第三章 盾の騎士(4)
4
クレアとクルトは、
〈聖なる炎の岳〉から滑りおりてきた風が、草原にゆるやかな黄金色の波を立てた。泡のない優しい波だ。城の厨房で夕食のパンを焼く香ばしいかおりが、その風にのって流れてきた。ベリーソースの匂いに気づいた仔犬が、ひくりと鼻を動かす。
穏やかな時のなかで、ティアナは姉の最期を想いだしていた。〈聖なる炎の岳〉の中腹、〈
『ごめんなさい、ティアナ。私は、貴女が〈とりかえ子〉に選ばれたときほっとしたの……私が選ばれなくて良かったって。本当に、ごめんなさい』
『アルトリクスに伝えて……
『わかったわ、セルマ』
(起きたことをすべてこの子達に説明するのは無理ね……。)
ティアナはそっと息を吐いた。どう話せばよいかも分からない。前大公が白い
エウィン(セルマとティアナの母)はネルダエを憎み、結果的にアイホルム家を滅亡のふちに追いこんだ。
(何故?)と、ティアナは想う。――何故、母はあれほど富と幸福に執着したのだろう。大公妃ともなれば、人並み以上の生活は約束されていただろうに。言うなりになる夫と娘たちに無償の奉仕を要求する一方、誰も愛していなかったのではないか。自分のほかは。
二人しかいない娘のひとりを地底に閉じこめ、もうひとりを死に追いやってまで求めた幸福とは。
『どんな親でも、親は親なのよ! 子どもなら従いなさい!』
……エウィンの前世は、四百年前の『失われしウリン』のヴェルトリクス王の娘で、己を裏切ったアイホルムの男をうらみ、己を殺したネルダエの民衆をにくんでいた。たましいに刻まれた
ふと足にぬくもりを覚え、ティアナは物思いを中断した。黒い仔犬が彼女の
(優しいのね……。どういう風の吹きまわし?)
〈
(まあ)
「それで、おばさまはどうなさったの?」
記憶のなかの姉と同じ声で呼びかけられ、ティアナははっとした。クレアが晴れた空色の瞳で見詰めている。
「え?」
「いくさよ。おかあさまが亡くなって、おとうさまが追放されても、戦争は続いていたのでしょう?」
「ええ。……おじい様とおばあ様も、すぐに死んでしまったわ。私は、赤ん坊の貴女とクルトを守らなければならなかった」
クレアは両手を草原につき、叔母の方に身をのりだした。少女の真剣なまなざしに、ティアナは微笑をかえした。
「でも、私はひとりではなかった。ゲルデ(侍女頭)とウォード(家令)がいてくれたわ。グレイヴ卿と〈山の民〉も、力を貸してくれたのよ」
ティアナは面をあげ、城の門にかかる旗を眺めた。跳ね橋を支える石塔を。
「グレイヴ卿は、ヒューゲル大公とダルジェン大公の軍を防いで時間を稼いでくれた。その間、〈山の民〉は彼らの街にむらの人々を
「謝ったの?」
驚く少女をみて、ティアナはくすりと
「謝るしかなかったわ……。奪った物を返して死者を
ティアナの脳裡には再び当時の光景がよみがえっていた。
『ティアナはわしの娘じゃ、殺すなど出来るか! わしは
そして、姉と母の遺体を前に途方にくれる彼女を、ライアンが激励する。
『公女よ、どうか立ってください。あなたが守るべき民がいるのです、兵士たちが』
自分はセルマではない、どうすればよいか分からないと嘆く彼女に、甲冑をまとったライアンは告げた。
『では、セルマ殿になって下さい、ティアナ様。遠目なら、あなたは
実際にティアナがそうすると、ライアンと騎士たちは雄叫びをあげて突撃し、〈マオールブルク〉を包囲していた他家の軍を退けた。完全な負け戦にならなかったおかげで、
ティアナは二十代のライアンの雄姿を想いだして頬を赤らめた。
「貴女とクルトが無事に成長して、このところ豊作が続いているのも、
ふいにクレアがしがみついてきたので、ティアナは言葉を切った。少女は叔母の胸に顔をうずめ、ぎゅうっと抱きしめてから、澄んだ青玉の瞳に彼女を映した。
「おばさま、すっごく頑張って下さったのね! わたし達のために」
「私だけではないわ。皆のおかげよ」
「ううん、おばさまがいて下さったからよ……大好き……。このこと、クルトにも教えなくっちゃ!」
瞳をかがやかせるクレア。ティアナは
「そうね……貴女たちが大人になったら話そうと思っていたけれど、私では上手く話せないわ。次のサウィンに
「吟遊詩人! 素敵だわ。とっても楽しみ!」
クレアは手を叩いて歓声をあげた。少女は蜂蜜色のおさげと
ティアナが立って
「そういえば、
「え?」
ティアナは息を呑んだ。クレアは『チビ』を抱き上げ、想いだしながら語った。
「この辺りでは見かけない人だったわ。背が高くて、古い
ティアナは白い頬をこわばらせた。クレアは叔母の表情の変化には気づかず、立ち尽くす彼女をおいて城へと戻り始めた。
「たしか、名前は
クレアに抱かれた仔犬が、少女の肩越しに女大公を見つめている。闇色のまなざしを受けとめ、ティアナは呆然とつぶやいた。
「ディブレア……。アルトリクス、帰って来ていたのね……」
~第三章(5)へ~
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます