第5幕

 少し湿っぽくなってしまったね。話を戻そう。毎日働きながら勉強し、月に一度は彼とカフェで会う。そんな日々の中で、彼が繰り出す話はいつも刺激に満ちていた。曇天を切り裂く春一番のような爽快さを持っていた。

 丁度仕事も煮詰まってきた頃だったからかな、彼との時間を何よりも心待ちにしていた。まるで、時を超えて私を単調な時間から盗み出す怪盗のように思っていた。笑うなよ、本当にそう思っていたんだ。

 さて、そんな春一番が濁ってきた頃の話をしよう。あれは毎月カフェで会う生活を初めて丁度10年ほどたった頃だろうか。私は大きな仕事も難なくこなせるようになり、商業組合の経営にも手を着けていた(父曰く、まだまだらしいが。後を継がせる気がないのだろうか)。

 彼は、教鞭を執ることを対価に研究を続けていた。あの彼が、教師だと聞いたときには耳を疑ったよ。確かに大きい大学ではないとはいえ、彼に務まるものなのか。いや、彼についてこられる学生がいるものなのか。7割以上の学生が単位を落とす授業、というのは聞き流しておこう。後輩達には同情するよ…。

 ほとんどの事故死の夢を見終えた頃の話だ。さすがに教師をするとなると、それなりに時間がとられるらしい。研究に割ける時間が減ったと彼が愚痴をこぼしていたことを覚えている。彼の顔色が悪い所を初めて見たよ。

 悪夢研究と言っても、寝ることが全てではない。ほとんどが机に向かっての作業なのだ。これから見る夢の計画や、これまで見た夢の記録、悪夢の傾向などに関して、文章に起こしてまとめておく必要がある。

 見る夢の数が増えれば増えるほどやることは増えるわけで、夢を見るため眠るどころか、休息のための睡眠すらとることが難しくなってきたらしい。久方ぶりにあった彼はぶつぶつと何かを呟いていた。「この世の定理をねじ曲げてしまう」だとか、「いや、そもそもあれは本当にこの世の定理なのか?」だとか。

 これを聞いたときの私は、彼が変わっていないことに喜びこそすれこの言葉を怪しんでなどいなかった。

 

 1ヶ月間徹夜しても5日間睡眠をとらなくとも大丈夫な彼の顔色が悪かったというのに。

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