2ー1.黒髪の鬼の子
薄れゆく意識の中、シナトは幼いころのことを思い出していた………。
◇◇◇
真っ暗な牢屋から出され、冷たい水桶に入れられ、今まで着たこともないような木綿の服を着せられ、小さな剣を持たされ、……、シナトは鬼の当主であるイナサがいる部屋に連れてこられた。部屋には、イナサと、いつも牢屋に飯を持ってくる婆がいた。
イナサは、闇のように深い藍鉄色の
昨日、飯を持ってきたときに、婆が『生きたいのなら強がりでもいい、イナサを睨み返しておるように。鬼は強さが全てじゃ。弱いものは喰われる。いいな。お前の母と父はお前が生きることを望んでいた。生きて、生き抜くこと、それが、スオウの願いじゃ。……』と、言ったことを思い出したからだ。
だから、シナトは、黙って部屋の真ん中に座っているイナサを睨みつけた。
「お前がシナトか」
「…………」
「ふん。黒髪か。あいつを思い出して、はらわたが煮えくり返る。婆、なんとかしろ」
「黒ではないぞぇ。その髪は、スオウの赤が入った
「ちっ。使えん」
ぐびりとイナサは酒を口に含んだ。しばらく、シナトを睨みつけていたが、ふっと目線を動かした。
「……、ハヤテは、まわりのものが甘やかしせいで、わがままになってな。あれがイヤダの、これがイヤダの毎日駄々ばかりこねるようになってしまった」
イナサの目元が心なしか緩んでいる。ハヤテという言葉に、さっきまでの鬼気もわずかに和らいでいいる気さえする。
―― ハヤテって何者だ?
「お前なら、鬼の子特有の香りに惑わされないと婆が言うのでなぁ。弱ければ喰おうと思っていたが……」
ふむと顎のあたりを触りながら、イナサが思案するように唸った。
「お前はまだ、シナトを喰う気かぇ? わしのかわいいスオウの忘れ形見だというのに……」
「当然だ。こいつの父親はわしらの里をつぶしに来た人間だ。あいつをたぶらかし、この里に近づき、多くの鬼を卑怯な手段で殺した。わしは絶対に許さない」
イナサが左手で床を叩いた。バンと大きな音が部屋に響き渡り、びりびりっと空気が揺れる。婆はやれやれという顔をして、お膳にのっていた無花果の皮をむいた。
「お前はスオウのことを好きじゃったのになぁ……」
「婆!! あいつは裏切り者じゃ。その名を口にするな。腹が立つ」
ぐびりと勢いよく酒をあおると、イナサは藍鉄色の鬼気を一層暗くして、婆を睨んだ。シナトは、自分に向けられたわけでもないが、その鬼気の圧に押されて、心の臓が止まりそうになる。
「しかしのぉ……。イナサ、老い先短いばばの頼みじゃと思ってのぉ……」
婆がしゃりっと無花果を噛んで、目を細める。
「はあ? 都合のいい時だけ年寄りのふりをするのはやめろ。…………、しかし、婆の頼みをないがしろにするのも後味が悪い……、そうだな、おい、お前
、牢番に勝てば、牢から出してやって、ハヤテが十七になるまで、世話係にしてやる。うまい飯も寝床も用意してやる。ハヤテが十七になるまでに覚醒しなかったらお前の命を差し出せ。婆に譲歩できるのはここまでだ。おい! 誰か、牢番を呼んで来い!!」
戸の向こうでガタガタと音がして、しばらくすると、牢番がおどおどしながら入ってきた。呼ばれた理由がわからず、きょろきょろそわそわしている。
牢屋にいるときと大違いだと、シナトは思った。牢番は、いつも横暴で、指一本だけでいいから喰わせろとねちっこい声をかけてくるのを思い出したからだ。
「おい、こいつに勝てば、喰っていい。お前はいつも、喰わせろとからんでいたらしいからな」
イナサが牢番に向かって、冷たく言った。牢番は一瞬びくっと肩を震わせたが、すぐに言葉の意味を理解したようだ。「……ほんとにいいんすか? 」と言いながら、牢番は舌なめずりをし始めた。
「構わん。弱いものはいらん」とイナサ。
「それなら遠慮なく!」
牢番はそう言うや否や飛びかかってきた。シナトは慌てて剣を抜いた。しかし、相手は大人の鬼。圧倒的に強い。齢、十の子どもの力ではどうにもならない。それでも、あきらめきれずに剣を振り回した。まだ、剣士だった父が生きていたころ、剣の使い方は少しだけ習っていた。だからか、牢番はうかつにシナトを捕まえることはできなかった。
「ちょこちょこと動きが速いぞ。小僧」
「にひひ。その細っこい腕はどんな味がするんだろうよ? 昔、ちょびっとだけおこぼれをもらったスオウ様のように柿のような甘さか? あれは忘れられん甘さじゃった」
―― こいつ、母者を喰ったのか?
「お前の血は、父親のように赤い血のか?」
「人間はイノシシより柔らかくてとろけてしまうっていうのに、お前の父親は剣ばかり振り回していたからか、噛み応えがあったぞ?」
―― こいつ、父者も喰ったのか?
シナトの中でふつふつと怒りが込み上げてきた。
―― 許せない!!!
全身を駆け巡る血が煮えたぎっているような感覚を覚えた。
「ほう。鬼気も黒か……」と遠くでイナサがつぶやいている。
シナトは、ぐっと小さな剣を握りしめると、小さなころ教わったように剣を下から振り上げ、そして剣を前に突き出して走り出した。そして、力いっぱい床を蹴ると、飛び上がり、剣を振り下ろした。
「ぎゃああああああ」
牢番は、右目に刺さった剣を抑えながら、「痛い、痛い」と悲鳴をあげてのたうち回っている。
『今だ。殺せ』
シナトに囁きかける声があった。婆だ。婆がじっとシナトを見ている。
「で、でも、……」
『鬼の世界は負けたら死だ。強いこと、勝つこと、それが生きることに繋がる。お前も、生きるためにそいつを殺せ。そいつはお前の家族の居場所を密告し、お前の父を喰い、母を喰った鬼ぞ。憎くないのか? 牢の中にいるお前もいたぶっていたではないか。殺して当然じゃ』
―― !!!
シナトは手に持っていた剣を握りなおすと、牢番に突き進んだ。
「ぎゃあああああああああ」
青い血が自分の体にべっとりとつく。シナトは肩で息をしながら、真っ青に染まった手を見る。鬼とは言えど、自分をいたぶっていた奴だとわかっていても、シナトは目を背けた。しかし、体のどこかで、抑えきれない衝動が沸き起こる。全身の血がざわざわ沸き立つような感覚が起こる。思わず、シナトは真っ青に染まった手を舐めた。
―― 甘い。
脳の中にしびれるような感覚。
「……、そいつを喰え」
イナサが興味なさそうに、酒をあおりながら言った。
「スオウは嫌がっていたが、鬼として生きていくのなら喰え。喰わないのなら、お前の生きる道はない」
「ちょいとお待ち。この子は、鬼を屠るのも喰らうのも初めてなんだよ」
婆は立ち上がり、鬼の死体の前で顔を紅潮させているシナトのそばに近寄った。そして小さな声で話し出した。イナサは興味なさげに、酒をあおっている。
「スオウは鬼であっても、人間も鬼も喰うべきではないと言っておったのだよ。心が鬼になるからとな。しかしな、鬼は所詮鬼。喰うか喰われるか、強いか弱いか。心なんぞものはいくら探しても見つからん。あの子は夢を見すぎたのじゃ……・
シナト、お前、この鬼を見て喰いたいと思っただろう? 舐めた血は甘かっただろう? それは、鬼の強くありたいという本能じゃ。
そいつを喰らえば、そいつはお前の一部になる。そして、お前は強くなる。
……、生きるために喰らうのじゃ」
シナトは、鬼婆の顔を見、死体を見、自分の手を見た。そして、小さく頷くと、自分の目の前に倒れている門番に手をのばした……。
血の匂いのせいか、骨を咀嚼する音のせいか、はたまた同族を喰らうという罪悪感からか、嫌悪感と恍惚感がシナトの全身を支配する。そして、割れるような痛みを頭に覚えると、シナトは意識を手放した。
「ふん。ハヤテが十七になるまで、せいぜいあがくがいい」
イナサのつぶやきは、呪詛になってハヤテの心にしっかりと刻み込まれた…………。
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