったが、俺は頑なに手を出さなかった。服を脱ぎ始めた時は流石に焦ったけど。
「……襲っていいよ」
「遅いません」
「強情だなぁ。……あ、抜いてあげよっか?やったことないけど、動画見て勉強したからなんとなく分かるよ」
「け、結構です! 待ってたらそのうち治まるから! てかなんでそんな勉強してるの!?」
「君が手出してくるかもしれないから」
「出さないよ! とりあえず服着て! てか、俺の前で服脱がないで!」
肌布団を彼女に投げつけてそっぽを向く。
「ほんっとクソ」
「でも好きなんでしょ?」
「好きですよ! 悪い!?」
「……ごめん」
「……いいから服着てください。風邪ひくよ」
「……うん」
ちょっかいをかけてくるのはいつものことだが、その日はなんだかいつも以上に当たりが強い気がした。何かあったのかと尋ねると彼女は「お客さんから気持ち悪いこと言われた」と素直に打ち明けて謝罪した。
「……そっか。何言われたの?話したくないなら話さなくてもいいけど、話せるなら話して。こんな八つ当たりしなくてもいつでも愚痴聞くよ」
「……口説かれたから、レズビアンだから無理って言ったら『俺が男を教えてあげる』って」
「うわっ……それは酷い」
「まぁ『良いですよ。抱いてあげましょうか』って返したら黙ったけどねー」
と、彼女は冗談っぽく笑ってみせるが、目は笑っていないし、声は少し震えていた。
「笑えよ」
「笑えないよ。笑えるわけないだろ。それはクズ野郎だわ」
「……僕とどっちがクズ?」
「……海はまだ同情の余地があるから」
「公平な目で見てよ」
「見てるよ。海もクズだよ。俺は君のしてることを無条件で全肯定したりしない。好きだから。信者にはならない」
「……充分信者だよ」
「そうかな……。てか、ずっと気になってたんだけどさ……」
「何? あ、女性経験は豊富だけど、男性経験はないよ」
「そ、そうか」
「……君なら別に最初で最後の男にしてあげても「寝てください」……ふふ。はーい。……ごめんね。……君にそういう反応されると安心するんだ」
そう言って彼女は力無く笑う。
「……ほどほどにしてよ。俺だってストレス溜まらないわけじゃないんだからね」
「胃に穴が空いたら僕を恨んで良いよ」
「殺さないからね」
「ちぇー」
「ちぇーじゃないよ」
相変わらず死にたがりだが、以前に比べると、彼女の笑顔が増えてきた気がした。
しかしそれから一年が経ち、二人の一周忌が近づいてきたある日の夜中。彼女がベッドから抜け出した。
「ん……海?」
「……今日は、一人で寝る。寄らないで」
「……じゃあ俺が床で寝るから、海ちゃんがベッド使いな。身体痛めるよ」
「良いから、君はそのまま寝て。話しかけないで」
「……分かった。おやすみ」
「……おやすみ」
何かあったのは明らかだったが、彼女はそのまま眠った。大丈夫だろうと思って眠りについたが、その日の朝、朝ご飯を作っている彼女におはようと声をかけると無視された。
「海ちゃん?」
鍋に火がかかっているが、手が止まっている。ボーっとしている。大丈夫かと声をかけても反応はない。味噌汁がガタガタと不穏な音を立てる。まずい。吹きこぼれてきた。
「海! 味噌汁吹きこぼれてる!」
「へっ……うわっ!」
ジュワーという味噌汁が吹きこぼれる音で彼女はようやくはっとし、慌てて火を切った。
「海。代わるよ。今日は俺がご飯作る。席ついて待ってて」
ボーっとする彼女の代わりに鍋の前に立っつ。すると彼女は俺の背中に頭を寄せて、腰に腕を回してきた。火を止めて、向き直して彼女を抱きしめる。
「どうしたの? 大丈夫?」
彼女は答えない。少し早い心臓の音が伝わってくる。何か怖い夢でも見たのだろうか。不安なことでもあるのだろうか。
「……海ちゃん。どうしたの。昨日何かあった?」
「麗音……」
「ん? なに?」
「セックスしよ」
「いや、しないってば。朝から何」
「お願い。しようよ。……したらきっと、分かるから。勘違いだって、分かるから」
ぽつりぽつりと、呟くように彼女は言う。
「……勘違い?」
「僕、変なんだ。君は男なのに。男なんて嫌いなのに。僕は同性愛者で、君は男なのに。なんで……なんでこんなに……心臓がうるさいの……なんでこんなに胸が苦しいの」
「海……」
「ねぇ、お願い。ヤらせて。全部勘違いだって、証明させて。じゃないと、今までの恋が全部、一過性の感情だったことになってしまいそうで——「ならないよ」
彼女をきつく抱きしめて、静かに、だけど強めに彼女の言葉を否定する。
「……ならないよ。大丈夫。大丈夫だから……一旦落ち着こうか。おいで」
彼女台所から連れ出して食卓の席につかせ、紅茶を淹れる。落ち着きたかったのは自分もだった。期待するなと自分に言い聞かせる。
「……落ち着いた?」
「……紅茶淹れるの下手くそだね」
「文句言う元気があるなら大丈夫だね。良かった。……昨日、何かあった?」
「……仕事辞めてきたの」
「えっ。仕事? 辞めたの? あんなに良い職場だって言ってたのに?」
「ううん。……バーテンダーじゃない方の仕事」
「ん? なんか副業してたの?」
初めて聞く話だ。「身体売ってた」と、彼女はサラッと言う。
「へ!? でも、君は……」
「女性間風俗」
「女性間?」
「……いわゆるレズ風俗。キャストも客も女性しかいない。……レズ風俗って言い方は好きじゃないから」
「……」
「冷めた?」
「……ううん」
「……冷めてよ。嫌いになったって言って。そんな仕事してたなんて幻滅したって言ってよ」
「いや……遊びまくってること知ってるし、今更幻滅したりはしないよ」
「なんで……」
「言わなくても分かるだろ?」
『愛してるから』その言葉は彼女は聞きたく無いだろうと思い、言わなかった。彼女は黙り、俯く。手を伸ばすと、彼女は「やだ! 触んないで! 気持ち悪い!」と叫んで俺の手を払い除けた。カップに腕が当たり、テーブルから落ちて音を立てて割れた。
「あ……ごめん……」
「待って。俺が片付けるまで動かないで。危ないから」
動揺する彼女を座らせて、雑巾を持ってきて濡れた床を拭いて、割れたティーカップを片付ける。片付け終わると、彼女は俺の腕を掴んだ。そして手を引いて寝室へ向かう。
「えっ。ちょ。海ちゃん!? わっ」
何も言わずに俺をベッドに投げ倒し、上に乗って、服に手をかけた。
「ちょ、ちょっと待った! えっちなことはしないって約束! 同意のない性行為は犯罪ですよ!」
「知らない! そんな約束もうどうでも良い!全部どうでも良いの! 君のことなんて大嫌い! 君が傷つこうが、自分が性犯罪者扱いされようがどうでもいい!」
「お、落ち着けって!」
「いいじゃん! 君だってしたかったんでしょ! なんで抵抗するの!」
「君のことを愛してるからだよ!」
思わず言ってしまうと、彼女は手を止めた。
「……意味分かんないよ。愛してるならしたいでしょ」
「……まぁ、したいかしたくないかで言われたら、正直したいですけど」
「したいんじゃん」
「そりゃしたいよ。好きだもん! けど、こんな雑な抱かれ方は嫌だ!」
「なんだよそれ……乙女かよ……」
「乙女心は複雑なんですぅー」
「男だろ君は……」
「男だよ。ほら」
服を脱いで上半身裸になる。季節は冬に差し掛かりつつあった。冷気が素肌に突き刺さる。
「……ぶえっくしゅん! 寒っ!」
「馬鹿。寒いに決まってんだろ。冬だぞ」
彼女は呆れるように言って、肌布団を俺の肩にかけてくれた。彼女は優しい。昔から。ずっと俺に八つ当たりしていたけれど、悪いことしている自覚はいつも持っていたと思う。根の優しさは昔から変わらない。俺はそんな優しい彼女が好きだった。何されても許してしまうほどに。
思えば俺は、彼女を女性として意識したことはなかった気がする。この想いはきっと、彼女が男性だったとしても変わらなかったと思う。
「……海ちゃん。俺は今まで、同性を好きになったことはないんだ。同性を好きになるなんて考えられない。だから自分は異性愛者だと思ってた」
「思ってたって何。違うの?」
「うーん……俺ね、今まで彼女いた事あったけど、結局好きになれたことなかったんだ。ずっと、君のことばかり考えてた。それでね、改めて考えてみたら、君のことはきっと、男でも好きになってたと思うんだ。君は女の子だから、仮定の話でしかないけど」
「……なにそれ。キモいな」
「はいはい。キモくてごめんね。……人間ってさ、必ずしも異性愛者と同性愛者の二種類だけに分けられるわけじゃないじゃない? 例えばほら、なんだっけ……バイセクシャル? っていうの? 男性も女性も恋愛対象になるよって人もいるんでしょう?」
「……うん。けど僕は同性愛者だよ。男性は恋愛対象外だから」
知っている。だから諦めた方がいいとずっと思っていた。だけど、諦めなくて良いのなら、諦めたくはない。
「……俺のこと、好き?」
「好きだよ。けど、恋じゃない。だって君は男で、僕は同性愛者だから。恋だって、認めたくない」
「……俺的には認めてほしいな」
「嫌だ。認めたら僕はレズビアンじゃなくなっちゃう。帆波達を裏切っちゃう」
「水元さん達は怒らないと思うけどなぁ」
「……やだ。今までの恋を否定することになっちゃう」
「……ならないよ。今までの恋は全部本物。誰がなんと言おうとも、君が本物だったと言えば本物になる。さっきも言ったろ。世の中は同性愛者と異性愛者しかいないわけじゃないって」
「っ……けど僕は、バイじゃない。男性を好きにならない」
「君がレズビアンだというのなら、レズビアンでいいんじゃない?」
「けど、君は男だ」
「じゃあきっと、俺は例外なんだね」
「自惚れんな。好きじゃないって言ってんだろ」
「……なら、俺のこと抱いて」
「はぁ!? 今の流れでなんでそうなる!?」
「それで白黒はっきりするんだろ?」
ベッドに転がり、彼女を誘う。いつもの仕返しのつもりだったが、彼女は俺の上に乗った。
「……優しくしないからね」
「えー……初めてだから優しくしてほしい」
冷静を装ってそう返すが、心臓は爆発しそうだった。
「童貞じゃないくせに何言ってんだ」
「抱かれる側になるのは初めてだよ。ねぇ、どうしたらいい?」
「……何もしなくて良い。僕に任せて」
「ん。分かった。嫌になったらやめて良いからね」
「抱かれる側のくせに何言ってんだよ」
唇が重なる。恋がそうでないかの証明なんて、多分、それだけで充分だったと思う。けれど、彼女はそこで止まることなく、俺の身体を撫でた。女性の身体を扱うように丁寧に。そういう仕事をしていたという話を聞いてしまった後だったから正直複雑だったが、優しい手つきから愛が伝わってくる。
「っ……か、海ちゃん……待った……ストップ……」
「誘ったのは君だろう。やめないよ。最後までする」
「いや、あの……そうじゃなくて……良いとは言ったけど物凄く大事なこと忘れてる……」
「……大事なこと?」
「……赤ちゃん……出来ちゃったら大変だから……」
「……あぁ……そうか。……セックスって本来、子供作るための行為だったね。ごめん。今までそんなの気にしたことなかったから」
「そ、そうか……。今日はこれでおしまいにしようか。もう、自分の気持ちに答えは出ただろ?」
「……出てるよ。とっくに。認めたくなかっただけ」
「もう認められる?」
「……ありがとう。麗音。僕のこと愛してくれて。……愛してる」
『愛してる』彼女の声が脳内で反響し、エコーがかかる。
「泣くなよ。認めろって言ったのはそっちだろ」
「だって……叶わないって諦めてた恋だったから……」
彼女はレズビアンで、俺は男。性別というどうしようもない要素が理由で、恋愛対象にはならない。きっと彼女は俺以上にそんな叶わない恋を何度も経験してきたのだろう。だけどそれは仕方ないこと。諦めるしかない。そう思っていた。
「……好きだよ」
「俺も好き。ずっと好き。これからもずっと」
「……うん。……ねぇ、麗音」
「何?」
「……こっちに引っ越してきて。一緒に暮らそう」
「……うん」
「……けど、結婚はしたくない。異性愛者の特権なんて、利用したくない」
「……うん。分かった」
「……好き」
「ありがとう。俺も好きだよ」
ぽろぽろと、彼女の瞳から涙が溢れる。「今までごめん」と、震える声で呟いた。
「良いよ。全部俺が好きでやったことだから」
「……馬鹿だな。少しくらい責めろよ。全肯定はしないって言ったくせに」
「……反省してるなら、愛で返して」
「なんだよそれ……」
「……俺の恋人になって。海」
「……うん」
こうして俺は彼女と正式に恋人同士になった。男と付き合った事で彼女は、同性愛者の友人から批判されたらしい。そのことに苦しみながらも、俺と別れたいとは一度も言わなかった。
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