第76話



 奈村はしばらく動けなかった。

 霊にしがみつかれた下半身に力が入らず、立ち上がることが出来なかったのだ。

 幸い、時間が経つとともに足が動かせるようになってきたというので、しばらくの間その場で待機となった。

 大透はおそるおそる穴の中を覗き込み、虫の死骸や小動物の骨に顔をしかめた。

 太陽が高く昇ってくる。連休中で良かった。万一、小学校の関係者に見つかったら、なんと説明すればいいのかわからない。

 稔も大透の横に立って、穴の中を眺めた。

 この穴の中からあれほど厭な気配がしたのは、こんなにもたくさんの「死」に満ちていたからだろう。それも、理不尽に痛めつけられて奪われた命ばかりだ。たとえ虫でも小動物でも、生きていたのだから。

 木々の隙間から朝日が差し込んできて、穴の中で何かがキラッと光った。

 稔は細い木の枝を拾って、虫の死骸に埋もれたそれを引っかけて拾い上げた。

「指輪……?」

 銀色の小さな輪っかを見て首を傾げると、歩み寄ってきた潔子がそれをしげしげ眺めた後で「私のものよ」と言った。

「あの子が生きていた頃に、盗られたのよ。みくりを妊娠中で……逆らってお腹に何かされたらって思って……奈村には失くしたって言ったけど」

 潔子は木の枝から指輪を抜き取ると、ふっと笑った。

「こんなもの盗んだぐらいで、私達を引き裂けると思ったのかしら。あげるわよ、こんなものぐらい」

 そう言うと、潔子は指輪を惜しげもなく穴の中に向けて放り捨てた。 

「指輪なんかしてなくたって、私が妻なのよ」

 不敵に言い放って、潔子は穴に背を向け、疲れた様子で目を閉じる奈村の元へ戻っていった。

 その背中を見送って、稔は穴の中に落ちた小さな輪っかを見下ろした。




 ***

 立てるようにはなったが奈村の足取りがまだおぼつかなかったため、潔子が運転したきた軽でまずは奈村とみくりを家に届け、それから稔達を迎えに戻ってきてもらうことになった。

「結局、特別邪悪な女の子がいたってことでいいのかな……」

 奈村の車にもたれ掛かって空を仰いだ文司が呟いた。

「わかんねぇ……」

 地面にしゃがみ込んだ稔は溜め息とともに答えた。

「……特別、邪悪ってこともないのかも」

 稔の横に立つ大透が、ぽつりと言った。

「誰でも、欲しいって思うものを自分じゃない誰かが持っていると、なんであいつが、って思うことあるじゃん」

 梨波は奈村を欲しがった。だけど、奈村には奈村の意志があり、梨波のものにはならなかった。それに、奈村には愛し愛される妻と娘がいた。

「でも、普通は我慢とか常識とか覚えるものだけど、誰にも教えてもらえなかったのか」

「いや、覚えたくなかったんだろ」

 稔はきっぱり否定した。梨波には、奈村のような大人がたくさんいたはずなのだ。きちんと道理を説いて、言い聞かせてくれる存在が。

 だけど、梨波はそれを何一つ聞き分けようとしなかった。何を言われても、自分は悪くない、周りのせいだと言い続け、自分が手に入れられないものがあることを認めなかった。

「……最後に黒い影みたいの見えたけど、あれって何?」

 稔ほどはっきりは見えなかったのだろう大透が、稔をちらりと見て尋ねた。

 稔は静かに答えた。

「たぶん、動物」

「動物……」

 それはきっと、あの穴の中の骨の。或いは、梨波に理不尽に殺された野良猫や余所の飼い犬だったかもしれない。それとも、それら全ての集合体か。

「土の中に、引き込まれたよ」

 自分が殺したもの達によって、穴の底に連れて行かれたのだ。

「土の中に埋められたって、自分でそんな嘘ついてたから、本当に土の中に連れていかれたんだよ」

 稔はやりきれない想いでそう告げた。

 あの中に引き込まれたら、死んでも永遠に救われない。稔はそう感じた。

 あの穴の中は、すでにこの世にあっていい場所ではなくなっている、と。

 あの中は、あれは、あれは―――

「……もしかしたら、土の中って、地獄みたいなものかもしれませんね」

 稔の内心を読みとったかのように、静かな声で文司が言った。

「だとしたら、あの子は自分が落ちる地獄を、せっせと作っていたんだな。自分の手で」

 大透もそう言って目をすがめる。

「……怖いな」

 自らの手で地獄を作り出して、自らの業で底へ落ちてしまった。

 どうすれば良かったのだろう。

 稔はぼんやりと考えた。

 もし、もしも、梨波のような人間が他にもいたら、どうすればいいのだろう。自らの手で地獄を作り出してしまう人間が、もしも身近に現れたら、どうするべきなのだろう。

「地獄を作らないように、生きていかなきゃならないんだな。誰だって」

 葛藤する稔の横で、大透がはーっと息を吐き出して言った。



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