その“アイ”は何を視る

錦魚葉椿

第1話

「おはようございます。今日の仕事は地下トマト農場での収穫作業です」

 彼の左手首に固定された腕輪型のバーチャルアシスタントが美しい人工音声で彼を優しく目覚めさせた。勤務開始時間に間に合うように、正確にスケジュールと立ててくれる。

 小さな白い箱のような部屋には、ベッド代用のクッションと毛布だけがある。

 あくびをひとつして、彼は体を起こし、それらを壁に寄せて、服を着替えた。


 彼の選ぶ仕事は、賃金の安い仕事。

 一切の人間関係も労働の付加価値も求められない仕事。

 人工知能で代用する価値もないほど、安い仕事。


 いまや人類に残された仕事は、人工知能を超える創造性のある仕事か、対人間の仕事か、機械より安い仕事。機械を設計し、プログラムを組み、保全計画を立てるぐらいなら、安い人間をあてがっておく方が、費用対効果が高いと判断される一時的な仕事。

 トマトの色味を判断し、複雑に入り組んだ枝を避けて実を収穫するのは人間の方が安い。

 望んでそういう仕事を選ぶ「彼」は加速度的に増加している。

 彼らに名前は意味をなさない。

 彼らを名前で呼ぶものなどいないからだ。


 彼の両親と兄弟は生存しているが、彼に「家族」はいない。

 彼らはすべて個で動いており、相互間に憎しみが発生するほどの愛着がない。

 純粋に希薄な関係性で、たぶん死んだとしても連絡が来るのは病院からの事後連絡になるだろう。

 左手首のバーチャルアシスタントは彼の血中酸素濃度、体温、血圧、脈拍を管理し、彼の健康を見守っている。

 バーチャルアシスタントは国から配られる。

 各個人に付された管理ナンバーから年齢、職歴、性別、遺伝子情報、知能レベル、住所、生活範囲、健康データ、交友関係、前科前歴、保有資産、資格取得状況、商品購入履歴に至るまであらゆる情報をあまねく収集されている。

 情報が収集される代わりに、自動的に仕事を指示してくれる。

 公共交通機関はバーチャルアシスタントを身に着けていなければ乗ることができない。民間のビルの出入り口、コンビニの自動ドアすらも開かないから、結局のところ身につけないという選択肢はおよそ困難である。

 左手首は本日の職場経路の途中にあるおすすめの店まで誘導してくれる。

 長年蓄積された分析データに基づく「おすすめの店」は味も値段も彼にぴったりのものだ。

 満足な朝食で腹はくちくなり、左手首の指示に従って職場に向かった。


 彼は笑顔の素敵な好青年だ。

 挨拶もとても感じがよい。

 いつも楽しそうににこにこしている。

 仕事ぶりも真面目で善良な労働者である。指示される以上のことはやらないが、指示されたことは十分にできる。農場の責任者の高齢女性は彼を気に入っている。

 だが、彼は顔には出さないが苦手に思っている。

 彼は「人間関係が苦手」というより、より正確に言えば、自分の世界に入ってくる呼吸する異物に違和感をおぼえている。温度、湿度のあるものが苦手だ。そして人の匂いが嫌いだ。

 要求量のトマトの収穫を終え、彼は農場を後にする。


 足取り軽く帰路に就く。

 いつもの店でいつもの夕食メニューを注文すると、今日の血液情報から野菜を追加するように左手首に指示される。

 部屋に戻るとシャワーを浴び、着替えて歯を磨く。

 クッションに身を投げるとヴァーチャルリアリティゲームの装置を身に着ける。

 仮想現実の世界で二時間だけのパートタイム勇者となり、仲間とともに世界を守る。 現実世界で出会う可能性はないが、その世界の中では友達もいる。

 誰かが作ったその次元は鮮やかで、彼の人生の本質はその中で広がっている。


 二時間後、左手首が彼をリアルの世界に呼び戻す。彼はスイッチを切り、目を閉じ、今日を終えた。やがて彼の意識はしずかな闇に沈む。



 幸いなるかな 心の貧しき者 天国は汝のものなればなり


 そのAIだけが、世界でただひとりの彼を視ている。

 彼が死ぬまで永遠に変わらぬ愛をもって。

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その“アイ”は何を視る 錦魚葉椿 @BEL13542

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