第一章 ベスタ、よろしく
第一話 何処行く先も川流
ここまで早く来ることなかっただろ。
夢はいつもこの言葉で締められる。それを発しているのは男性だ。少年というには少し顔はやつれていて、中年というには背丈が真っすぐすぎる。
特に特徴もない声には非難が込められている。自分とよく似た男性にゴンは返事をしようとして、その瞬間にパチリと目が覚める。
いつものことだった。なんて答えようとしているのか自分でもわからず、ただ夢の中では確実に何か言おうとしている。不明瞭な夢だ。
ぐあんと反動をつけ、体を起こす。頭が急に動き、少しだけ気持ち悪くなる。いつもよりも瞼が上がらず、細めた目でぐるりと部屋を見渡す。
同部屋の住人の姿はすでになく、ゴンはゆっくりとベッドから降りた。立ち上がり、振り返りつつ背伸びをする。ついでに二段ベッドの上段を確認する。ぐしゃぐしゃな布団と壁側へと追いやられた枕があるだけだった。
顔を洗ったり、服を着たりしてから、簡易キッチンへと行くとそこに一枚の紙が落ちていた。
手に取り確認すると、ルームメイトの書きなぐった文字が力強く残されていた。
『先に行く。遅刻しないようにしろよ』
「だったら起こせよ」
本気で思っていなくとも何かしら愚痴りたくなってしまう書き方にゴンはそのまま言葉を落とした。
そもそも机に置かずにキッチンに紙を置いておく時点で、少し気遣いがずれている。ゴンが毎朝キッチンに飲み物を取りに来ることを知っているからだろうが、少し肩透かしを食らった気分だ。
それ自体がルームメイトの狙っていたことだとゴンだって気づいている。
「気遣っているんじゃねぇよ」
そっちだって緊張しているくせに。
先に目的地に向かった相手がこの場にいないからこそ、ゴンは呆れたように笑った。
身にまとった訓練服は馴染んでいるはずなのに、鎧のように重い。手に持った案内図を何度も見返す。
ルームメイトが解いた緊張も部屋を出て目的地に向かう頃にはすっかり戻ってきていた。案内図にはご丁寧に行き方まで書いてあり、迷うことはなさそうだが周りに同じ方向へ向かおうとしている人がいないことが不安を狩り立てる。
矢印は今まで利用していた訓練施設とは違う方向へとゴンを連れ出そうとしており、踏みしめる砂利の感触も、沿うように続く壁の色も、同じ施設内にいるはずだが全く新しい日常の幕開けを示唆しているようだ。
矢印の先端まで歩ききり、一つの扉の前でゴンは止まった。この先にこれから配属される隊員がいるはずだ。ルームメイトも先に着いているだろう。
一度に全ての息を吐ききる勢いで肩を落とし、ぐっと顔を上げた。何度も準備をすると、いつまでたっても入れなさそうだからである。
扉にノックをし、中から「はい」との返事がかろうじて聞こえた。緊張で耳まで遠くなっているようだ。
勢いよく扉を開き、その勢いのまま敬礼をする。
「本日より配属されることになったゴンです。よろしくお願いします」
大勢に聞こえるように張った声を聞いたのは、たった一人だった。
「え、配属……?」
流れるような茶髪に、真ん丸と見開かれた桃色の瞳がこちらをまじまじと見つめている。
ゴンの予想に反して、扉の先に広がっていたのは大勢の人数が入れる大部屋ではなく、教室ほどのこじんまりとした部屋である。そして、ゴンを待ち受けていたのは、そこで隊の服に身を包み、靴をまさに履こうとしている人物、一人だけだ。
困惑の表情を浮かべたのは相手方だけでなく、ゴンも同じだった。
何度も案内図を見たはずだった。いや、間違いない。矢印が示す道をそのまま歩いてきたのだから。
「あー、ちょっと待った。俺が聞いてないだけかもだし、そんまんまでいいよ」
「え、しかし」
困惑から抜け出すのが早かったのは相手の方だった。端正な顔立ちで少し軽薄そうにも見受けられる少年は、「よっ」と靴のつま先を地面に数度叩いてから、扉の傍で立ち尽くすゴンの傍へ寄ってきた。
「大丈夫大丈夫、あとから班長とかに確認するしさ」
「いや、そうではなくて」
「ゴンだっけ? へぇ、結構がっしりしてんね。ちゃんと鍛えたんだ」
「まあ、そうですけど。それで、これ、合ってい」
「魔法は? 何が得意? 攻撃? 防御?」
この人全然人の言うこと聞かねぇな!!
ゴンに容赦なく詰め寄ってくる少年は間違いなく先輩ではあるはずだが、それにしてもゴンの言葉に耳を傾ける気が無さすぎる。
これで場所を間違ってきていたのだとしたら、大惨事だ。とにかく今からでも正解の場所へと向かいたい。そのためにも、この先輩に正解を聞くのが正着手のはずだが、聞く耳を持たれないのでは意味がない。
「すみません! この案内図の場所はここであっているんでしょうか!」
今もゴンに色々と話しかけてきている相手の流れを遮断するために大声を出す。例え失礼な行為にあたるのだとしても、身の流れを任せたままではいられない。
ゴンの声に、少年はパチパチと瞬きをした後、ニコリと笑った。
その笑みがあまりにも綺麗すぎて、ゴンは背筋に寒気が走り抜けた。気味が悪い。
「ああ、ごめんな。一人で舞い上がっちゃったよ。貸してくれる?」
「え、ええ、はい」
一変した態度にゴンは虚を衝かれたように目を見開く。流れを遮断したはずなのに、更に違う川流に投げ込まれたようだ。
ゴンから案内図が書いてある紙を受け取った少年は口元に手をやって、「うーん」とくぐった声を出す。
「確かに、この案内図に書いてあるのはここだよ。間違いない」
「そうなんですね」
ほっと肩の力が抜けたゴンに、少年は少し目を伏せて「でも」と声を落とした。
「ここに書いてある施設の名前はここじゃないよ」
「……え」
少年がゴンにも見えるように紙を持ち、もう片方の手で施設名のところをなぞる。そこには「第一部隊 共有施設」と綴られている。ゴンが目指していた場所だ。
「えっと、ここって第一部隊じゃ……」
文字から流れるように少年の方へ視線を移動させる。カチリと合った視線の先に見た景色に嫌な予感がした。
「ここは
ぐらりと視界が歪んだ気がした。ガチガチに緊張していた時でさえ平気だったのに、急に胃液が込み上げそうな気分になる。
最悪だ。まさか、天空部隊だなんて!
その部隊名は訓練生だったゴンでさえ知っているものだ。エリートの集まり。長年隊に所属してきた家柄の中でも最も権威の持つ
雲の上の存在だ。話すことさえ恐れ多く、天空部隊が訓練に参加するときに漂う緊張感は異常ではないと教官から聞いたことがある。
そんな天空部隊の敷地内に入ってしまうなんて、とんだ厄日だ。
「大丈夫か?」
少年が気遣うようにゴンの顔を覗き込む。正直それどころではないが、ゴンは唾を飲み込み、胃液を何とか抑え込む。
「……すみません、今すぐ第一部隊の方へ向かわせてもらいます」
どちらにしても行き先が間違っていたことには違いないのだ。遅刻になろうがなんだろうが、とにかくこの部屋から出たくてたまらなかった。
私服で高級店に入れるほど、ゴンは図太い神経を持っていないのだ。
「待った待った、そんな具合の悪そうな奴を向かわせられるわけないだろ。どっちにしたって班長に確認してからだよ」
具合が悪くなった原因はこの場所と少年にあるのだから、ゴンとしてはいち早く立ち去りたいのだが、少年も一歩も引こうとしない。
「それに、この案内図はここを示しているんだからさ。どっちが間違っているのかもわからないし、そんなに急ぐ必要もないって」
「いや、間違っているのなら早急に向かう必要はありますよ」
「間違ってたらそん時はそん時。班長とか俺が第一部隊に説明するから安心しろよ」
少年の言うことに反論が出来なくなり、ゴンは押し黙る。確かにゴンが説明するより、天空部隊である少年が説明した方が効果的ではあるだろう。
さきほどから少年の言う班長がいつ帰ってくるか気が気ではない。早く確認でも何でもしてほしい。どうせ、ここに来たゴンが間違っているのだ。天空部隊に所属されるような実力を持っていないことは自分が一番わかっている。
「まあ、班長達もすぐ帰ってくるだろうから、雑談でもしてよう。ほら、こっち座って」
「……しかし」
「具合悪いんだろ? 立っているより座った方がいいと思うけど」
確かに気分はすぐれない。緊張と居心地の悪さが人生の中でマックスなのだから。
少年に流されるようにベンチに座らされる。クッションが引き詰められており、座り心地はよい。
「なんか飲むか? 水分不足はやばいからな」
「いや、朝飲んできたのでそんなことはないと思います」
「そーか? ……んー、でも、時間経ってるし、一応飲んでおくか。こういう時って自覚症状薄れるし」
ゴンに確認を取っておきながら、少年は部屋の奥にあるたらいの中から瓶を取り出した。遠目から見てもわかるくらいに大きな氷がたらいには入っており、そこに瓶が複数冷やされている。
少年は瓶の蓋を開け、隣に座りつつ、ゴンへ差し出す。受け取った瓶は水滴がついており、冬に触りたくはないくらいひんやりとしている。
「飲めそうか?」
「はい、まあ……」
「じゃあ、飲んどきな。ほい、ぐいっと」
少年は手で瓶を傾ける仕草をして、ゴンに飲むよう勧める。
そこまでされるほどではないのに、と思いつつ、ゴンは蓋を開けられた瓶をそのまま返すことはできなかった。少年の言うとおりに瓶を口につけ、傾ける。流れてくる水分の味は林檎風味であり、ゴンは少し目を見開いた。
瓶を口から離し、息を吐く。
「どーだ? 気分良くなったか?」
ゴンを覗き込む少年に向け、ゴンは目を鋭くさせた。むっと眉も角度がつけられている。
「……馬鹿にしてるんですか」
「え、なんで?」
「リンゴジュースを飲むような年齢に見えましたか」
ゴンの言葉に少年はきょとんと目を丸くした後、「ははは」と笑った。
ゴンを馬鹿にしているような笑いではなく、ゴンは眉を逆八の字から曲げられた糸のように怪訝そうに動かした。
「確かにそうだわ。ゴン何歳?」
「17になりますけど」
「あー、17か。確かに、リンゴジュースをわざわざ渡すような年ではないな。悪かったって、そういうつもりじゃなかったんだよ」
いまだに笑いが止まらずににやけている少年にゴンは何とも言えなくなる。なんというか、距離が近いし、子ども扱いもされていたようだ。
少年は笑って出た涙をぬぐった。そこまで笑う事だっただろうか。
「ただ万人受けするって言ったら、それかなって思っただけ。嫌いではないだろ?」
「嫌いではないですけど、言うほど万人受けしますか? コレ」
「え、しない? やっばいなぁ、交友関係狭いから嫌いな人に会ったことないんだよ」
「……そうなんですか」
「そうそう。ゴンはあるの?」
人に親身になり、飲み物まで出し、人が喋らずとも勝手にべらべらと話すところからしても、交友関係が狭いイメージはなかったので、少し意外だった。変な人だとは思っても、それで人との関わりが狭くなるわけではないだろう。
ゴンは瓶を握り、中にあるリンゴジュースを見つめる。
「嫌いだ、という人は見たことないですけど、ジュースを選ぶ際にリンゴジュースを選ばない人たちは見てきました」
「なるほどな、確かに万人受けって言葉は強すぎたかも」
ゴンが言いたいことを瞬時に悟ったのか、少年は納得がいったように頷いた。
正直ここまですぐに理解されるような言葉選びをしなかった自覚はあるので驚いた。少年はゴンの視線に気づき、楽しそうに笑う。
「ゴンはいいな、色んな面があって」
「え?」
「見てて楽しい、話してて楽しい。ゴンこそ、万人受けするだろ」
「そんな人を物みたいに」
「結構褒めたつもりだったんだけどなー?」
照れ隠しに決まってるだろ。
そうは言わず、ゴンはリンゴジュースを飲む。その意図なんて少年には丸分かりなのだろうが、それでもいいのだ。
少年の交友関係の狭さを垣間見た気がした。ゴンが万人受けすると思うくらい濃い人々に、偏った人々に囲まれているのかもしれない。
まあ、天空部隊だし。
忘れていた事実が掘り起こされていく感覚だった。そうだ、ここは天空部隊だ。
「
雑に開けられ、大きく音が鳴った扉の方へ振り返る。そこには背の低い少年とその背後に複数の若めの男性がこちらを見つめていた。
少年の切れ筋のよさそうな目と似通った筋の入った声にゴンの背筋は自然に伸びる。そして、またあの緊張が瞬時に戻ってきた。
声をかけた少年に限らず、その場にいる人たち全員がゴンを訝しげに見ていた。
「あ、お疲れ様です。大丈夫ですよ、すぐ回復魔法かけてくれたんで」
「なら、いいんだが」
言葉を短く切り、ツンツンとした黒髪の少年は視線をゴンに移す。暗にゴンと一緒にいた茶髪の少年に説明を求めている。
茶髪の少年は慌てることもなく、「そうそう」と余裕そうに立ち上がった。
「この人、ゴンっていうんだけど、この紙見てここ来たんだって。班長、なんか知ってません?」
ゴンへ親指を向け、少年はわかりやすく経緯を知らせる。
少年は班長と呼んだ背の低い黒髪の少年にゴンが持ってきた案内図を差し出す。班長は紙を受け取り数秒黙った後、顔を上げた。
「……至急確認を取る。朔夜はそのままそいつの相手をしろ。お前たちは普通に休憩だ」
そういうと男性の合間を縫って、班長は外へと出ていってしまった。取り残されたゴンは自分の心拍数が究極に上がっていくのを感じる。
班長の指示通り、男性たちはゴンを気にしつつも各々部屋に入り、各自の持ち場なのか好きな場所に座りだした。普通に休憩するようだ。
「あ、そーだ。俺、自分の自己紹介忘れてたね」
どこへ視線をやるか迷っていたゴンへ少年は注意を引くように話しかけた。ゴンは少年の方へ顔を向ける。
先ほどから朔夜と呼ばれているのは確認できていた。それでも、少年はゴンにわかりやすいように改めて名前を言うつもりなのだろう。
「俺は
自分の名前が呼ばれたことなど気付かないうちにゴンの記憶はそこで途切れた。
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