天秤に関する、ルキウスの考察

 ぐらり、と再び巨大な天秤がゆれた。

 そして、地面にめりこんでいた大皿が、ゆっくりと持ち上がる。

 大皿のあった場所に、再び、すり鉢状のくぼみが現れる。

 くぼみの底には、赤黒い染みが散在していた。

 先日この天秤が上がったときに、無謀にもその下に入りこんで、そして潰された者たちのなれの果てであった。

 さすがに、今回は、浮かれて侵入するような馬鹿者はいない。

 人びとは、離れた場所から、ただ天秤の動きを見つめるだけである。


「なあ、ネクトー」


 ヴィスィエーの街をとりまく頑丈な防壁。

 防壁からは、いくつもの尖塔が屹立している。

 そんな尖塔の一つに、今、わたしとネクトーは密かに登って、町を見下ろしていた。

 わたしは、わたしたちの目の前で傾きを変えていく大天秤を見つめ、ネクトーに尋ねた。


「ん…? なんだ、ルキウス」

「あの天秤は、いったい、なんなんだろうな?」


 ネクトーは、茫洋とした顔で応えた。


「さあ……なんだろうかなあ」

「言い伝えでは、あれは、善神と邪神の天秤だそうだが」


 わたしは、この天秤の町にきてからずっと考えていたことを、ネクトーに話した。


「もし、そうだとして、それが傾いているというのはどういうことなんだろう。わたしは、ひょっとしたら、あれは、善神と邪神の、現在の力関係を表してるのかも知れないと思ったんだ」

「ほう……?」

「今、天秤の傾きがかわるということは、二神の力関係が変わるということなんだろうか……しかし、仮に、もしあの天秤が、今、この地での神の力の大きさを表しているとしたら、重大な疑問が生じるんだ」

「ん? それは、どんな疑問だ?」

「これまでずっと下がっていた右の皿は、どっちの神さまのものだったんだろうってな。そして、今、均衡は、どちらの神に傾こうとしているのか……どうだネクトー、神のしもべである、あんたにはわかるか?」

「ふふん……」


 ネクトーが、ふわりと笑った。


「ルキウス、それは、なかなか面白い考えだけどな、そうとも限らんぞ」

「ちがうのか?」

「そうだなあ……たとえば、あの天秤が、この町の連中の、罪の重さを量っているのだとしたらどうだ」

「罪の……重さ?」

「地面に着いていたほうの皿には、ずっと昔にだれかによって定められた重りが載っているのさ。そして、もう一方の皿にはな、この町に住む人間が犯した、許されざる罪が、どんどん載せられていくんだ。そして、その重さが、定められた限度を超えたときに天秤は傾きを変える」

「なんだって? それで、積み上げられた住人の罪が、限度を超えたらどうなるんだ?」


 ネクトーは、天秤に目をやりながら、はぐらかすように言った。


「さあ、な……」

「おい、ネクトー!」

「落ち着け。今のは、こういう考えもある、という、ただの思いつきさ」

「お前は、あの邪神のしもべじゃないか。なにか、聞いてないのか?」

「ルキウス、神官長のチェムノターさまはな、信者にこうのたまっておられるらしいぞ、これはすばらしい吉兆である、と」

「へっ、吉兆だって?」


 わたしは驚いて言った。


「どう考えたら、これが吉兆になるんだ」

「善神パリャードさまが、この町から獣人が排除されて、世界の純化が進むことを、喜んでおられるんだそうだ」

「ばかな! 何を言ってるんだ。いったい、そんな戯言たわごとを信じるやつがいるのか」

「チェムノターの説教をきいた信者たちは、それでみんな納得したらしいぞ」

「まったく、なんというか……」


 わたしは、あきれてしまった。


「つくづく、この町の連中は……」

「なあ、ルキウス」


 とネクトーが、優しい口調で言う。


「しょせん、おれたち人間には、神々の考えることはわからんのだ」


 その声は暗かった。


「だから、ルキウス、おれたちは、己の信じることをするしかないのではないかな。神が何を望むとしても、な」


 わたしたちの視線の向こうで、なおも天秤が傾き続ける。

 それは、神の力関係が変わりつつあることを示しているのか。

 人びとの罪の重さが、限界に達しつつあることを示しているのか。

 チェムノターが言うところの、パリャード神の喜びの顕れなのか。

 それとも、そのいずれでもないのか。

 わたしには、わからない。

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