第75話



「っ、潔子っ!?」

「あなた!!」

 奈村が信じられない表情で斜面を駆け上ってくる妻を見た。潔子は奈村を抱き締めて、自らの上半身で梨波の視線を遮った。

 形容しがたい不快な声がこだまして、梨波の怒りが膨れ上がった。

「どうして、ここに……」

「探していたのよ、あなたと、みくりを……こっちだ、って言われたような気がして……」

 潔子は奈村を抱き締めたまま、きっと梨波を睨み据えた。

「……私はもう、あんたなんか怖くないわ」

 潔子は梨波の顔の前に、自分の左手を突き出した。

「私が怖がったせいで、あんたをこんなにつけあがらせてしまったのね。でも、私はあんたなんかもう何も怖くない。この人とみくりを失うこと以上に怖いことなんかないわ!!」

 奈村が出て行った後、潔子は自分に問いかけた。

 ずっと、怖くて怖くてたまらなかった。それでも、逃げ出さなかったのはどうしてだろう。

 答えは簡単だった。奈村とみくりを愛しているからだ。妻として、母として。

 そう、潔子は奈村の妻で、みくりの母だ。二人と幸せに暮らす権利がある。二人と何の関係もない、なんの権利もない霊などに、怯える必要などない。

「この人もみくりも!あんたなんかに渡すものですかっ!!」

 潔子が梨波の手に掴みかかり、奈村から引き剥がそうとした。

 見ていた男達はぎょっとした。大人しそうな潔子が、梨波を力ずくで引き離そうと歯を剥き出している。

「この人がいるべきは私とみくりの傍なの!!あんたにはっ、その穴の底がお似合いよっ!!」

 潔子が言い放つと、梨波が弾かれたように飛び退いた。

 奈村から手を離した梨波は、もはやとても少女と呼べぬ形相で、潔子を睨んだ。その口から出る言葉は、既に人の声ではない。

 稔は愕然とした。

 この子は、何になってしまったんだろう。

 梨波が吠えた。そして、斜面の下、木にもたれて眠るみくりの方へ、矛先を変えて飛びかかった。

「みくりっ!!」

 奈村が叫ぶ。が、

 みくりと梨波の間に、すっ、と、一人の老人が立った。

 小野森だ。

 梨波の体が、空中で磔になったように止まる。

 小野森の姿が音もなく消え、代わりに、いくつかの黒い小さな影が生まれた。

 稔は強く漂ってきた獣臭に眉をしかめた。

 ぐふっぐふぅ、と、獣の息遣いが聞こえる。

 黒い影達は、空中でもがく梨波の腕と足に飛びかかった。そして、その勢いのまま、梨波を引きずって穴の中に飛び込んだ。


 ぎゃおおおぉぉぉろおぉぉぉととぉぉろぉおおおおおおっっ


 おぞましい声が響いて、稔は思わず頭を抱えて耳を塞いだ。

 穴の中にわだかまっていた厭な空気が、ぐつぐつと煮えたぎって沸騰したように盛り上がった。

 それが見えたのは稔だけだったろうが、見えずとも異様な気配を感じたのか、全員が身を引いて後ずさった。

 厭な空気は弾けそうに膨れ上がった直後、急速に力を失ってしゅるしゅると萎んでいった。穴の底へと、吸い込まれていくように。

 稔は見ていた。その空気に巻き付かれ引きずり込まれていく、少女の姿を。

 指の先まで引き込まれて、見えなくなるまで。

 全てが穴の底へ引き込まれ、何もなくなるまで、誰も何も喋らずに立ち尽くしていた。

 そうして、穴の中の厭な空気が全て消えた後で、文司がへなへなと地面に膝をついた。大透も、どさりと尻から地面に着地した。稔は力なく立ち尽くし、奈村夫妻は抱き合って穴を見つめていた。

 気がつけば、空は薄明るくなっていた。


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