水面の列車

長月瓦礫

水面の列車


「私が何をしたというのでしょうか」


彼女はぽつりとつぶやいた。車輪とレールのぶつかる音に交じったからか、その声は小さいように思えた。三途の川の水面を電車は走る。

彼岸花が盛りを迎え、赤色のまだら模様を作っていた。


「許せないんです。何もかもが」


「……」


なかなか向こう岸に渡ろうとしなかったらしい。

未練を残さないために猶予期間を設けていたが、とうとう限界が来た。

現世から離れようとしない者は本人でもどうしようもできない思いを抱えている。

それが暴走すれば、別の何かになってしまう。


普段なら、そうなる前に専門家の先生が説得して船に乗せるらしい。

しかし、今日に限って不在のため、仕方なく駆り出された。


管轄外もいいところだ。

そんな文句を言っていられる余裕もない。

彼女はずっとふさぎ込んでおり、負の感情が滲み出ている。


船に乗るのを拒み続けていたようだから、汽車を走らせてみた。

延々とレールは続き、列車は水面を走る。


「何がいけなかったんでしょうか、どうしてこうなってしまったんでしょうか?」


死者にとっては、船でも列車でも大して変わらないのだろう。

革張りのボックス席で向かい合わせに座る彼女は、キッと梅雨をにらみつけた。

今にも噛みつきそうな勢いで、矢継ぎ早に話す。


「あの日は本当に何事もなくて、平和に終わると思ってたんです!

母も静かでした。嫌いな人も出勤してこなくて、その日は」


「死ぬにはちょうどよかった、と」


「あなたもそう思いますか?」


救いを求めるような眼差しだ。正直、キツいものがある。

死ぬことでしか救えなかった。何もできなかった。

その状況が狂っていると言えないいことが何よりも異常だ。


「だから、あそこに居続けたってのかい?」


「私、何か悪いことしましたか?」


質問を質問で返される。会話になっていない。

現世で恨みをため続け、冥界へ行くのを拒んでいた。


高齢の母を一人で面倒見ている上に、仕事場での人間関係もよくなかった。

いつ死んでもおかしくない状況だった。


誰もが彼女の自殺を納得していたし、問い詰めなかった。

居間で首を吊っていたのを母親が見つけた。

死人は口をきけない。それをいいことに好き勝手言うのが世の常だ。


『死は約束されるもんじゃない。

生物は死ぬべき時に死ぬべきであり、生きるべき時に生きるべきなんだよ』


どうせ、専門家の先生とやらは難しい口調でそんなことを言うのだろう。

理屈で攻めて、逃げられないように外堀を埋める。

本当に嫌な奴だと思う。そんなものは誰も求めていない。


「……助けてくれなかったんだな、誰も」


静かにうなずいた。ただの素人に何かできるわけじゃない。

ただひたすらに、大人しく話を聞くだけだ。


「助けられなくて、ごめんな」


本当に奇妙な話だが、影は日増しに濃くなっている。

同時に光も強くなる。発展に消費はつきものだ。


「何であなたが謝るんですか?」


「事実だろう、ずっと悲鳴を上げてたのに何もできなかったんだから」


思わず吐き捨てるように言ってしまった。

もっと早く気づいていれば、助けられたかもしれない。

どうしようもないことだと、切り捨てていいわけがない。


器からあふれた水を受け止めるのが自分たちの役目だ。

すすり泣く声が車内に響く。列車は止まらない。


「一人で死ぬの、辛くなかったのか?」


「決心すれば、すぐにできましたよ」


「死ぬまでの間、何してた?」


「この際ですから、要らない物とか全部捨てたんです。

ゴミ捨てがすごく大変でした」


何となく想像できてしまった。

黙々と死ぬ準備を進めているのが手に取るように分かる。


「不思議ですね、死ぬ前ですらこんなに泣かなかったのに。

おかげで、少しだけスッキリしました」


真っ赤に泣きはらした目で笑っていた。

涙と一緒に消えたのか、未練や憎悪も薄くなっていた。


「どうしたら、よかったんでしょうね。結局、今も分からないんです」


「俺は専門家じゃないから、明確な答えは出せないんだけど。

少なくとも、これでよくなかったと思っているんだろう?」


それはまちがいないはずだ。

自分の死に納得していたら、こんなことは聞いてこない。


「大丈夫だよ、次があるって」


「本当に大丈夫でしょうか」


「大丈夫じゃなかったら、うちに来ればいいさ。風紋神社っていうんだ。

名前だけでも覚えているように言っておこうか」


「風紋神社ですか、覚えていたら御朱印を貰いに行きますね。

御朱印集めるの、好きだったので」


「そうだったんだな」


「なぜか御朱印帳は捨てられなかったんです。

今も家にあると思うんですけど」


口に手を当てて静かに笑う。

本当に好きだったから、最後まで手放せなかったのだろう。

気づいていなかっただけで、まったく救いがなかったわけじゃないのか。


「御朱印なんてもう何年も書いてないや。練習しとかないと」


「そうなんですか?」


「表向きは廃神社ってことになってるからさ。滅多に人が来ないんだ」


不思議そうに梅雨を見た途端、アナウンスが響いた。彼岸に着いたようだ。


「じゃあ、ここで降ります。ありがとうございました」


「それじゃあ、また会えたらよろしくな」


ゆっくりと停車し、ドアが開いた。

窓から彼女を手を振って見送った。


***


「本当にありがとうございました。

あのままだと地縛霊になって、もっと被害を出していたと思います」


いつのまにか目の前に死神が座っていた。

黒い頭巾を脱いで、顔を出す。

ひさしぶりに冥界へ来たが、ここは何も変わっていない。


「さすが、風紋の鬼ですね。その名は伊達ではありませんか」


「伊達も何もないけどな。こっちに関しちゃ、管轄外だし」


梅雨は苦笑した。

普段は風紋神社の管理を任されていて、冥界へ来ることは滅多にない。

死神に呼ばれた単なる助っ人に過ぎない。


「まあ、たまにはこっちにも顔を出さないといけないしな。

コイツもひさしぶりに走れて楽しそうだし」


「ずっと気になってたんですけど、どこから連れてきたんですか?」


蒸気機関車が二台の客車を引いている。

彼岸まで線路のない場所を走り、死者を送り届けてくれた。

普段は船で行き来しているから、珍しくて仕方がないのだろう。


「公園で暇そうにしていたからな。

夜なら誰も見ないだろうし、ちょっと借りてきた」


「幽霊列車、という奴ですかね。

まあ、そちらでどうにかできるのであれば、特に問題はありませんが……」


「今頃、電車がなくなってるって大騒ぎになってるかもな」


「いや、めっちゃ大問題じゃないですか。

さっさと元の場所に戻してください」


「大丈夫、これから戻るところだ」


窓の向こうでは太陽が顔を出し、茜色の夜明けが見える。

もう朝が来る。冥界を抜け、そのまま公園へ向かうのだ。


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