旅館のシマちゃん
浦田たつき
第1話 潮風
早めの春がやってきたらしく、まだ2月下旬というのにポカポカと暖かい日だった。
乗ってきた赤色の電車を降りると、そこには海まで町並みが広がっていた。夜景がきれいだと聞いているが、昼間はまだその様子は伺えない。
「潮のにおいって、こんなのなんだ…」
ママから聞いてたよりもキツい。都会で育ってきた私にとっては初めての経験だった。それに、においだけでなく、心なしか肌もベタベタするし。
大学を卒業したあと、人をおもてなしする仕事がしたくて、私はここ、暁町へインターンに来た。
単身知らない町に、短い期間とはいえ飛びこむのは勇気が必要だったが、パパが、
「お前は世間知らずなんだから、なんでも体験してくるのは大事だ。行ってきなさい」
と、後押ししてくれたので、あえて見ず知らずの場所まで、乗り継ぎを繰り返して新幹線やら私鉄やらに揺られてきた。
普通の父親って、もっと娘を1人で知らない場所に行かせるのに抵抗ないのかな、とか、世間知らずって失礼な!とも思ったけど、夢を文句のひとつも言わずに応援してくれたことは嬉しかった。
出発前のことを思い出していると、ふいに私に声をかける人がいた。
「あの、相生一花(あいおいいちか)さんでしょうか」
グレーのスーツにダークブルーのネクタイを締めた背の高い人だった。すらっとしててかっこいい。まさに「紳士」という言葉が似合う人だった。
「は、はい。インターンに来ました、相生と申します」
「こんにちは、遠路はるばるお疲れ様でした。私は今回、インターン生の指導を担当します、赤座康介(あかざこうすけ)と申します。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
急にかしこまって話しかけられるとなんだか緊張する。そうだ、私は観光に来たわけじゃない。夢を叶えるための経験を積みに来たんだ。
「他のインターン生は…」
実は、私の他にもインターン生がいる。定員は私を含めて4人で、枠は全て埋まっていると聞いているが、その姿は見えなかった。
「相生さんは遠くからお越しなのでお気になさらないで頂きたいのですが、ほかの3人は既に旅館の方に着いておりますので」
ああ、そうなんだ。仕方がないとはいえ、遅刻したような気分だ。それを見越して、フォローをしてくれる赤座さんの配慮に早くも感服。
「私たちも移動しましょう。女将がお待ちです」
「あ、はい。わかりました」
あわてて車まで向かおうとすると、思いのほかスーツケースが重たい。見かねた赤座さんがささっと駆け寄って持って行ってくれた。
憧れるばかりじゃいられない。私もおもてなしのできる人間にならなければいけないのだ。
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旅館へ向かう道中、赤座さんは自己紹介に加えて、暁町のことを語ってくださった。
赤座さんは、高校の修学旅行で初めてこの町に訪れて以来、人の温かさや自然の豊かさ、それに食べ物の美味しさなんかに惹かれて、ここで働くことを決めたという。
「恥ずかしながら、ここに来る前は、実を言うと半分ヤンキーみたいな少年だったんですよ」
今の清潔感溢れる短髪からは想像できないくらい、髪をひたすら伸ばして、毛先を真っ赤に染め上げていたと、赤座さんは笑って話した。
「そうだ、赤といえば、暁鉄道、乗ってこられましたよね?」
「はい、そうですが」
「どうして赤色なのか、ご存知ですか?」
ここに至るまでに乗った最後の電車、暁鉄道。駅の様子を思い出して推測してみたが、どうも思い浮かばない。考え込んでいると、
「暁、というのは、夜明けのこと。この町の海は東側にあるので、朝焼けがとても神秘的なんですよ」
「ああ、ということは、太陽の赤ですか?」
「正解!1ポイント差し上げます」
なんのポイントだかよく分からないけど、とりあえず頂いておく。町の名前や電車の色の由来が分かると面白い。またあの列車に乗るときは、この町のことにもっと詳しくなって、成長して帰る時だろう。
「さあ、海に出ますよ」
窓の外を眺める。右側に、果てしなく広がる群青が見えた。昼の日光を浴びて、手前の海は宝石のようにきらめいている。
魚とかいるのだろうか。下調べした時には、イルカが泳いでいることがあるなんて聞いたことがある。
いろいろ考えながら景色を見つめていると、車がカーブでゆっくりになったタイミングで、手前のテトラポットにちょこんと座っている黒トラの猫と目が合った。
なんだこいつは。そんな風な目で見られた気がした。気のせいだろうか。
「この町って、猫もいるんですね」
黒トラを尻目に、赤座さんに質問する。
「ご存知と思いますが、この町は漁業で有名なのでね、おこぼれにあずかろうとする野良猫で早朝の港はバーゲンセールみたいですよ」
赤座さんがまた笑う。ぜひとも見てみたい。きっと可愛いに違いない。
私もおばあちゃん家で猫を飼っている。おばあちゃんも猫も、歳をとってきているはずなのに未だに元気いっぱいだ。どっちが長生きするかで、最近は競走してるらしい。私としては、そのままずっと競走し続けてほしいものだ。
「さて、そろそろ着くので準備をお願いします」
スーツケースを手元に引き寄せ、降りる準備をする。まもなく、海岸に高く、高くそびえ立つ旅館が現れた。
「ようこそ、北前屋へ」
真っ白な外壁。1番上には、"北前屋"の文字が行書体で大きく掲げられている。
ここで1ヶ月、春休みの間、私は生活する。
どんなことが待っているのか。私はワクワクしながら車を降りた。
…第一印象は、これだった。海の目の前まで行ったことがない人間なら、誰だってこうなると思う。
「潮風、くっさい!!」
このにおい、1ヶ月で慣れるだろうか。不安でしょうがない。
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