第五章 魔犬と少年(2)
2
〈マオールブルク〉城では、冬に
クレアはベリーと蜂蜜を入れたクッキーを大量に焼き、人々にふるまっていた。先祖の霊とともに食べるお菓子だ。城の厨房と広場を往復する少女の足下には、黒い仔犬『チビ』がつきまとっている。グレイヴ伯爵の二頭の猟犬、ブランとネルトほど大きくはないが、チビの脚は伸び鼻は尖り、すらりとした若犬に成長していた。
白い
「ご機嫌ですね、クレア姫さま」
「クルトが帰ってくるのよ。ライアンおじさまと、アゲイトも来てくれるって」
「そりゃあ、楽しみですな」
老兵は灰色の眉尻を下げて微笑んだ。クレアは自分で刺繍をほどこした橙色の
昨夜、
ライアンとアゲイトに会うのは久しぶりだ。クルトは上手く乗馬できるようになっただろうか。三人とも、しばらく城に滞在してくれるなら、話したいことが沢山ある。――クレアの小さな胸は、期待でいっぱいだった。
城の人々が忙しく立ち働いている昼下がり、ティアナ女大公は菜園にいた。今夜の料理につかう
「
小声で報告を聞いたティアナは、真顔になってウォードを見詰めた。収穫した野菜と樅の枝の束を侍女頭のゲルデに任せ、オリーブ色の
〈マオールブルク〉城でもっとも〈聖なる炎の岳〉に近いこの場所には、二人の人物の墓がある。ティアナの母エウィン大公妃と、双子の姉セルマだ。――セルマが主塔から突き落としたエウィン妃を、ティアナは先祖の墓に入れなかった。父親の前大公は行方不明であり、家族の墓はない。セルマを主塔の影に埋葬し、そこからすこし離れたところにエウィン妃を埋葬していた。
人々の生活圏から離れているため、普段はひとけがない。季節の花が一面に咲く花畑のなか、セルマの墓の前に人影が佇んでいた。
古い
ティアナは溜息まじりに声をかけた。
「アルトリクス。帰ってきて下さったのですね……」
アルトリクスは、無精髭におおわれた頬をゆがめて苦笑した。
「ご無沙汰しています、ティアナ様。……帰って来た、などと言える立場ではありませんよ。私は
頭巾をかぶったまま頭を下げると、目隠しされた顔に長い髪と影が落ちた。彼を追放したのは両親だ。ティアナは悲嘆をこめて囁いた。
「そんな風に仰らないで……。父に代わって謝罪いたします。ですから、どうか」
「ああ。そうではありません、ティアナ様。セルマと父上の死に、私は責任があるからです。さらに、子ども達の世話まで押しつけてしまった。貴女には、感謝してもしきれません」
アルトリクスは、ふっと
「アルトリクス。クレアとクルトに会ってください」
これを聞くと、アルトリクスは困惑した。頭巾を脱ぎ、骨ばった手で頭を掻きながら、歯切れ悪く口ごもる。
「今さら父親
「貴方はお二人の父上ですよ、アルトリクス様」
ウォードが声をかけ、アルトリクスは
「ウォード……?」
「はい、私です。ティアナ様、許可なく話すことをおゆるし下さい。――アルトリクス様、この十年、貴方がときどき城を訪れて、公子さま達の成長を気に懸けていらっしゃったことを、私達は知っています。私とゲルデ、〈山の民〉のひとびとは……。会えなくても、観えなくても、貴方はお二人の父上です」
アルトリクスは気圧されたように黙りこんだ。左腕でしっかりと
「……私はセルマに逢いに来たのです、ティアナ様。エウィン妃を
「〈約束の国〉?」
「はい」
ティアナが首をかしげる。アルトリクスは袋から竪琴を取りだし、音をたてないよう弦をなでた。
「セルマはエウィン妃を封じています。このままでは、二人とも〈約束の国〉へ行けません。私は
アルトリクスはふっと自嘲気味に息を吐き、囁き声で続けた。
「今の私は、燃え残った炭のようなものです。かつての
ティアナとウォードは、言葉を失くして彼を見詰めた。光を失い、妻を喪い、帰るところを奪われたアルトリクスの十年間の孤独と苦悩は、想像できる範囲をこえている。目的のために山野を彷徨い、憤怒と嘆きを棄てた彼が、同時に生命を削ってしまったのは、無理もないと思われた。
二人の思いを察したのか、アルトリクスは微かに
「こんな風に言えるのは、子ども達が無事に育っていると知っているからです。ティアナ様。貴女のお陰で、クレアとクルトは健やかに、優しく聡明に育ってくれました。二人とも、自分の生きる道を自分でえらび、歩いて行ってくれるでしょう。……ウォードとゲルデにも、ライアンとアゲイトにも、お礼申し上げます」
「アルトリクス。あなた――」
その時、客人の到着を告げる角笛が鳴り響き、城内はにわかに騒がしくなった。グレイヴ伯爵と供の者たちがやってきたのだ。ティアナはそちらを振り返り、アルトリクスは微笑んだ。
「クルトが帰って来たようですね。ライアンとアゲイトも一緒だ」
「――どうすれば宜しいの?」
ティアナは覚悟を決め、硬い口調で訊ねた。吟遊詩人は一礼して答えた。
「いつも通りにお迎えください。サウィンの儀式も、例年どおりにお願いします。陽が沈んだら、村の人々を出来るだけ早く帰らせて下さい。〈影の王〉が現われる前に家に帰りつけるように」
「分かりました」
「私が来ていることは、クルト達には教えないでください。クレアとライアンにも。先手を打てなくなりますので……。その時まで、私は、セルマと話をしています」
ティアナはうなずき、
馬の蹄音と荷車の車輪の
「アルトリクス……アルト! わしじゃ、ジョッソじゃ!」
「ジョッソ殿?」
「うちもいるわよ。久しぶりね、アルトリクス」
アルトリクスが伸ばした手を両手でつかみ、ジョッソは頬をすり寄せた。もこもこの毛皮とざらざらした髭に触れ、アルトリクスは思わず微笑んだ。
「ジョッソ殿、グウィン殿。貴方がた、冬眠する時期では」
「そうよ。でも、あなたが帰って来たから」
「アルト~~~!」
ジョッソは半泣きだ。アルトリクスの膝にむぎゅっとしがみつき、おんおん鳴く。アルトリクスは、彼の柔らかな背を撫でた。
「ジョッソ殿、申し訳ない。貴方の娘の〈ティアナ〉は、私を庇って下さったばかりに」
「かまわぬ、
「父さん。アルトリクスは……」
グウィンはしゅんっと鼻を鳴らし、小声で告げた。
「アルトリクス。うち、クレアと契約を結んだのよ」
「それは……。まだ、アイホルムを見捨てないでいて下さるのですね」
「勿論じゃ」
ジョッソは黒い
「人間どもは無礼で愚かだが、おぬしとティアナのように、他人の過ちをただし、
「クレアは素直でいい子よ、アルトリクス。クルトもね」
「宜しくお願いします……」
アルトリクスは、ふたりの毛の間に顔をうずめた。
「間もなくサウィンが始まります。〈影の王〉が現われたら危険ですから、隠れていて下さいね」
「承知した。わしらもセルマを見送るぞ」
頼もしい〈山の民〉の長の返事を聞き、アルトリクスは微笑んだ。
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