第二章 誓いの継承(6)
6
「クルト。〈聖なる炎の岳〉だ」
伯爵領に入るとライアンは馬をとめ、東を指さした。純白の雪の冠をいただく〈炎の岳〉が、深い緑の森を裾野にひろげた秀麗な姿をみせている。その南には〈三姉妹の岳〉と呼ばれる連山が、女王にはべる侍女のごとく並んでいる。青空を背に陽光を反射する雪峰の美しさに、クルトは溜息をつき、ライアンはうっとりと述べた。
「女神の山はどの方向から観ても素晴らしいが、西のこちらから観るすがたが最高だと俺は思っている。〈マオールブルク〉は麓の森のなかで観えないが、狼煙が上がれば分かる。何かあればすぐ駆けつけるからな」
「はい」
クルトは頼もしい気持ちでうなずいた。街を避けて森の道を通った一行は、五日かけてやって来た。この間に、クルトはライアンと彼の部下の騎士たち、従者たちと親しくなった。ライアンの乳兄弟のトレナルをはじめ、全員の名前もなんとか覚えた。これから彼らの指導を受けられると思うと嬉しい。栗毛の去勢馬にも危なげなく
一行はグレイヴ伯爵の居城〈アドラーブルク〉へ近づいていた。到着する前に、ライアンは城の由来を語って聞かせた。
「
「倒したのですか? グレイヴ卿のご先祖が」
「まさか」
ライアンはよく響く太い声をころがして笑った。
「鳥族の王だぞ、戦ってよい相手ではない。ネルダエを平定して城を建てる場所を探していた先祖のところへ、大鷲の方がやって来たのだ」
荷車にのったレイヴンが、大袈裟に身をふるわせた。「おおー、こわ」と呟いたのは、そんな大鷲にお目にかかりたくないという意味だろう。ライアンは
「当時、先祖の妻はみごもっていた。船旅の途中で授かった子だ。大鷲は彼女に告げた――『奥方。気の毒だが、
(契約?)
クルトは
「『その子の
「
「亡くなった子を〈聖なる炎の岳〉へ運んだのち、〈中央山脈〉へ向かった。〈五公国〉と
クルトは考えこんだ。幼い子どもの遺体で地母神をなだめた大鷲の行動が、〈影の王〉と重なるように思えたのだ。自分もかなり体が弱かった。地母神に嫌われているのではなかろうか……。
レイヴンが少年の懸念を察して補足した。
「偉大なる鷲は祝福されなかった子をひきとりましたが、その子が寿命をまっとうするまで母親の手元で育てさせました。遺体をひきとり、代わりにおのが子の魂を与えたのです」
「そうだ。グレイヴ一族は
誇らしげに胸をはるライアン。レイヴンは、「ああはいはい」と肩をすくめた。
「要するに魂の〈とりかえ子〉です。とにかく、彼ら精霊は一方的に奪ったり押し付けたりはしないものです。〈影の王〉のやり方は正道ではありません。
「はい。ありがとうございます」
気をとりなおす少年の表情をみて、レイヴンは満足げにうなずいた。
ライアンが〈
「さあ、着いたぞ。あれが〈
トウイー川(「国境の川」の意)のほとり、木立の間に土塁と石垣がのぞいていた。その向こうに小高い山がそびえている。〈聖なる炎の岳〉ほど巨大ではないが、川の湾曲部に突きだした稜の頂上に樫の大木が生えている。〈マオールブルク〉の城砦を見慣れているクルトは、まばたきを繰り返し、ライアンの肩に問いかけた。
「堀はないのですか?」
「ない。不要だ。あの山全体が城だからな」
「山が? ぜんぶ?」
「そうだ」
トレナル(騎士、ライアンの乳兄弟)がうなずいている。クルトは栗毛をうながして〈夜の風〉号に従った。
山をかこむ土塁の外側には溝が掘られていた。水はないが登るには深く、
一行が近づくと声があがり、
山裾に緑の野原があり、馬の群れが草を
ライアンが厩舎の前で〈夜の風〉号から降りると、部下の騎士たちも馬をとめた。栗毛から降りたクルトに、ブランとネルトがじゃれつく。巻いた毛に指を入れて掻きながら、クルトはライアンを見上げた。
「ここが
「いや。だが、馬で入れるのはここまでだ」
「え?」
クルトは、厩舎と使用人たちの住居の向こうに、きり立った崖と石段を見つけた。石段は右へ左へと曲がりつつ、上へ上へと続いている。目で追ううちに少年の顎から力が抜け、頂上の石塔にたどり着くに至って口が開いた。
ライアンは
「本丸はあの上だ。二百ヤール(約百八十メートル)はあるかな」
「にひゃく、ヤール? ですか?」
「そうだ。毎日往復すれば、自然に体が鍛えられるゾ」
ライアンは陽気に笑ったが、クルトは俄かに不安になった。二百ヤールの山登りを、毎日?――めまいを覚える彼の耳に、レイヴンがうんざりと言った。
「飛べるわたしでも、この高さは面倒ですよ。
「ああ、そうだ。レイヴン卿、言っておくが――」
ライアンの言葉を、ピュイーッと高い声が遮った。
空から降ってきた灰色の影がレイヴンの肩にぶつかり、ばっと黒髪を跳ね上げた。レイヴンは悲鳴をあげ、頭を抱えて逃げだした。ブランとネルトが吼えながら後を追い、影が二度、三度とその背に襲いかかる。クルトは一瞬きょとんとしたが、舞いちる縞模様の羽根をみて歓声をあげた。
「〈
ライアンが盛大に爆笑して相棒を呼んだ。
「〈王の星〉! それくらいにしておけ!」
影はピュイイーッと返事をすると、レイヴンの頭上でくるりと旋回して戻ってきた。ライアンの肩をかすめ、クルトの眼前で翼をひるがえす。戻ってきたレイヴンが息をきらせて抗議した。
「酷いですよお、グレイヴ卿。わたしが何をしたって言うんですかぁ」
「うちには狩りに使う鳥がいるから、うっかり
「そんなぁ」
クルトは頭上を飛ぶ精悍な鳥の姿に眸を輝かせた。
「
「〈
「いいなあ。〈マオールブルク〉には
「ああ、
ライアンはこともなげに頷いたが、クルトは初めて気がついた。――たいていの貴族の城には、鷹狩りにつかう猛禽を飼育する鳥屋があるものだ。数年前〈マオールブルク〉を訪れたヒューゲル大公が自慢していたことを憶えている。騎士だけでなく女性も鷹狩りは行うというのに、叔母が狩りをしているところは観たことがなかった。
「〈王の星〉が騒ぐから出してみれば。まあ」
低い女性の声がした。クルトが振り向くと、革手袋に〈王の星〉をとまらせた長身の女性が佇んでいた。長い黒髪を首のうしろでひとつにまとめ、切れ長の黒い眸は晴れた夜空のように澄んでいる。
ライアンは大きく腕をひろげて歩み寄り、彼女を抱きしめた。
「母上! 帰りましたよ」
「お帰りなさい、ライアン。ご無事でなによりです。お客様がおいでなら、そうと報せて下さいよ」
ライアンに耳打ちされながら、女性はまっすぐクルトを見ていた。レイヴンが片方の膝をついて挨拶する。クルトは焦った。
「母上? お、御方さま、ですか?」
「ほら。紛らわしいことを言うから、殿下が混乱なさったじゃない。……おもてをお上げください、クルト公子。私はライアンの乳母にすぎません」
「うば?」
「モルラとお呼びください」
モルラは片手で胴着の裾をつまみ、丁寧に頭をさげた。ライアンが〈王の星〉を手袋ごとひきとり、トレナルがすまなそうに言い添える。
「私の母です、クルト公子」
「つまり、俺の母上だ」
「またの名を〈黒の
レイヴンの囁きにクルトは目を
「久しぶりですね、レイヴン卿。〈アドラーブルク〉にようこそ」
「どうも~……」
レイヴンは首をすくめて彼女から目をそらし、こそこそと少年の背に隠れた。
「
モルラは腰をかがめ、クルトと目の高さをあわせて微笑んだ。目尻に寄った小さな皺が、彼女の優しさと英知をうかがわせる。
「アイホルムの〈
「すごいですね」
「モルラ。クルト公子は客ではなく、
ライアンが少年の肩に片手をおいて言ったのは、モルラだけでなく家人に紹介する意図があった。荷物を片付けていた男たち、摘んだ野菜を籠にのせた女たちが、いっせいに少年に一礼する。
モルラは背を伸ばし、感嘆をこめて呟いた。
「ティアナ様は思いきったことを……。分かりました、モルラがお世話させていただきます」
「よろしくお願いします」
「でも、今日は歓迎しますよ。上まで来て下さらないといけませんがね」
そう言ってモルラが指さした石段を仰ぎ、クルトは思わず溜息をついた。どうあっても、登山は避けられないらしい。
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