第二話「鏡の顔」

第42話



「倉井君」

「なんだ」

「トイレ行ってきていい?」 

 稔はがっくりと肩から力の抜ける思いがした。

「行きたいなら行けばいいだろ!オレになんか付いてこなくていいから」

「そんなこと言わずにさあ、せっかくオレ手伝うって言ってんだから、もっと有効活用してやってよ」


 教師から次の授業に使う資料を取ってこいと頼まれたのは稔だった。大透は勝手に付いてきただけだ。資料室は南校舎の隅にあるから、高等部のある棟を横切らなくてはならない。

「でも、ここ高等部のトイレだぜ」

 別に禁じられているわけではないが、高等部のテリトリーにはやはり入りづらい。躊躇する稔とは正反対に、大透は堂々としている。

「高等部だからって大人用の便所があるわけじゃないだろ。トイレは使われるためにあんの」

 言いながら、大透はさっさとトイレの扉を開ける。仕方がなく、稔も付き合う。置いていったら後でうるさいだろう。

 二人が入るのと入れ違いに、高等部の生徒が三人、トイレから出てきた。その中の一人と目が合った。がっしりとした体格で、高校生というより大人に見える。三、四歳しか違わない年齢だろうに、背の高い文司や空手で鍛えている石森と比べても遥かに大きく見える。稔はちょっと身を引いた。

 三人が出ていった後に、洗面台の前の鏡を睨みつけている少年が一人残されていた。鼻から血が流れている。大透が稔にこそっと耳打ちした。

「ここまであからさまに「今ここでいじめがありました」って状況も珍しいな」

「いいから、さっさとしろ」

 素直にハイと答えて便器に向かう大透をやれやれと見送って、稔は少年に歩み寄った。

「これ、よかったらどうぞ」

 ポケットティッシュを差し出すと、少年は面食らったように目を見開いて、それからどうしたらいいかわからないように視線をさまよわせた。高等部の制服を着ているが身長は稔とほとんど変わらない。そのせいもあってか、とても年上には見えなかった。中等部の制服を着た稔にさえ怯えた態度で口もきけずにいる。なるほど、いじめられそうなタイプだ。

 稔も人好きのする方ではないので(最近はうるさいのがまとわりついているためそうは見えないが)心持ちがよくわかった。

 いつまでたっても受け取ろうとしないので、稔はティッシュを黙って洗面台に置き、用をたし終えた大透を連れてトイレを出た。

「なんか、典型的ないじめられっこって感じだな」

 大透の言葉に稔も頷いた。

「でもねー、サッカー部の藤蒔がいじめってのは意外だな」

「あのでっかい奴か?」

「そ。中等部の頃から大会で活躍してたらしい。将来はプロ目指すんじゃないかって言われるくらいで、他の高校からもスカウト来てたらしいけど、内大砂に残ったんだな」

 いつもながら、大透はどこからこういう情報を仕入れているのだろうと、稔は首を傾げた。教室にいる時はほとんど稔と一緒にいるし、噂話に無節操に飛びつくタイプでもない(オカルト関係除く)のに、やけにいろんな事情に詳しい。

「うちの学校、毎年イギリスの高校にサッカー留学生を送ってるだろ?来年はあいつに決まってるってみんな言ってるよ」

「高校生にもなって、いじめなんてくだらないことにエネルギーを費やす馬鹿が我が校の代表か」

 稔は溜め息を吐いた。



 ***

 高遠は洗面台の前に立ったまま動かなかった。じっと鏡を見つめる。鼻血を出して、目の上を腫れ上がらせた惨めな自分がそこにいた。

(なんで、僕ばかりがこんな目に遭うんだ)

 藤蒔の顔が目に浮かぶ。

(あいつはサッカーが出来るってだけでちやほやされていい気になってる。スポーツが出来ない奴のことはクズだと思ってる。自分だって、サッカーしか出来ない癖に。ああ、あんな奴、いっそ一生サッカーが出来なくなればいいんだ。そしたら自分がどれほど役に立たない人間かってことがよくわかるさ……)

 チャイムが鳴った。高遠ははっと我に返った。鏡の中の自分が、いつもの情けない顔に戻る。

 いけない、と思った。

(僕、また凄い顔をしていた)

 憎い相手のことを思う時、自分が鬼のような形相で鏡を見つめていることに高遠は気づいていた。そのあまりに醜悪な形相に、自分で驚くことが最近よくある。

(だめだ。こんなんじゃあ……)

 ガクッと下を向くと、洗面台に置かれたポケットティッシュが目に入った。さっき入ってきた中等部の生徒が置いていったものだ。高遠はそっとそれを手に取った。

(優しい子だな。僕も見習わなくちゃ)

 高遠はティッシュを見つめながら自嘲の笑みを浮かべた。いじめられたからといって、自分まで鬼のような人間になってはいけないと胸に刻む。

 その時、鏡の中でスッと影が動いた。

 誰か入って来たのかと思い、高遠は洗面台の前からどいた。そのままトイレから出ようとして、ふと足を止める。戸を開ける音が聞こえなかった気がする。

 高遠は後ろを振り返った。誰もいなかった。

 本鈴のチャイムが鳴った。


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