第100話



***



 教師の父はいつも帰りが遅かった。

 その頃、父と母がお互いをあまりよく思っていなかったのは、子供だった町山にもわかっていた。すぐに離婚を持ち出すほど関係が悪かった訳ではないが、母はいつも父に対する愚痴をこぼしていたし、父は母の不満に一度も向き合わなかった。


 夫との不仲と育児のストレスで母親が鬱状態になったのは、町山が高校に入学してすぐのことだった。


 母が放棄した子育てを、父が受け継ぐわけがなかった。必然的に、町山が妹の面倒を見なければいけなくなった。


 妹は年が離れていた。十五歳の町山は、二歳の妹を持て余した。

 ちょうどそういう時期なのか、口を開けば「なんでなんで」と質問してきて、好奇心が満たされるまで満足せず、無視すれば泣き喚いて暴れる。小さなモンスターそのものの二歳児のせいで、せっかく出来た友達とLINEのやりとりも満足に出来やしない。


 あの日の夜も、母は寝室に閉じこもっていて、父は晩酌しながらテレビを観ていた。町山はうるさく話しかけてくる妹に辟易していたが、妹の声をうるさいと感じたのは父も同じだったようで、静かにさせろと怒鳴られた。

 何で俺が、と思いつつ、さっさと風呂に入れて寝かせることにした。これ以上、妹のキンキンした声を聞いていたくなかった。


 風呂にお湯を溜め、妹の服を脱がせようとした時、はたと自分の着替えを用意するのを忘れていたことに気づいた。


「動かずに待ってろ。何も触るなよ」


 妹にそう言い置いて、町山は自分の部屋に行って着替えを取って戻ろうとした。

 着替えを手に、風呂場に戻ろうとしたそのタイミングで、机の上の携帯がピコンと音を立てた。確認すれば、友人からメッセージが入っている。

 町山は携帯を手に取り、返信を送った。すぐに既読が付き、新たなメッセージが届く。

 普段は妹が「なにしてるのなにそれ」とうるさいから家ではろくに携帯を触れない。だから、つい没頭した。


 はっと気づいた時には二十分近く経っていて、町山は慌てて風呂場に戻った。


 洗面所の扉を開ける前から、なんだか嫌な予感がした。

 脱衣所には妹の姿がなく、風呂場のシャワーからお湯がてんてんと漏れている。


 風呂場を覗くと、妹はそこにいた。変わり果てた姿となって。


 浴槽にうつ伏せに浮かぶ小さな体に手を伸ばそうとした瞬間、誰かに強く突き飛ばされた。


『ーー、ーー』


 父が仁王立ちになって何か喚いていた。


『ーー、ーー』


 父は何事か激しく喚きながら、妹の体を引き上げた。


『ーー』

『ーー、ーー!』


 何故か母まで飛び込んできて、妹をだき抱えて泣き叫んでいるのを、町山はぼんやりと見ていた。

 すると、ぐいと襟首を掴んで引き立てられ、町山は父によって家の外へ放り出された。


 外は雨が降っていた。土砂降りだった。


 町山は尻餅をついたまま、荒々しく閉まるドアを見ていた。


 妹が死んだ。

 誰のせいで?

 誰が、死なせた?


 冷たい雨に体温を奪われた町山は、その後高熱を出して死にかけた。


『ーー』


 熱が下がった後、父や母に何か話しかけられても、なんと言っているのか意味がわからなくなった。うるさい妹も消えて、町山の世界はずいぶん静かになった。


 妹は死んだ。殺されたのだ。


 土砂降りの雨の日に。



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