<屋根裏の人びと>

 ヴィスィエーの町は、海に面した港湾部をのぞいて、その周囲を頑丈な防壁で取り巻かれている。

 巨大な天秤がそびえたつ街の中心部には、教会や官庁などの権力機構があり、富豪や貴族などの高位の者が住んでいる。反対に中心から離れた、防壁に近い場所には、貧しい者が住む家が並ぶ。

 そんな下町の、ある一家の夜。


「フィアルキ、お食事を持っていってあげて」


 母親が、小さな娘に言った。


「はあーい」


 お盆の上には、けっして豪華ではないが、心のこもった料理の皿が載せられている。湯気を立てる、具材のたっぷり入ったスープと、黒パン。

 女の子は、お盆を両手で持って、慎重に、奥にある階段を上っていく。

 階段の上は、本来、物置として使われていた場所だ。

 階段を上がりきると、いったんお盆を床に置いて、はね蓋のようになっている扉を、トントンと叩く。


「ダブローさん、今日の、晩ご飯ですぅー」


 扉が、ゆっくり持ち上げられ、そこからのぞいたのは獣人の顔だ。男女の獣人と、そして子どもの獣人が一人。


「わあ、美味しそうだねえ、とうちゃん」


 無邪気に子どもの獣人が言う。


「ほんとうに、もうしわけない……」


 大人の獣人は、つらそうな顔で、しかしお盆を受けとった。

 そして、また、元通りに扉が閉じられる。


「ねえ、お父さん」


 と、ご飯を食べながら、女の子が父親に言う。


「いつになったら、ダブローさんたち、また外に出られるのかなあ?」

「そうだな……」


 父親——金工職人ザマリエは、顔を曇らせる。

 正直、ザマリエにも見通しが立たないのだ。

 もともと、この町ヴィスィエーは獣人に対する差別がひどい。

 それでも、人族と獣人族は、なんとかやってきていたのだが、ここ数ヶ月の間に、状況が大きく変わってしまった。

 獣人が行方知れずになる事件が相次いだ。

 街を自由に歩く獣人の姿が、どんどん消えていくのだった。

 行方不明になるのは、すべて自由市民としての獣人だ。

 そして、その代わりに、獣人奴隷の姿が目につくようになった。


 これは、なにかがおかしい。


 そうおもっているうちに、ある日、知り合いの獣人の一人を街でみかけた。

 その獣人も、しばらく前に、突然姿を消してしまっていたのだ。


「ニシェスチェさん、あなた、どこに行ってたんですか」


 ザマリエが思わず、声をかける。

 ニシェスチェは、はっとザマリエを見るが、なにも言わない。


「どうしたんですか、なにかあったんですか」


 無言のニシェスチェに、なおもザマリエは話しかけるが、そのとき


「おい!」


 乱暴に、肩をつかまれた。

 見ると、目つきの悪い、小柄な男が、ザマリエをにらんでいる。

 商人のようだった。


「え……? なんですか、わたしはただ……」


 小柄な男は、ザマリエに言った。


「この獣人は、おれの奴隷だ。勝手に話しかけるのはやめてもらおう」

「なんだって?」


 そんなばかな。

 だって、この人は、ニシェスチェさんは——


「正式な奴隷だからな、お前、それ以上なにかしようとしたら訴えるぞ」


 小柄な男が、ニシェスチェの手をぐいとつかんで、その甲を、ザマリエに見せた。


「ああ……どうして……」


 そこには、紛れもない奴隷印が赤黒く光っていたのだ。


「わかったな?」


 小柄な男は、ニシェスチェの背中を、どんと突いて、


「さっさと、歩け」


 横柄に命令した。

 ニシェスチェは、ザマリエを悲しげに見ると、商人が仕入れたのだろう、大きな荷物を担ぎ上げ、そして歩いて行く。


 なんで……。

 どうしてあんなことに……。

 なにがあったのかは分からないが、獣人たちが、危険なことになっているのには気がついた。

 ザマリエ自身は、ヴィスィエーの住人には珍しく、獣人に対する差別感のない男だった。

 もともと、他の街の生まれで、そこでは、人びとはそれほど、獣人に対する偏見もなく、普通に友だちづきあいをしていたからだ。

 ヴィスィエーに充ちる偏見や蔑視には、腹立たしいものを常々感じてはいた。

 しかし、ザマリエには現状をかえるほどの力はなく、せいぜい、知り合った獣人とは分け隔てなく付き合おうとするくらいのことしかできなかった。

 だから、ある夜、隣人のダブロー一家が助けを求めてきたとき、我が家にかくまうことにためらいはなかった。

 しかし、その後も、獣人の状況はどんどん悪くなっているようだ。

 街にはもはや奴隷の獣人しかおらず、ダブロー一家も、どこにもいけない。

 息を潜めて、物置部屋に隠れていることしかできない日がつづいていた。


「かわいそうだね、ダブローさんたち」


 と、フィアルキが言った。


「そうだな……なにかできることがあればいいのだが」

「そうね……なんとかならないのかな」


 ザマリエ夫婦も、ためいきをついて言った。



 それからしばらくした、ある日の夜遅く。

 フィアルキはとっくに眠っていた。


「そろそろ、わたしたちも寝ようかね」

「そうね、あなたは明日も早いから」


 ザマリエ夫婦が、自分たちも寝るための支度をはじめようとしたころ


 トントン


 外から、扉を叩く者があった。


「えっ? こんな夜遅くに、いったい?」


 トントン


 静かに扉は叩かれる。

 ザマリエは、不穏なものを感じて、妻に目配せした。

 妻は頷き、足音を立てずに下がると、奥の階段を上がっていく。

 警戒するように、ダブローさん一家に知らせなくては。


 トントン


 とっさに、商売道具の鉄梃を手にしながら、ザマリエは


「はい……ど、どなたでしょうか?」


 心臓が早鐘を打つのを感じながら、返事をした。


「……夜分申し訳ありません。開けてもらえないでしょうか?」


 意外なことに、外から聞こえてきたのは、女性の声だった。まだ子どもと言っていいくらいの幼い声だったが、その声には、なにか威厳のようなものがあった。


「怪しい者ではありません。けして、悪いようにはしません……お願いですから、ここを開けてもらえないでしょうか?」


 妻が戻ってきた。

 二人で顔を見合わせる。

 扉の隙間から外をのぞくと、そこにはぽつりと、小さな影があった。


「わかりました……今、開けますから」


 なぜ自分が扉を開けたのか、何を信頼したのか、よくわからなかったが、ザマリエは、かんぬきをはずし、扉をそっと開けた。


「ありがとう」


 そこには、幼い娘がたっていた。

 美しい目をした、獣人の娘だった。

 ザマリエの娘、フィアルキと、そんなに歳はちがわないだろう。

 しかし、この娘には、凜とした風格がすでにあった。


「わたしは、イリーナ、獣人女王の娘です。……ザマリエさん、ありがとう。あなたのしてくださったことに感謝します」


 そのとき、ザマリエと妻の後ろから、


「イリーナさま!!」


 という叫びがあがった。

 ダブロー一家が、目を見開いて、そこに立っていた。

 イリーナはうなずくと、


「迎えにきました。さあ、わたしといっしょに、安全な場所に行きましょう」

「イリーナさま……」


 ダブロー一家が、歓喜の表情をあらわした。

 その目には、涙が。


「でも、大丈夫なのですか? 今、この町ヴィスィエーは……」


 ザマリエは、心配して言った。

 イリーナは、にこりと微笑んで、


「心配はいりません。いま、わたしたちは独りではないのです」


 そういって、後ろをふりかえる。

 すると、いつの間にか路上には、何人かの獣人戦士がひかえていた。

 そして、並んで立つ、二人の人族の男。

 一人は細身で、もう一人はがっしりした身体の男だ。

 人なつっこい目をした細身の男が、言った。


「ザマリエさん、あんた立派な人だね。ほら、このルキウスなんか、感動して、さっきから泣いてるよ」

「うるさいな、ネクトー、わたしはこの街に来て、ようやくまともな人に会ったんだよ、これが泣かずにおれるか」


 体格の良い、鋭い目をした男は、剣をもった手で、目をぐいっと拭った。

 本当に泣いていたようだ。


「「「ネッ、ネクトーさま?!」」」


 その名を聞いた、ダブロー一家は、驚愕してその場に跪く。


「いや、そういうのはいいって。さあ、さっさとずらかろうぜ」


 ネクトーが、ひょうひょうとした口調で言う。


「ザマリエさん、あなたの恩義を、わたしたち獣人はわすれません。いずれ、またお会いしましょう」


 イリーナがいい、ダブロー一家も、ザマリエとその妻にお礼をなんども言って、そしてどこかに消えていく。

 いつの間にか起きてきたフィアルキが、見送るザマリエ夫婦の後ろから、路を去って行く人びとに、手を振るのだった。

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