第2話 ヒカル

 立ち上げたラップトップには僕が書いた小説が載っている。僕が書いた小説で、まだ書きかけの小説。異国の地で怖いお兄様方相手にやんちゃをする日本人が描かれているけれど、当然僕の空想の産物でフィクション以外の何物でもない。この小説は実際の人物、団体となんの関係もありません。ご了承ください。なんてね。そしてどこに投稿する気もないから、つまりは人にさらす機会なんてないから、僕の無聊を慰める以外の使い道がない。

 僕は昔からお話を創るのが好きだった。小さなころはスターウォーズにあこがれて無謀にも壮大なSF漫画を描こうとして結局主人公が家から旅立つ前に挫折したし、街の不良を描いて弟にみせてなんだか煙たがられたりした。手書きで小説を幼馴染に見せたことだってある。成長してからは一人で文章をパソコンにタイプしてはデスクトップのいたるところに散らばっている。僕が描く小説の主人公たちは渋くて人生の酸いも甘いも吟じるようなおっさんだったり、おねーさんだったりで、迷える子羊然とした少年少女たちに道を示す。でも書いている本人こそが子羊然としているのだけれど。達観した大人になるにはまだ少し年月がたりない。

 僕は大学のカフェテリアでコーヒーの香りを楽しみながら創作活動にいそしんでいる。そんな風に言うと少し若手でやり手の天才肌の推理作家を想像してしまうけれど、実際はポンコツ学生が暇を持て余してカフェでぼんやりしているだけだ。大学のカフェテリアは学生が多くて、そして今は多くの学生が講義をとっていない時間帯だから結構若い人たちでにぎわっている。だから当然人の気配がしてしかるべきだし、公共の場だから4人掛けの机を僕一人で占領できないことは承知している。だけれど、自分の席のすぐ隣に、何の断りもなく女の子が頬杖をついて僕の方を向いてなんだか、かわいい微笑みを浮かべていたらそれはそれは驚くだろう。数秒間のフリーズ。なんだかアンニュイな雰囲気を醸しているその子は言った。

「小説?それとも随筆?」

 やっぱり数秒間のフリーズ。そして女の子の言葉に引っかかりレスポンス。

「随筆ではないよ。結構荒唐無稽な話だもの」

「ふうん。そうかしら。まあそういうならそうかもね」

 その子はふとため息をついて、アンニュイな態度や見た目からは少し意外に感じる快活な声で言う。

「そういえばコーヒーが好きだったね。私もむかしは飲めなかったけれど今は飲めるようになったよ。今ではエスプレッソもブラックで飲めるくらいだよ。イタリア人はこんな苦いものを一日に何杯も飲むなんて驚きね。チャオ。全く全く。イタリアのことわざで食欲は食べるうちに出てくるなんて言うけれど、我慢して苦くて黒い液体を飲んだ甲斐があったってもんだよ」

「…」

 押される僕。その子のしゃべり方や声はとても心地が良く言っていることはむちゃくちゃだけれど(何せエスプレッソはイタリア人もブラックで飲む人はいない)、なぜだか安心して聞いていられる。そんな声。それでもやっぱりこの子の発言は引っかかる。

「僕がコーヒー好きなの、なんで知っているの?」

 初対面の女の子が僕の嗜好を知っているほど、僕の大学での知名度は高くはない。というかなんでこの子こんなにナチュラルに初対面の男子に話しかけているのだ?

「ありゃりゃ。なんでって、好きなんでしょ。現象が起こる以上は観測されるということもありうるということ。君がコーヒー好きってことは君が今コーヒーを飲んでいることから推測できるし前もコーヒーを飲んでいたことからも推測できる。コーヒーを注文するっていう現象を私に観測されたってわけ。」

「つまりは前から僕のこと知っているってこと…」

「たぶん君が生まれる前から付き合いがあると思うのだけれど」

 うまくはぐらかされてしまったようだ。いや、下手にはぐらかされてしまった。結局少しの気がかりがものすごい懸念に変わってしまったことを自覚して、それでも講義か何かで話す機会があった子なのだろうかとあたりをつける。それとも高校の同級生?

「大学の授業で話したことでもあったっけ?」

「私はこの大学の学生じゃないよ。ふうん。どうやら思い出せないみたいだから初対面ってことにしてあげるよ。しょーがない男の子だなー。ま、A peace of cake (大したことじゃない)、いいってことさ」

 確かにこの大学の学生でなくても大学構内に入るのは容易なことだ。というより大学構内を散歩コースにするおじいちゃんだっているくらいだから。そうなるといよいよこの子が何者かが気になるところだけれど、本人が初対面でいいといっているのだからお言葉に甘えることとしよう。僕は自分の名前を名乗ってその子に名前を尋ねた。

「わたし?ヒカルだよ。山中光」

 ヒカル?

「僕の小説を覗き込んだ?ヒカルは僕の小説の登場人物だよ」

 僕が書いている小説の主人公の娘の名前がヒカルだ。

「本名本名。事実は小説よりも奇なりっていうしそんなこともあるんじゃない?」

やっぱりはぐらかされている。からかわれている気がする。ヒカルは言う。

「いい文章だね、それ。描写もいいし。ロマンスにあふれてる感じ」

「でも所詮絵空事だよ。物語の主人公だからこんな無茶なことができるんだ…」

 そうだ。つまるところ僕は自分の空想で遊んでいるだけだ。平均的な日本人として生まれついた僕が体験できるロマンスなんて精々、お金を貯めて海外旅行に行くぐらい。だからこれは僕の願望で、ただの願望で、ただの願望はかなわないと相場で決まっている。

「主人公がさびれたバーで娘とプルケを飲んでいる描写はどんなふうか気になるね」

「え…」

 僕はそのエピソードが書かれているファイルを現在開いていない。というより家にあるUSBに保存してある。なんで知っている?プルケなんて酒はあてずっぽうで出るような単語じゃない。ヒカルへの警戒が高まる。

 僕がこのカフェテリアを含む公共の場で小説をタイプしていたのはよくあることだけれどそのエピソードを書いていたのは数週間前だ。この子は僕のことを数週間前から認識して小説を書いているときに覗いていたのか。それならコーヒーの嗜好を知っていることもうなずけるが、今度はなぜそんなことをしたのかという疑問がわく。

「全くハトが豆鉄砲食らったみたいな顔してさ。心外だな。まあいいか。別に」

「…」

「まあ怪しいもんじゃないからさ。以後お見知りおきできたらうれしいな」

 そういって、ヒカルは席を立つ。快活明朗なのに漂う気品。浅黒い肌。明るい色のショートカット。しゃべり方。ヒカルが何者かは僕には思い出せなかった。

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