第四章 失われた王国(2)



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 〈妖精シーの道〉 は、ひときわ濃い乳白色の霧に包まれていた。空は見えず、右も左もうすむらさき色にかすみ、何処を通っているのか分からない。時折、幽霊じみた木々の影がその霧に映り、馬たちの蹄が落ち葉をふみ、肌に触れる風の冷たさが地上の天気を示した。

 まだ昼間のはずだが、辺りは夕暮れの気配がした。クルトはアゲイトの背に訊ねた。


「〈妖精の道〉って、いつもここにあるの?」

「いつもはない。竜がお前たちに居場所を知られたくないからだろう」


 アゲイトは前方で上下に揺れている妖精の灯を見ながら答えた。クルトは首を傾げた。


「アゲイトは通ったことがあるの?」

「ある……時間と距離を縮めてくれる」


(時間と距離。)思い当たるところがあり、クルトはグレイヴ伯爵を見遣った。〈くろがねの里〉と〈マオールブルク〉の間の距離に驚く少年に、伯爵は 『アゲイトだけが通れる秘密の近道があるのかもしれないぞ』 と言っていた。妖精シーに近しいとは、こういうところなのだろう。

 ライアンはクルトの視線に気づくと、右の眉をひょいとあげて笑ってみせた。

 竜と〈古き森〉の魔法に護られ、妖精の道をつかい、魔法の鋼を鍛えるアゲイト。幼馴染の従兄のこれまで知らなかった面を知ると、少年の胸に尊敬の念がわいてきた。盾が彼を選ぶのも無理はない、と思えてくる……。


 門番のようにならぶ糸杉の木立を抜け、太い樫の根元をめぐると、彼らの前に、突然、青い空を映した鏡のような湖沼が現われた。杜松ネズと葦のしげみの向こうに、朽ちかけた湖上家屋クラノーグが建っている。ロン(クロウタドリ)の歌がひびき、西風にあおられた白い霧が水面をすべった。

 妖精の灯は消えていた。

 フェルテジルとアゲイトが馬をとめ、クルトとライアンも馬から降りた。レイヴンは鹿毛の首にしがみつき、がたがた震えている。クルトは恐怖より好奇心にかられて水辺へと歩みよった。

 湖上家屋の傍らに、孤立するモミの木のごとく、すらりとたたずむ蒼い影がある。霧をまとい物音ひとつたてないが、クルト達に気づいてゆらりと揺れた……。少年は息を呑んで立ち止まった。その後ろで、フェルテジルとアゲイト父子が片方の膝をつき、レイヴンは馬の背からずり落ちた。


「これが、水竜ドラゴンか」


 ライアンが感嘆をこめて囁く。レイヴンは伯爵の背に隠れている。クルトは数秒まよってから、アゲイトにならってひざまずいた。

 アゲイトが魔法の盾のおおいを外すと、盛りあげ飾りは白っぽい光を宿していた。明滅はしていない。アゲイトはそれを竜に向け、率直に訊ねた。


「シルヴィア。前触れなく押しかけて、すまない。アルトリクスがクルトに残した盾が、オレを選んだのだ。理由を知りたい」


 竜の影は動かない。紫水晶をおもわせる澄んだ瞳が、たかみからこちらを見下ろしている。クルトは自己紹介をこころみた。


「はじめまして。ぼくはアルトリクスの子、クルト・ディ・アイホルムといいます。アゲイトの従弟です。お願いがあって参りました」

「ライアン・ディ・グレイヴと申す。アイホルム公の臣だ」


 ライアンも膝をつき、こうべを垂れて名乗った。レイヴンは伯爵の背後でさらに小さく身を縮めている。竜はすっと双眸を細め、蛇に似た縦長の瞳孔が鋭さをました。

(自分で言わないと駄目だ。) クルトはごくりと唾を飲んできりだした。


「ぼくは 〈影の王〉 に狙われています。レイヴン卿が交渉して、三年の猶予を得てくださいましたが……三年後、『失われたウリン』の国を復活させるため、生贄にされてしまいます。ぼくは、まだ死にたくありません。御力おちからをかして下さい」


 逆光と霧にかくれて竜の表情はわからない。クルトは背筋を流れる冷汗を感じつつ、口上を考えた。


「……父の盾がアゲイトを選んだので、ぼくには武器がありません。魔物を倒すラティエ鋼をつくるには、貴女のうろこが必要だと伺いました。どうか、ぼくに新しい武器を与えてください」


 最後まで言って、クルトは頭を下げた。風がさわさわと葦の葉をなで、ロンの飛び立つ羽音が水面みなもに響いた。竜はもくしている。クルトは自分のうなじに注がれる視線をいたいほど感じた。

 やがて、竜はそのまなざしをアゲイトに戻した。


〈盾ニハ、盾の使命しめいガある〉


 感情のこもらない平坦な口調だが、滑らかな声だった。きれいな声だな、とクルトは思った。


〈あるとりくすガ、誓約ゲッシュニモトヅイテきたエタ……せるまヲ守リ、あいほるむヲまもル、タメニ。あるとりくすガ去リシいま、其ノ使命ニ相応ふさわしき者ヲ、選ブ〉


 盾の盛りあげ飾りが、竜の言葉に応えて明滅した。アゲイトとともにそれを眺めていたライアンが、訊き返す。


「この盾を、クルト用の武器に打ち直すことは出来ないのですか?」

いな。あるとりくすガ新タナ使命ヲ与えヌ限リ、の者、カスことあたワズ〉


(ああ、そうか。)クルトは納得した。ラティエ鋼は持ち主と生死をともにする。父が生きている限り、盾は己の使命を果たそうとして――つまり 『アイホルム家の者を護る使い手』 を選び、父とともに消えるのだ。

 事情を理解して、クルトは安堵した。(ぼくは、盾に見捨てられたわけではなかった。)その気持ちが表情にあらわれたのだろう。アゲイトが彼をみて微笑んだ。

 ライアンは残念そうに首を振った。


「クルト用に打ちなおせという伝言だったのだがなあ」

〈あるとりくすハ知らズ。或いハ、おのガ手デ、打チナオス料簡りょうけんカ……〉


 アゲイトは頬をひきしめ、竜に向き直った。


「シルヴィア、貴女の鱗をくれ。オレがクルトの剣をつくる」


 しかし、竜はすぐには応えなかった。長い首をややなまめかしくひねり(クルトには、少し呆れているように見えた)、呟いた。


〈ふぇるてじる……。ガ息子ハ、ちと、だのう〉

「すみません、シルヴィア」


 フェルテジルが笑いをかみ殺したので、クルトは竜が従兄をたしなめたのだと気づいた。アゲイトはさっと赤面し、耳たぶまで赤くなった。クルトはアゲイトがこんな反応をするのだと(竜も軽口を叩くのだと)知り、親しみを感じて嬉しくなった。

 竜はおもむろに頭を下げ、鱗におおわれた顔をクルトに近づけた。


〈武器と言フガ……あるとりくすガ息子ヨ。汝ハ、戦イヲのぞンではオラヌな〉

「……はい」


 クルトは、巨大な竜の頭に羊のような立派な巻き角が生えていることに気づいた。その下の紫水晶の眸は銀色の睫毛にふちどられ、鱗はつややかな真珠色に輝いている。冷たく、恐ろしく、夢のように美しい。


「ぼくは戦いたくありません。自分が傷つきたくないのと同じくらい、誰も傷つけたくないのです」


 クルトのこの言葉を聞くと、レイヴンは肩をすくめ、フェルテジルとライアンは顔を見合わせた。アゲイトは黙っている。

 竜はひたとクルトを凝視みつめた。


ガ心ヲ知ルゆえ、盾ハあげいとりくすヲ選ンダ。若キあいほるむガ頭首リーヨ。汝ハ、和解ヲのぞむカ?〉

「はい。ぼくは、〈影の王〉と話してみたい。出来れば、話し合いで解決したいのです」


 竜は一、二度まばたきをしたのち、つと首をもちあげた。クルトには、彼女の平坦な声がこのうえなく優しく聞こえた。


〈祖先ガあやまちヲ、幼キ者ガただすカ。……あるとりくすト、同ジコトヲ言フ〉

(父上と?)


 ふいに、竜はレイヴンに声をかけた。


〈カラス〉

「は、はひぃっ」


 ライアンの外衣マントの陰に隠れていたレイヴンは、ぴょんと跳びあがり、目を白黒させた。


〈四百年ブリノ、和解ノモウシデナリ。公子ハ真実ヲ知らネバナラヌ。……明後日ハ満月。月ノ道ガひらき、海ノ国アルモリカガ現レル〉

麗しの湖ウリン・ロッホへ行けと仰せですか。『失われた国』へ?」


 クルトには何のことか分からなかったが、レイヴンは驚きの声をあげた。


「湾はいまや海豹セルキー水馬アッハ・イシュカ巣窟そうくつです。生きた人間が近づける場所ではありません」


 レイヴンがぷるぷる首を振って訴えるのを、竜はじろりとねめつけた。


〈海豹ト水馬ハ、我ガ眷属けんぞくナリ。しずめるニカズ〉

「ええっ」


 竜の言葉は古めかしくてクルトには難しかったが、どうやら水竜みずから『失われた国』ウリンへ行くと言っているらしい。レイヴンは絶句し、アゲイトは眼をおおきくみひらいた。

 ライアンが眉間に皺をきざみ、呟いた。


「ウリンは最果ての地ペン・アル・ベットだ。〈夜の風ナーヴィント〉号でも、ここから十日はかかるぞ」

妖精シーガ道ヲ行け。ふぇるてじる、案内あないセヨ。あげいとりくすハ、我トヨ〉

「水竜よ。私に、魔物に対抗する手段を与えて下さらぬか」


 ライアンは片方の膝を着いたまま進み出た。右手をひろい胸にあて、まっすぐ竜を見上げる。


「盾がアゲイトを選んだ理由は承知しました。だが、我があるじを護るのに、盾だけでは心もとない」


(我が主……。) クルトは密かに驚いてライアンを見た。グレイヴ伯爵の口からはっきりそう呼ばれたのは、初めてだ。

 竜は無言で丸太のような指を動かし、人の頭ほどある爪を湖面からもち上げた。ライアンのさし出す〈輝ける鉤爪グレンツェン・クラオレ〉の刀身に、尖った爪先を滑らせる。それは銀色にきらめく筋となり、魔法の詞となって剣に刻まれ、吸い込まれるように消えていった。


アドラーガ子、汝ガ身ハ鞘と剣帯ニ守られてイル。天空神セタムガ守護ニ、我ガちからヲ加エヨウ〉

「ありがとうございます」


 ライアンは感動した様子で剣を眺めたのち、深く一礼して鞘に収めた。


 杜松ネズの木陰から現われた妖精の灯が、ゆらゆら揺れて彼らを招いた。クルトとライアン、フェルテジルの三人は竜に挨拶をすると、馬の手綱を引いてその灯に従った。すぐに濃い霧がたちこめて、彼らの姿を覆い隠してしまう。

 レイヴンは胸の前で手指をもじもじさせていた。水竜はわずかに首を振って、彼を促した。


〈汝ガつとめヲ果タセ。約束ノ国ティール・タリンギレヘ至ル道がヒラカレヨウ(注*)〉


 レイヴンは悄然しょうぜんと肩を落とし、毛織の外衣を翻して姿を消した。



 クルト達が行った後、アゲイトが魔法の盾におおい布をかぶせていると、シルヴィアが彼を呼んだ。


〈あげいとりくす、我ガ肩ニ乗レ。ともニ行カン〉

「…………」

如何いかがシタ?〉

「オレで良いのか、と思って」


 言い淀むアゲイトを、シルヴィアは感情のない眸で見詰めた。アゲイトは息を吸い、そっと吐いた。


「良いのか、シルヴィア。クルトはアルトリクスの息子だ」

〈我ガ誓約の相手ハ、あげいとりくす。我ガ肩ニ乗リ、鱗(盾)ヲ用イルハ、あいほるむノ公子ニアラズ〉


 人の子の戸惑いなど意に介さないといった口調だった。それで、アゲイトは彼女の肩によじのぼり、鱗の上に腰をおろした。胸の前でしっかりと盾を支える。

 竜の頭の後ろから尾まで一列に並んだ背鰭せびれから、ふわりと透明な翼が現われた。船の帆か蝙蝠コウモリはねのごとき膜状の翼がひらくと、水滴と銀の光の粉が風に散った。


〈あげいとりくす。汝ハ竪琴リラヲ弾クカ?〉


 ふいにシルヴィアが訊ねてきたので、アゲイトは瞬きを繰り返した。


「竪琴?」


(そういえば、五百年前のラダトィイ族のリーは竪琴を弾いていたな。) と思いつつ、アゲイトは言い淀んだ。


「……昔、赤ん坊の従妹クレアに子守歌をうたって泣かせたことがある。以来、オレは音楽には関わらぬようにしている」


 アゲイトがしぶしぶ白状すると、竜は大きく口を開けて首を反らした。笑ったらしい。


ハ愉快ナリ。イズレ聞カセテクレ〉


 そう言うと、シルヴィアは蛇に似た長い胴をくねらせ、湖面を蹴って舞い上がった。光のヴェールのごとき翼と尾を後方へ流し、夕暮れの紫の空へと駆けのぼる。アゲイトが耳元でごうと鳴る風の音に息を止めていると、澄んだ声が脳裡に響いた。


〈あげいとりくす。汝ハ、生キ急グナ……。人ノ子ハ、短イ生ヲ、愛シ、憎シミ、殺シ合ウ。実にメマグルシイ。……汝ハ、イマスコシ、ゆるりト我ニツキアエ……〉





~第四章(3)へ~

(注*)約束の国ティール・タリンギレ: 常若の国ティル・ナ・ノーグ黄金の林檎のなる国アヴァロン、とも言われる理想郷。死後の国でもあります。

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