第二章 誓いの継承(4)



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 クルトが出かけた後の〈マオールブルク〉城では、ちょっとした攻防戦がくりひろげられていた。

 侍女頭ゲルデは、城主の居間へつづく扉の前で立ち止まった。彼女の足下には、耳の垂れた黒い仔犬が寝そべっている。クレア公女がティアナ女大公の手ほどきを受けるようになってからというもの、仔犬は居間に入ろうとしては外へ出されることを繰り返していた。

 室内にいるのは女大公とクレアだけではない。若い侍女のなかには犬が苦手な者もいるし、刺繍用に染めた糸や毛織物に仔犬がいたずらしては困るという理由だ。暇を持てあました仔犬は、扉の前に居すわるようになった。


 ゲルデは主人のために作ったベリーのトルテ(タルト)と茶器を載せたトレイを手に、じろりと仔犬を見下ろした。『チビ』は前足の上に顎をおき、上目遣いに彼女を見上げている。ゲルデは肩をゆらして息を吐くと、扉に手をかけた。すかさず『チビ』はとび起きて頭を伏せ、尾を立てて身構える。ゲルデは細い右の眉尻をはねあげたが、それ以上顔の筋肉を動かすことなく静かに扉を引いた。

 部屋にかけこもうとする仔犬の前に、ゲルデの革靴ブーツが突き出される。迂回しようとする仔犬を、もう一方の足が遮る。重いカシの扉の角に鼻をぶつけそうになった『チビ』が慌てて跳びさがると、ゲルデは滑らかな身のこなしでするりと隙間を通り、ぱたんと扉を閉めてしまった。


 五勝無敗。


 ゲルデはやせた頬に会心の笑みをひらめかせ、すぐに元の厳格な無表情に戻った。扉を掻くかりかりという爪音ときゅんきゅん情けを乞う声を黙殺し、背筋を伸ばしてトレイをかかげる。


「お茶をお持ちしましたよ」

「ありがとう、ゲルデ」


 ティアナ女大公が面をあげ、にこりと微笑んだ。彼女は図案の描かれた羊皮紙を絨毯にひろげ、ひとつひとつの意味を姪に説明しているところだった。今日のティアナとクレアは、釣鐘草の花を刺繍した揃いの白い亜麻布の胴着ドレスを着て、髪をひとつに編んでまとめている。居間には他に三人の侍女が座り、二人は機織りを、一人は刺繍をしていた。いずれも城に暮らす者たちの衣装だ。ティアナは彼女たちをねぎらった。


「ご苦労さま。休憩しましょう」


 ゲルデはマトラス(羊毛を詰めたクッション)をよけてトレイを置き、人数分のお茶を器にそそいだ。菓子とお茶の甘い香りが立ちのぼるなか、クレアは眉間にしわをよせ、一心に文様を読み解こうとしていた。


「おばさま、これはどういう意味?」


 ティアナは茶器を手にしたまま身をかがめ、辛抱づよく教えた。


「記号ひとつで発音を、二つ以上を組み合わせて意味をあらわすの。これはネオイン、こちらはイヴォル、イチイの木ね。クリウサン平野レーズシエト石柱メンヒル……」

先住民ネルダエの言葉なのね。んん、むずかしいわ」

「いま全て覚えようとしなくても、織っているうちに覚えるわよ」


 クレアは茶器を両手でささえ、お茶をひとくち飲んだ。切り分けてもらったトルテを口に運び、指さきについた蜂蜜を舐めながら、なお羊皮紙を見詰めている。


「刺繍と織りでは、どちらの魔法が強いの?」

「どちらということはないわ、使い分けだから。大きく複雑な魔法には織りが必要よ」

「複雑な魔法?」

「持ち主を怪我や病気から護るだけなら、刺繍で十分。悪意のある魔法を退けたり病気を治したりする魔法は、文様も複雑になるから織りこむの」

「物語を正確に織るには、高い技術が必要です。最初は簡単なもので練習するとよいですよ」


 ゲルデが口添えする。少女は習うことがらの多さに気が遠くなりながらうなずいた。


「物語?」

「はい。魔法は物語を必要とします。複雑な魔法には、力のある物語が――。『刺繍は祈りを表し、織りは人生を物語る』と言われます」

「ゲルデも織るの?」

「いいえ。最近は目も指も弱ってしまい、細かい作業はできなくなりました。私が織ったところで魔力はありません。あれは妖精シーの加護をうけた方のわざですからね」


 無口で厳格な侍女頭の意外な特技におどろき、クレアは瞬きをくりかえした。ティアナがふふとわらう。


「ゲルデは上手なのよ。私の子どもの頃の服は、みんな彼女に作ってもらったわ」

「昔の話ですよ」

「妖精の加護が必要なの? わたしに出来る?」


 少女が勢いこんで問うと、ティアナは優雅に肯いた。


「今のままでも刺繍と織り方は教えてあげられる。でも、貴女が本当に魔法を習得したいなら、妖精と契約しなければならないわ」

「したい! わたし、魔法を使えるようになりたいわ」


 ティアナ女大公はゲルデと顔を見合わせ、思案気に呟いた。


「興味をもてなかったら無理強いすべきではないと思っていたけれど……。大丈夫かしら。根気の要る作業よ」

「やらせて。お願い、おばさま、ゲルデ。教えて下さい」


 少女の懇願に、くんくんきゅうんという声が重なった。ガリガリ戸を掻く音が大きくなり、クレアはあっと口を覆った。


「忘れてた。今日はチビを外へ連れて行っていなかったわ」

「厩舎長に任せればよいではありませんか。しつけもしてくれますよ」


 呆れるゲルデ。クレアは首を振った。


「ううん。私がクルトから預かったのだから、私が世話をしなくっちゃ。おばさま、ちょっと出かけていい?」


 ティアナがうなずくと、クレアは編んだ金髪を揺らして身をひるがえし、慌ただしく部屋を出て行った。仔犬が喜んで吼える声を聴きながら、ティアナは小さく呟いた。


「……そうね。契約からはじめましょう」

「御方さま」


 腹心の侍女頭にうなずいてみせ、ティアナはお茶を口へ運んだ。


          *


 夕食後、クレアが叔母を訪ねると、ひるま侍女たちがいて賑やかだった居間はあかりもなく静まり返っていた。


「おばさま?」


 壁龕へきがんの窓はひらき、爽やかな夜風が入ってくる。侍女たちの織った布と毛糸の籠がならぶ間に、織機が横たわっている。星が撒かれたような模様の絨毯をふんで入ると、弾むような声が少女を迎えた。


「うちらと契約したいというのは、この?」


 クレアはどきりとして身をちぢめた。周囲をみまわすと、薄闇のなかで星明かりを反射して輝く一対の瞳があった。背は低く、声はクレアの腰の高さから聞こえた。


「ふうん。クレア・ディ・アイホルム? 大きくなったわねえ」

「あなた……誰?」

「来ていたの、グウィン。クレア」


 馴れ馴れしい物言いにクレアが当惑していると、やわらかな声とともにティアナが柱の陰から現われた。片手に火の点いた蝋燭をもっている。ゆれる炎に照らしだされた客の姿に、クレアは眼をみはった。


山岳天竺鼠マオール?」

「そうよ。悪い? 言っとくけど、うち、あなたよりずうっと年上だからね」


 グウィンは鼻のまわりのヒゲをぴんと立てて胸をはり、小さな丸い耳をすばやく動かした。クレアは急いで頭をさげた。


「ご、ごめんなさい」

「いいわ。素直な子は好きよ」


 グウィンはふんと鼻を鳴らした。頬袋がふくらみ目尻に皺がよったのは、笑ったかららしい。

 ティアナが窓を閉めて戻ってきて、複数の蝋燭に火をともした。明かりを浴びたグウィンの毛皮はふわふわと柔らかく、収穫前の小麦のように波うっている。彼女はティアナがすすめるマトラス(羊毛のクッション)に、人間の子どもさながら腰をおろした。

 クレアは叔母に小声で訊ねた。


妖精シーって、〈山の民マオール〉なの?」

「ええ。いろいろな妖精がいるけれど、アイホルム家に縁があるのは彼女グウィンたちよ」


 グウィンは胸の前で手を組み、試すように少女を眺めた。


「どうしてうちらと契約したいの?」

「魔法を使えるようになりたいの。おばさまのように」

「魔法を使って、何をしたいの?」

「弟を守りたいの」


 間髪を入れずに答える少女のひたむきな視線をうけとめ、グウィンは真摯に訊き返した。


「〈影の王〉がもとは人間だったことは聞いているわね。彼らには彼らの、この地母神ネイの世界で果たす役割がある。……クルトを襲ったのも、彼らなりの事情があるとは思わない?」

「だって、弟なのよ。双子のきょうだいなの! 産まれたときから一緒で、おばさまを除けば、たったひとりのわたしの家族なのよ。離れるなんて考えられないわ!」


 クレアは両手を握り、懸命に訴えた。母を亡くし父を失った少女の叫びを、ティアナは黙って聴いていた。――それは、ティアナ自身の境遇でもある。

 グウィンは軽く息をき、ティアナに囁いた。


「この娘、セルマ(クレアの母)に似ているわね……。いいの? うちらの魔法は戦いには向かない。まもったり治したり育てたりする力を、あなたたちが応用するのよ」


 台詞の後半はクレアに向けられており、少女はごくりと唾を飲んだ。


「何をすればいいの?」

「まず、名前を交換する――呼び名ではなく、魂にむすびついている真の名よ。それから、絶対に裏切らないという誓約ゲッシュを交わすの。うちらはあなたをたすけ、あなたはうちらに名前を与えて誓いゲッシュを守る」

「名前を、与えるの? わたしが?」


 ティアナが落ち着いた口調で説明した。


「ひとだけが、妖精シーに真の名を与えられるのよ。名を与えられた妖精は魂を得て、私たちと意志を通じられるようになる。このグウィンのようにね」

「分かったわ。何を誓えばいい?」


 ティアナはグウィンを見遣り、グウィンはひたと少女をみつめた。


「……あなた、うちらを食べない? 犬をけしかけたり、棲んでいる森を壊したり、しない?」

「しないわ!」

「なら、それを誓ってくれればいいわ。誓約ゲッシュは一生だから、気をつけてね」

「もし誓いをやぶったら、どうなるの?」


 グウィンはこの問いには答えず、後足で立ってほとほととクレアに近づいた。少女の正面に立ち、短い前足をさしだす。クレアがまねて両手を出すと、グウィンは彼女の掌にちょこんと前足をのせた。


「こう唱えるの。……『天空神セタム地母神ネイのもと、いざ契約を結ばん。真の名に賭けて、この誓いやぶるることあらば、天落ちてわれらを打ち砕くべし。地割れてわれらを呑みこむべし。海さかまきてわれらを地の果てへ流すべし』」


 クレアは宣誓の厳しさに愕然としながら、グウィンの瞳の奥に紫の光がともるのを見た。蝋燭の炎を反射して金と緑にゆれている。グウィンは瞬きをひとつした。


誓いゲッシュは友情と信義に基づくもの。やぶったら、お互いの加護だけでなく、全ての名誉をうしなうわ。場合によっては生命もね。……いい?」

「いいわ」

「あなたの真の名を教えて、クレア。うちは――よ」

「あっ、ええと――です」

「では、一緒に唱えてちょうだい」


 二人はあらためて向き合い、手と手を重ねた。目を閉じて誓いの言葉を唱和する。


「天空神と地母神のもと、いざ契約を結ばん。真の名に賭けて、この誓いやぶるることあらば、天落ちてわれらを打ち砕くべし。地割れてわれらを呑みこむべし。海さかまきてわれらを地の果てへ流すべし」


 クレアは額の内側が金色に輝きはじめ、体内に光が満ちるのを感じた。無数の文様が奔流となって脳内を馳せ、宣誓が終わると新しい扉がひらかれた。……少女は瞬きをくりかえし、きょろきょろと室内をみまわした。みえる風景は先ほどまでと全く変わらない。グウィンとティアナは無言でそんな彼女を見守った。

 クレアはやや呆然と呟いた。


「これで終わり?」

「ええ、誓いは終わり。契約はここからはじまりよ」


 グウィンは前足を絨毯に下ろし、くしゅんとくしゃみをした。片目を閉じて答える。


「地母神の御手みてで、うちらの魂に魔法が書きこまれたの。誓いがやぶられない限り、有効よ」

「ありがとう、グウィン」


 ティアナが姪の代わりに礼を述べた。クレアはその声に隠しようのない安堵をききとり、叔母がずっと心配してくれていたことを悟った。

 グウィンはきゅきゅっと野鼠らしい声をたてて笑った。


「礼には及ばないわ、ティアナ。アイホルム家と〈山の民〉のいい関係が、これからも続くと信じてるわ。……それにしても、本当にセルマに似ているわね、この娘」


 懐かし気にクレアを眺める眸は、普段の黒に戻っている。


「親子だから当然だけど、さっきの声なんてそっくりで背中がムズムズしちゃった……。じゃあね、クレア。また来るわ」

「あっ、ありがとう。グウィン」


 母のことや魔法のこと、〈山の民〉のことなど、クレアが訊きたいことは山ほどあったが、グウィンはさっと踵を返した。足音をたてず、柱の陰に溶けるように姿を消してしまう。見送る姪の背に、ティアナはそっと片手をあてた。


「私たちが裏切らない限り、彼らはずっと傍にいてくれるわ。明日から始めましょう」

「はい」


 クレアは敬愛する叔母を見上げ、決意をこめてうなずいた。





~第二章(5)へ~

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