第四章 失われた王国(2)
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〈
まだ昼間のはずだが、辺りは夕暮れの気配がした。クルトはアゲイトの背に訊ねた。
「〈妖精の道〉って、いつもここにあるの?」
「いつもはない。竜がお前たちに居場所を知られたくないからだろう」
アゲイトは前方で上下に揺れている妖精の灯を見ながら答えた。クルトは首を傾げた。
「アゲイトは通ったことがあるの?」
「ある……時間と距離を縮めてくれる」
(時間と距離。)思い当たるところがあり、クルトはグレイヴ伯爵を見遣った。〈
ライアンはクルトの視線に気づくと、右の眉をひょいとあげて笑ってみせた。
竜と〈古き森〉の魔法に護られ、妖精の道をつかい、魔法の鋼を鍛えるアゲイト。幼馴染の従兄のこれまで知らなかった面を知ると、少年の胸に尊敬の念がわいてきた。盾が彼を選ぶのも無理はない、と思えてくる……。
門番のようにならぶ糸杉の木立を抜け、太い樫の根元をめぐると、彼らの前に、突然、青い空を映した鏡のような湖沼が現われた。
妖精の灯は消えていた。
フェルテジルとアゲイトが馬をとめ、クルトとライアンも馬から降りた。レイヴンは鹿毛の首にしがみつき、がたがた震えている。クルトは恐怖より好奇心にかられて水辺へと歩みよった。
湖上家屋の傍らに、孤立する
「これが、
ライアンが感嘆をこめて囁く。レイヴンは伯爵の背に隠れている。クルトは数秒まよってから、アゲイトに
アゲイトが魔法の盾のおおいを外すと、盛りあげ飾りは白っぽい光を宿していた。明滅はしていない。アゲイトはそれを竜に向け、率直に訊ねた。
「シルヴィア。前触れなく押しかけて、すまない。アルトリクスがクルトに残した盾が、オレを選んだのだ。理由を知りたい」
竜の影は動かない。紫水晶をおもわせる澄んだ瞳が、たかみからこちらを見下ろしている。クルトは自己紹介をこころみた。
「はじめまして。ぼくはアルトリクスの子、クルト・ディ・アイホルムといいます。アゲイトの従弟です。お願いがあって参りました」
「ライアン・ディ・グレイヴと申す。アイホルム公の臣だ」
ライアンも膝をつき、
(自分で言わないと駄目だ。) クルトはごくりと唾を飲んできりだした。
「ぼくは 〈影の王〉 に狙われています。レイヴン卿が交渉して、三年の猶予を得てくださいましたが……三年後、『失われたウリン』の国を復活させるため、生贄にされてしまいます。ぼくは、まだ死にたくありません。
逆光と霧にかくれて竜の表情はわからない。クルトは背筋を流れる冷汗を感じつつ、口上を考えた。
「……父の盾がアゲイトを選んだので、ぼくには武器がありません。魔物を倒すラティエ鋼をつくるには、貴女の
最後まで言って、クルトは頭を下げた。風がさわさわと葦の葉をなで、ロンの飛び立つ羽音が
やがて、竜はそのまなざしをアゲイトに戻した。
〈盾ニハ、盾の
感情のこもらない平坦な口調だが、滑らかな声だった。きれいな声だな、とクルトは思った。
〈あるとりくすガ、
盾の盛りあげ飾りが、竜の言葉に応えて明滅した。アゲイトとともにそれを眺めていたライアンが、訊き返す。
「この盾を、クルト用の武器に打ち直すことは出来ないのですか?」
〈
(ああ、そうか。)クルトは納得した。ラティエ鋼は持ち主と生死をともにする。父が生きている限り、盾は己の使命を果たそうとして――つまり 『アイホルム家の者を護る使い手』 を選び、父とともに消えるのだ。
事情を理解して、クルトは安堵した。(ぼくは、盾に見捨てられたわけではなかった。)その気持ちが表情にあらわれたのだろう。アゲイトが彼をみて微笑んだ。
ライアンは残念そうに首を振った。
「クルト用に打ちなおせという伝言だったのだがなあ」
〈あるとりくすハ知らズ。或いハ、
アゲイトは頬をひきしめ、竜に向き直った。
「シルヴィア、貴女の鱗をくれ。オレがクルトの剣をつくる」
しかし、竜はすぐには応えなかった。長い首をややなまめかしく
〈ふぇるてじる……。
「すみません、シルヴィア」
フェルテジルが笑いをかみ殺したので、クルトは竜が従兄をたしなめたのだと気づいた。アゲイトはさっと赤面し、耳たぶまで赤くなった。クルトはアゲイトがこんな反応をするのだと(竜も軽口を叩くのだと)知り、親しみを感じて嬉しくなった。
竜はおもむろに頭を下げ、鱗におおわれた顔をクルトに近づけた。
〈武器と言フガ……あるとりくすガ息子ヨ。汝ハ、戦イヲのぞンではオラヌな〉
「……はい」
クルトは、巨大な竜の頭に羊のような立派な巻き角が生えていることに気づいた。その下の紫水晶の眸は銀色の睫毛にふちどられ、鱗はつややかな真珠色に輝いている。冷たく、恐ろしく、夢のように美しい。
「ぼくは戦いたくありません。自分が傷つきたくないのと同じくらい、誰も傷つけたくないのです」
クルトのこの言葉を聞くと、レイヴンは肩をすくめ、フェルテジルとライアンは顔を見合わせた。アゲイトは黙っている。
竜はひたとクルトを
〈
「はい。ぼくは、〈影の王〉と話してみたい。出来れば、話し合いで解決したいのです」
竜は一、二度まばたきをしたのち、つと首をもちあげた。クルトには、彼女の平坦な声がこのうえなく優しく聞こえた。
〈祖先ガあやまちヲ、幼キ者ガただすカ。……あるとりくすト、同ジコトヲ言フ〉
(父上と?)
ふいに、竜はレイヴンに声をかけた。
〈カラス〉
「は、はひぃっ」
ライアンの
〈四百年ブリノ、和解ノモウシデナリ。公子ハ真実ヲ知らネバナラヌ。……明後日ハ満月。月ノ道ガひらき、
「
クルトには何のことか分からなかったが、レイヴンは驚きの声をあげた。
「湾はいまや
レイヴンがぷるぷる首を振って訴えるのを、竜はじろりとねめつけた。
〈海豹ト水馬ハ、我ガ
「ええっ」
竜の言葉は古めかしくてクルトには難しかったが、どうやら水竜みずから『失われた国』ウリンへ行くと言っているらしい。レイヴンは絶句し、アゲイトは眼をおおきくみひらいた。
ライアンが眉間に皺をきざみ、呟いた。
「ウリンは
〈
「水竜よ。私に、魔物に対抗する手段を与えて下さらぬか」
ライアンは片方の膝を着いたまま進み出た。右手をひろい胸にあて、まっすぐ竜を見上げる。
「盾がアゲイトを選んだ理由は承知しました。だが、我が
(我が主……。) クルトは密かに驚いてライアンを見た。グレイヴ伯爵の口からはっきりそう呼ばれたのは、初めてだ。
竜は無言で丸太のような指を動かし、人の頭ほどある爪を湖面からもち上げた。ライアンのさし出す〈
〈
「ありがとうございます」
ライアンは感動した様子で剣を眺めたのち、深く一礼して鞘に収めた。
レイヴンは胸の前で手指をもじもじさせていた。水竜はわずかに首を振って、彼を促した。
〈汝ガつとめヲ果タセ。
レイヴンは
クルト達が行った後、アゲイトが魔法の盾におおい布をかぶせていると、シルヴィアが彼を呼んだ。
〈あげいとりくす、我ガ肩ニ乗レ。ともニ行カン〉
「…………」
〈
「オレで良いのか、と思って」
言い淀むアゲイトを、シルヴィアは感情のない眸で見詰めた。アゲイトは息を吸い、そっと吐いた。
「良いのか、シルヴィア。クルトはアルトリクスの息子だ」
〈我ガ誓約の相手ハ、あげいとりくす。我ガ肩ニ乗リ、鱗(盾)ヲ用イルハ、あいほるむノ公子ニアラズ〉
人の子の戸惑いなど意に介さないといった口調だった。それで、アゲイトは彼女の肩によじのぼり、鱗の上に腰をおろした。胸の前でしっかりと盾を支える。
竜の頭の後ろから尾まで一列に並んだ
〈あげいとりくす。汝ハ
ふいにシルヴィアが訊ねてきたので、アゲイトは瞬きを繰り返した。
「竪琴?」
(そういえば、五百年前のラダトィイ族の
「……昔、赤ん坊の
アゲイトがしぶしぶ白状すると、竜は大きく口を開けて首を反らした。笑ったらしい。
〈
そう言うと、シルヴィアは蛇に似た長い胴をくねらせ、湖面を蹴って舞い上がった。光のヴェールのごとき翼と尾を後方へ流し、夕暮れの紫の空へと駆けのぼる。アゲイトが耳元でごうと鳴る風の音に息を止めていると、澄んだ声が脳裡に響いた。
〈あげいとりくす。汝ハ、生キ急グナ……。人ノ子ハ、短イ生ヲ、愛シ、憎シミ、殺シ合ウ。実にメマグルシイ。……汝ハ、イマスコシ、ゆるりト我ニツキアエ……〉
~第四章(3)へ~
(注*)
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