第3話 屋上のバイオテロ
1コール。2コール。3コール。
いくら電話をかけようとしてもミヤノは出なかった。俺は授業を抜け出して、学校の敷地の外にいた。
近所の神社で何度も端末とにらめっこしては電話をかけた。
どこかで俺はミヤノが今回の事に関わっていない可能性を考えていた。そうであってほしい、という気持ちと事実はいつだって矛盾する。そういう故事や教訓がきっと教科書に載っている気がしたが、そんな感情を追い払いたかった。
俺はミヤノと一番の友達だと思っていた。少なくともテロリズムを語るミヤノは俺しか知らないはずだ。だったら、俺にしかあいつを救えないんじゃないか。もしここで何もできないんなら、あまりに友達甲斐がないってものだろう。
そう思って、ふと思い出した。
そういえば、ミヤノの家の執事の女性。あの人の連絡先をもらったんだった。もしかしたら、何か知っているかもしれない。
メモに書いてあった電話番号は自分の端末に記録してあった。電話をかける。すると、聞き覚えのある声が電話に出た。ミヤノの執事だった。
「はい、ハマサキです。どちら様でしょうか?」
そういえば、浜崎という苗字がメモに書いてあったと思いつつ、俺は返答する。
「トキタです。この前ミヤノのプリントを届けた……」
「あら、こんにちは。どうしましたか?」
「えっと……ミヤノ、いや、マイさんは家にいますか?」
俺の焦りが電話口に伝わったのかもしれない。浜崎は怪訝な声で、
「どうかしたの?」
と言った。
急いで電話をかけたので俺は何を訊けば適切な情報が得られるかを考えていなかった。
どう説明しようか迷っていると、電話から声が聞こえた。
「お嬢様は今日久しぶりに学校に行くと言ってました。ここ最近ずっと浮かない様子でしたが、今日は少しだけ上機嫌でした」
「え」
「私には家の中でもお嬢様しか知りません。ですが、家の中でめったに笑顔を見せないお嬢様が、今日は笑っていました」
浜崎の声は徐々に熱を帯びていく。
「お嬢様は、家でずっと生きづらそうにしていました。だから私も心配でした。ですが何もできることがありませんでした。私はただの雇われ人ですから」
俺はミヤノが想像していた以上に鬱屈をため込んでいたことを知った。浜崎は続けて言った。
「お嬢様の機嫌がいい理由は私にはわかりませんでした。でも、今思えば、お嬢様が上機嫌な時は、トキタ君、君と会うときだったと思います。私にも一度だけ、お嬢様が話してくれたんです。なんだか変な奴がいるんだって。学年で一番勉強ができるのに、全然頭が悪い奴って。嬉しそうに。君のことでしょう?」
神社はとても静かで、境内に植えられている木々は太陽を遮った。
「お嬢様はとてもいいひとです。あんな家庭にあって、なんであんな風に善良さを保てるのか私には不思議でした。お願いします。彼女を助けてあげてください」
「ミヤノは……」
「私にはお嬢様がどこに行ったのかわかりません。学校に行くと言ってましたがそれが本当かどうかも。でも君の知っているところじゃないでしょうか?」
彼女に礼を言って、俺は電話を切った。
薄暗くて明るい神社。学校はすぐそこにだが、木々や社殿で見えなかった。そして、俺たちがよく昼飯を食っていた屋上も、ここからはよく見えない。
第六感なんて言うもんじゃない。単なる山勘、単なるあてずっぽうだ。それでも確信に近い思いがあった。
〇
学校に戻って、階段を上る。今はまだ授業中だ。
踊り場を通り過ぎる。そこは最初にミヤノと話した日にコーヒーを買った自動販売機があった。
俺は小銭を取り出し、冷たい缶コーヒーを二つ買う。
屋上への扉を開ける。
青い空が広がっていた。
そして、フェンスに寄り掛かって校舎の外を眺めているミヤノがいた。
「よう」
ミヤノが振り返った時、俺は持っていた缶コーヒーをゆっくり投げた。
少しあわてて、ミヤノは缶をキャッチする。
「危ないな」
憎まれ口をたたくミヤノに俺は言った。
「いつぞやの詫びの品だよ。まあとっとけ」
「トキタってホント自分の都合優先だよね。まったくさ」
ミヤノは笑っていた。
俺はミヤノの笑顔に悲しいものが混じっていることに気が付いた。
「きっと、来てくれると思ってた」
迷いが頭の中を渦巻いていた。俺はミヤノをどうしたいんだろう。どうしたらミヤノを救えるんだろう。いや、そんな気持ちは的外れなんだろうか?
俺はしばらく何も言えなかった。自分を律せないやつは他人のことに首を突っ込んじゃならない、俺は俺の問題で忙しい、世間の問題は俺から遠すぎる。全部俺が言っていたことだからだ。
ようやく言えたのは、つまらないこんな一言だった。
「こんなこと、やめろよ」
ミヤノは笑顔のままだったが、少しだけ泣きそうな顔をしたように見えた。
「……お願いだから……そんなこと、言わないで」
視界一杯に広がる青色に、突き抜けるような、なのにどこか優しい風が吹いた。
くそ。なんで、こいつと悲しい話をするときは、いつもきれいな風景なんだろう。
「トキタ。お前にそんなこと言われたら、私は、どうしたらいいか、わかんなくなるんだ」
ミヤノの頬がわずかにきらめいた。それに気が付いたのに、俺は優しい言葉をかけることができなかった。
「お前は、なんでこんなことをするんだ」
ミヤノは俺をにらんだ。目が濡れていた。
「浜崎さんとしゃべったか?」
「ああ」
「私の両親のことは訊いたか?」
俺がかぶりを振ると、ミヤノは言った。
「私の両親は二人とも医者だ。世間的には立派な職業だよ。だけど、五分とあの家に居たらわかる。二人とも、俗物で、どうしようもない悪党だ。目下のものにはカスみたいに扱って、何一つ誇りなんてない」
俺はミヤノの家を思い出した。俺には縁がないような名家。その象徴のような大きな屋敷。
「一度幼いころ、私は父親のいる病院に行ったことがある。そこには看護師が何人もいたけれど、一人の看護師をひどく叱りつけていた。若い、美人の看護師だ。患者に渡すはずの薬をその看護師が忘れたっていうんだ」
左手に持った缶コーヒーの冷たさを感じる。缶には水滴が滲んで、俺の手のひらを濡らした。
「でも、私は知っていた。父さんは看護師にそんな指示をしていなかったんだ。別の医者に父さんはこう言ってた。『看護師を適当に叱りたおして、少し優しくすればすぐなびくんだよ。この前も適当なミスをでっち上げて……』。笑えるだろ?これが世間で言う立派な職業なんだ。その後父さんは無事、その看護師とヤッたんだってさ」
だんだん勢いをなくしてミヤノはほとんどささやくように言った。
「父さんは私に言うんだ。『勉強しろよ、マイ、勉強して地位を得れば人はいくらでもいうことを訊く。いいか、もし地位を得られなければ不当にうばわれるんだよ』って。母さんも同じだった」
湿った声が聞こえる。今のミヤノは、よく俺が昼飯を食っていた奴とはまるで別人だった。もしかしたら、今しゃべっているのは、あの大きなお屋敷の中のミヤノなのかもしれない。
「誰も私に人に優しくしろとか、困っている人がいたら助けてやれとか、そんなことを言ってくれなかった。わかる?私の周りの大人は、良心なんて一ミリも意味がないから捨てろっていうんだ。ずっとずっと。ある日、父さんは家でお酒を飲んでいた。酔ってたんだ。そして私に父さんが担当していた患者のことを話し出した。医療ミスをしたんだって。失敗するはずがない手術で」
なんとなく、俺は事の顛末が予想できた。
「病院では大騒ぎさ。だって患者に裁判で訴えられかねないようなミスを病院のお偉いさんがしたんだから。でも、それは父さんのせいになっていない。その若い看護師のミスになったんだ。信じられなかった。父さんは人を殺して、それを他人のせいにしたんだ」
なんでこんな時に、何一つかける言葉が浮かばないんだろう。
「ただ、真っ当に生きろって、誰かに言ってほしかった」
俺だって、自分のことばっかりだ。
俺だって、金と名誉が欲しい。
俺だって。
「……トキタ。お前は優しいよな。醒めたこと言うくせに、人のこと構っちゃってさ」
俺だって、もしかしたら人殺しの罪を他人に擦り付けるかもしれない。
「……いまからどうするつもりなんだ……」
「バイオテロだよ。炭疽菌を分離培養して、乾燥凍結した。この時ばかりは医者の娘であることに感謝したね。必要な知識はあったし、それなりのお小遣いも」
「両親に送るつもりか」
ミヤノは上を向いた。その虚空に何かあるわけじゃない。ただ上を見ていた。
俺はいつだって他人の問題に深入りしなかった。ミヤノが俺を優しいといったのは、きっと俺が人に深入りしないからだ。
誰にも深入りしなければ、誰にでも優しくできる。
俺は自分を丸ごと誰かを助けるために放り出したりはしなかった。
安全な位置からしか俺は手を差し伸べない。
ミヤノの気持ちがわからなかった。
ずっと、ミヤノが抱えていたものを知った今でも、解らなかった。
いくら聞いても、ミヤノにとどく気がしなかった。
誰かを救うなんて、きっと思い上がりなんだろう。
ミヤノを救うなんて。
俺は正直に自分の気持ちを言った。
「わからない」
俺にそんな資格はない気がしたが、俺は悲しかった。
誰かの気持ちを理解できないことがこんなに悲しいことだとは、思わなかった。
校舎の外には街が広がっている。俺たちはまだ高校生で、この先の人生、いくらでも外に出ることがあるだろう。きっと今見渡せる範囲だけが世界の全部じゃないはずだ。
そんな風にも言えた。さもわかった風に。だけれど、それがいかに恥ずべき代物かは、俺にも少しは想像できた。
ガシャン、と鳴った。
見るとミヤノがフェンスから体を離して、こちらに近づいてきていた。
ミヤノの吐息が聞こえるほど近くまで来て、声が聞こえた。
「トキタ……私の動機は不満から出たものかもしれない。でも、私の大義だって本物なんだ」
自分の心臓の音が聞こえた。
「正当化されただけの大義かも知れないけど、それだって本物なんだ」
自嘲じみた声だった。
「私を嗤うか?でもこうしなきゃ」
もし、本当にお前が自分を正しいって思えるなら、
「私は私を誇れない」
なんでこんなに悲しそうなんだ。
視界一杯の青空。
吹き抜ける優しい秋風。
缶コーヒーの冷たさ。
友達の、多分親友の、悲しそうな声。
それらで胸がいっぱいになってしまって、俺は動けなかった。
ようやく、動けるようになって、俺は手を伸ばした。
でも、その先には、もう誰もいなかった。
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