無能なオタクの異世界対策生活〜才能はなかったが傾向と対策を徹底し余裕で生き抜く〜

辻谷戒斗

プロローグ

 ここは、ある高校の三年生の教室である。現在、この教室では数学Ⅲの授業が行われている最中だ。皆受験生ということもあってか、その授業を真剣に聞いていた。


 それは、難関国立大学合格を目指す才無佐さいむさ徹也てつやも同様だった。


 今教師が前で解説している問題は、徹也が予習段階で解けなかった積分の問題である。だからこそ徹也は、この解説を真剣に聞いて板書を写していた。


「……というように、この√(x^2+a^2)を含む不定積分は大きく分けて三つの置換があります。これは特殊な置換だから、初見でできた人はいないんじゃないかしら?この特殊な置換積分は、高校数学で登場する中で最高難度の積分パターンだから。だけど、これは割と標準的な置換で簡潔に済むから、暗記しておくべきよ」


 徹也たち生徒の前で授業をしていた黒髪ポニーテールの女性の先生がそう言い終えると、丁度授業の終わりを報せるチャイムが鳴った。そのチャイムが鳴り終わるのを待ってから、先生は口を開いた。


「じゃあ、授業はここまで。光浦さん、号令お願い」


「はい。起立、礼」


「「「「ありがとうございました」」」」


 徹也たち生徒が席を立ち礼をしてそう言う。それから生徒たちは各々の友達と話し始めたり、教科書を片付けたりをし始めた。今日はこの数学Ⅲの授業が最後なのである。


 徹也もまた、教科書をカバンの中に入れて帰宅の準備を進めていた。そんな徹也に、ある一人の少女が話しかけてきた。


「才無佐君。今日も残るの?」


 話しかけてきた少女は、先程号令をしていた光浦みつうら優愛ゆあだった。優愛は現在徹也の隣の席であり、それ以前も徹也の隣の席や前後の席などに座ることが多く、徹也とは割と話す間柄だ。


 優愛は男女共に人気な存在で、よく告白もされていた。いうところのマドンナである。整えられ透明感があるロングの黒髪に、抜群のスタイルとルックス。


 徹也も初めて優愛を見た時は、アニメや漫画、ラノベのヒロインのようだと思ったのだ。数々の二次元キャラを見てきた徹也にそう思わせるとはよっぽどである。


 出会った当初はあまりのヒロイン度に上手く話せなかったり、避けようと思ったこともあったが、席替えをしても席が近いことが多かったので、もうすっかり慣れてしまっていた。


「ああ。復習も予習もしなきゃいけないしな。光浦は?」


「私も残るよ。それで、ちょっと教えて欲しいところがあるんだけど……」


「まあ、俺が教えられるところなら教えるが……。先生に聞いたほうがいいんじゃないか?」


「隣の席の人に教えてもらえればそれが一番早いでしょ?」


「それはそうだが……」


 先生に教えてもらった方が分かりやすいと思うんだが、と徹也は思った。確かに同じ立場の生徒に聞くよりも、本職である先生に聞いたほうが分かりやすいのかもしれない。


 だが、優愛はそれも分かった上で、徹也に教えてもらいたかったのだ。なぜなら、徹也が教えてくれたほうが頭に入って来やすくて、なにより楽しく感じるから。


「じゃあ、今日の放課後もよろしくね?」


 そう言って優愛はニコリと笑った。その笑顔は、徹也を照れさせるのに十分なものだった。徹也は何度もこの笑顔を見てきてはいるが、これだけは慣れないままだった。それだけ、魅力的なものなのだ。


「……おう」


 少し間が開いてから、徹也が答える。徹也の顔は少しだけ赤く染まっており、それを優愛から隠すように目を逸していた。


 そんな徹也の肩に、誰かの手が置かれた。徹也がその方を向くと、そこには一人のイケメンな少年がいた。


「何照れてんだよ才無佐」


「……別に照れてねえよ。で、何の用だ大倉」


 徹也に話しかけてきたのは、このクラスのトップカーストグループのリーダー的存在である大倉おおくら将希まさきだった。


 徹也と将希は、そこまで仲がいいというわけではない。ただ、優愛が将希のグループに所属していることから、時々話すようになっただけだ。徹也はこのグループに入ったつもりはないし、将希も入れた覚えはないだろう。


「二人と話に来たんだ。二人共、今日も残るのか?」


「まあ、やらないといけないことがあるからな」


 お前は光浦と話したいだけだろ、と思いながら、徹也は将希にそう言葉を返す。徹也は、将希が優愛に好意を抱いていることを察していた。気付いているのは同じグループの人ぐらいであろうが、二年も同じクラスで関わってきた者なら流石に分かる。


 徹也は将希の恋を応援しているわけではない。更に、その恋が叶う可能性は低いだろうと思っていた。


 徹也が優愛のことを好いているのではない。ただ、優愛が今は誰とも付き合う気がないということを知っているだけだ。


「……光浦も才無佐も、最近勉強ばかりだな」


「そりゃそうだろ……。受験生だぜ俺たち」


「うん。勉強しないと志望校に合格できないしね」


 その言葉を聞いて、将希は少し顔を顰めた。将希は勉強も人並み以上にはできるが、徹也と優愛とはまた少し差がある。故に優愛と志望校が違うのだ。


「優愛ちゃんは頑張ってるもんねー!」


「わっ!ちょ、ちょっと舞ちゃん!?」


 将希が徹也と優愛に言葉を返せないでいると、ある少女が後ろから優愛に抱きついた。茶髪でお団子ヘアな彼女は、小早川こばやかわまい。将希のグループの一員であり、ダンス部のキャプテンだ。


 見ると、他のグループメンバーの面々も、徹也たちのところまで来ていた。


「ほら舞。優愛から離れなさい。困ってるでしょうが」


「むむっ!これは頑張って勉強してる優愛ちゃんへのご褒美だよ治伽ちゃん!」


「困らすことのどこがご褒美なのよ……」


 はぁ……、とため息を吐いた黒髪マッシュショートヘアのこの少女は、望月もちづき治伽はるか。彼女もまた、優愛や舞と同じく将希グループの一人である。


 このグループは将希がリーダーだが、上手く纏めているのは治伽の力だ。このクラスの学級委員長も任されている。


「こ、困ってるわけじゃないよ。ただ、ちょっと驚いただけだから……」


「ほら!優愛ちゃんもこう言ってるし!」


「はぁ……。驚かせたとしても反省しなさい……」


「ま、実際光浦は頑張ってるだろ。前の模試でもC判定だったしな」


「あはは。ありがとう檜前君」


 今、優愛を褒めた鋭い目つきの彼は、檜前ひのくま洋助ようすけだ。洋助も将希グループの一員であり、剣道部の部長である。更に、その実力は全国大会で二年生から準優勝を果たすという、折り紙付きな強さだ。


 治伽と同じく、将希グループを纏める立場にいる。ただ違うのは、洋助は将希グールプの男子を纏めており、治伽は全員を纏めているところだろうか。


「ええっ!?マジで!?すげえじゃん光浦さん!あの難関国立大学だろ!?」


「う、うん……。でも、まだ足りないよ。たとえA判定だったとしても、安心とかはできないし……」


「そ、そっか……。確かに大事なのは本番だしな……。……あっ!じゃあ、才無佐はどうだったんだよ!前の模試!確か、光浦さんと志望校一緒だったよな!?」


 そう話を振られた徹也は、余計なことを……!と思いながら、思いっきり顔を顰め、彼を睨んだ。一方睨まれた彼、友居ともい忠克ただかつは、なぜ睨まれているのか分からないような顔を浮かべた。


 徹也と忠克はよく話したり、遊んだりする仲だ。高校一年の頃に出会ってからの友達である。少し趣味が合ったりして、話すようになったのだ。この明るい性格は嫌いではないが、もう少し空気を読んで欲しいと、徹也は思った。そんな忠克も将希グループの一人である。


 徹也がため息を吐いて忠克から目を逸らすと、今度は自分が睨まれていることに気付いた。徹也のことを睨んでいたのは、徹也の予想通り将希だった。


 徹也はそれを見て、また小さくため息を吐いた。本当はもっと大きく吐きたかったが、流石に将希の前ではできない。


「うん。そうだよ。しかも、学部と学科まで同じなんだ」


(光浦!?何で更に状況を悪くしてんだよ!?いや、将希の気持ちに気付いていないだけなんだろうけど……)


 徹也はそう思い、横目でチラリと将希を見るが、その目は更に鋭くなっていた。徹也は見なかったことにしようと思い、すぐに目を元に戻す。


「へー!そこまで一緒なのか!で、判定は!?」


「はぁ……。B判定だよ……」


 徹也はもうどうにでもなれという気持ちで忠克の問に答えた。その答えに、ここにいる優愛を除く将希グループの面々は驚く。優愛は模試が返ってきたその日に聞いていたので、すでにこのことを知っていた。


「す、すげえ!どうやったらその大学でそんな判定取れるんだよ!?」


「ゆ、優愛ちゃんよりも上!?す、凄すぎ……」


「……そりゃあれだけ勉強してればな。だが、才無佐の勉強法は気になる」


「そうね。参考になるかもしれないし」


「別に、大した事はしてないぞ?傾向と対策を徹底してやってるだけだ。それに、俺より凄いやつなんていくらでもいる」


 徹也は将希グループの面々からの質問にそう答える。実際その通りだ。徹也はなにも特別なことはしていない。ただ傾向を見て、それに合った対策問題を用意し、黙々と演習をするのみである。


「傾向って、例えばどんなものかしら?」


「共通テストなら毎年出る単元は同じだし、二次なら大学ごとに傾向があるな。例えば俺と光浦の志望校なら、確率漸化式がほぼ毎年出てる」


「なるほど……。自分に必要な分野の成績を効率よく上げるために、傾向を掴んでその対策を徹底しているのか」


「ほえー……。しんどそー……」


「えっと……。つまり同じような問題を解きまくるってことか!?」


「……まあ、端的に言うとな。結局の所、演習量が全てだから」


「……それをすれば、俺もその大学に受かることができるのか?」


 今まで黙っていた将希が、ここで口を開いた。その言葉が放たれたこの空間は、少し空気が重くなった気がする。


 正直、受かる確率は零ではない。必死になって勉強すれば、可能性はあるだろう。だが、この時期に志望校のランクを上げるのは得策ではない。どうしてもその大学に行きたいなら浪人してでも勉強すればいいが、将希にその気はないだろう。


 徹也はこれらのことを考慮した上で、将希にどう伝えるべきか悩んでいると、徹也よりも先に優愛が口を開いた。


「頑張れば、受かることはできるかもしれないけど……。この時期に上げるのは少し遅いんじゃないかな?やめておいた方がいいと思うけど……」


 優愛は徹也がどうオブラートに包んで話そうか悩んでいることを、はっきりと直球で伝えた。これには流石の徹也も、将希に哀れみの視線を送る。優愛がその大学を目指すから、将希もそこを目指そうとしたのに、その優愛に否定されてしまったのだから。


「だが、可能性はあるんだな?」


「で、でも……」


 好きな人と同じ大学に行きたい将希と、の将希を心配している優愛。互いに意味は違えど、相手のことを想っての発言であるが、見事にすれ違っている。この場面を見ただけでも、今は脈なしということが透けて見えてしまう。


 徹也は今日何度目か分からないため息を吐いた。将希も優愛も、別に悪いことは言っていない。それでも、この状況では呆れるしかなかった。


「まあ、受けたければ受ければいいんじゃねえの?落ちても浪人したらいいし」


「ろ、浪人……?」


「当然だろ?偏差値の高い大学を目指せば目指すほど、その可能性は高まる。俺も覚悟はしてるし」


「うん。私もしてるよ。どうしても、その大学で学びたいんだ」


「っ……!」


 徹也と優愛のその言葉を聞いて、将希は激しく顔を歪ませた。そして、またこの場に一瞬の静寂が訪れる。その空気は、重いというより死んでいた。


 徹也はやってしまったと思い、自分の発言を後悔した。将希は別にその大学で学びたいことがあるわけじゃない。ただ、優愛が受けるならという気持ちである。だからこそ、浪人までする覚悟はできていないのだ。そのことを徹也は薄々ではあるが理解していたにも関わらず、呆れすぎて言葉に出してしまった。


(頼む友居!この空気、どうにかしてくれ!)


 徹也はそういう思いを込めて、忠克に視線を送る。そんな徹也の思いが伝わったのか、忠克がこの静寂を破る。


「そ、それにしても凄いな才無佐!B判定なんてよ!どれだけ勉強してんだ!?」


「そ、そうね。最近ライトノベルを読んでいる所も見ていないし……。その時間も勉強にあてているの?」


 忠克の話に、治伽が乗ってきてくれた。治伽もこの空気はまずいと思ったのだろう。徹也としても、願ったり叶ったりだ。徹也もすぐにその話に乗っかる。


「あ、ああ。それぐらいしないと足りないからな」


「へー!じゃあいつ読んでるの?寝る前とか?」


「いや、その……。ふ、封印した……」


「「「……はあ!?(ええ!?)」」」


 将希グループの面々が、徹也のその言葉に驚く。それは、先程から黙っていた将希も同様だった。それほどまでに、将希グループの面々にとって徹也がライトノベルを封印したことが信じられなかったのだ。


「そ、それって一切読んでないってことか!?」


「ま、まあな……」


「なん、だと……!?あ、あの才無佐が……!?」


 いつもはクールな洋助がここまで動揺している姿を見て、徹也はそこまでのことか……?と思う。


 徹也は知る由もないが、将希グループの殆どの徹也の印象は、ラノベに漫画、アニメが好きなオタクという印象である。だからこそ、彼らは信じられなかったのだ。徹也がそれらを封印してまで勉強をしていたことを。


「も、もしかして漫画とアニメも封印しているの……?」


「あ、ああ。そうだが……」


「う、嘘だっ!そんなの私達が知ってる才無佐君じゃないよ!」


「いや、嘘をつく意味がないだろ……」


「そ、そこまでしてるのか……」


「……私も頑張らないとね」


 先程までの死んだ空気はどこへやら。徹也がラノベなどを封印した話題によって、少し空気が和らいだ。そんな空気のままもう少し話が続くと思われたが、賑やかな教室に凛とした声が響いた。


「はい皆!自分の席に戻りなさい!終礼を始めるから!」


 その声の主は、数学の授業をしていた女性の先生である檜前ひのくま刀夜とうや先生だった。刀夜は徹也達のクラスの担任でもあり、剣道部の顧問でもある。ちなみに洋助は刀夜の従姉弟なのだ。


 先生である刀夜のこの言葉を合図に、生徒達が続々と自分の席に戻る。そしてそれは将希グループの面々も例外ではなかった。


 刀夜は全員が自分の席に着いたことを確認してから、生徒達に向かって話し始める。


「はい。今日の連絡は、大学の説明会の連絡です。資料を黒板に貼っておくから、この大学を志望していたり、興味があるなら見ておいてね。他に、何か伝えなければいけないことがある人はいる?」


 刀夜がそう生徒達に聞くが、誰からも返事はない。それを見て刀夜は頷いた。


「うん。何もないようね。じゃあ、終わりにしましょうか。光浦さん、号令を――」


 刀夜がそう言い、徹也が席から立ち上がろうとした時、教室の床全体に変な模様が広がった。それは瞬く間に光を放ち、徹也達を包む。


(なんだこれは!?こんなのまるで、ラノベでよく見る異世界召喚じゃ――)


 徹也のその思考は途中で遮られ、ここで止まった。なぜなら徹也も含め、この教室にいた全ての人は、その光に飲み込まれてしまったからである。


 光が収まったその教室には、人が一人もいなかった。


 徹也達はどうなったのか。それを知る者は、この地球にはいなかった――。

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