出発~エピローグ~
口をすぼめて、鼻先に当たる上唇を嗅ぐ。
柔らかな産毛の感触。なんとも言えない動物的腐臭。
激しいセックスをしたあとは、いつもこうだ。
(ほんと、くっせえ)
でも、嫌いじゃない。そう小さく呟きながら、左手の中指と人差し指を鼻先に。うわっと強烈。複雑怪奇。乾いた皮膚に擦り付けられた体液は、もう一生拭えないのではないか。
目を瞑って恍惚としていると、横から声がする。
「なにしてんの?」
振り返ると、少し怪訝そうにリエがこっちを見ている。
瞳をとじて〝カトちゃんペ〟をしている俺は変態だ。
「なんでもないよ。ちょっと考えごと」
「いつもシンは考えごとしてるね」
「まあね」
「そろそろ行かなきゃだね」
ライトパネルに目をやると、もう6時半をまわっている。
ショーツが、ひどく汗ばんでいる。股間が冷たい。
「シャワー浴びてきなよ」
「時間あるの?」
「少しなら」
「まだアソコが落ち着かないよ」
リエは、潤んだ眼ではにかみながら、浴室へ向かう。
僕は、ジュっと火をつけタバコをフかす。ジジ、とオレンジに発火した棒先を見る。すうっと深く息を吸い、ゆっくり鼻から吐き出す。ふうと、薄々靄にくゆる煙を眺める。疲労感しかない。そういえば、今日って何曜日だっけ、確か、授業はあったよな。どうでもいいんだけどさ。あぁ、眠いったら。
微睡む。思いがけず一瞬。
タバコの火は、既に消えかけている。
「遅くなって、ごめんね」
微かなソープの香り。
「全然」
もう1本吸おうとしたタバコを、パッケージに押し込む。
「髪かわかした?」
「洗わなかったから」
リエはもう服を着ていた。パンツを履く。一度脱いだ服をもう一度着るのは嫌だ。シャツからは必ずと言っていいほど、汗臭い匂いがする。
「よし、行こう」
「うん」
駐車場の自動料金払い機のような券売機に金を入れて、ドアロックを解除する。
ドアを開ける。向かいの部屋が開いている。
プラスティック容器に、たくさんのショーツとタオルが積み重ねられている。オバサンの尻が見える。オバサンは、いったいどんな気持ちで、誰のものだかわからない、濡れた、酸っぱいゴミやらショーツやらを回収しているのだろう。
吐く息は白かった。
この時間の表通りは混んでいるだろう。
もうすっかり暗くなってしまった夕方の街の人通り。やっぱり池袋は人が多い。
駅前の立体交差まで足早に歩く。信号待ち。リエがジャケットの裾を掴んでくる。振り返る。唇を結びながら、少しはにかんだ表情。あぁうぜえなぁ。まるで恋人気分か。
「7時18分だね」
「うん」
「すごい楽しかったよ」
「つぎ、いつ会えそう?」
「まだ、わかんないよ。忙しくて」
「いつもいそがしいね」
「大学生はやることが多いんだよ」
「冬休みはヒマじゃないんだっけ」
「サークルとか思ったより忙しくてさ、金もないからバイトしないと」
「そっか。私も休みなかなか不定期だから、またしばらくだね」
「ヒマな日あったら連絡するよ」
「うん。私も連絡するから」
「じゃあ、また」
「うん」
キップを通したあと、もう一回リエが振り返って、〝バイバイ〟をした。俺も笑顔で手を振り返す。
キップを買う。改札を通り、構内をさらに奥まで進んで、京浜東北線に乗った。思ったより車内は空いていた。俺は一番端の、手すりの横のシートに座った。リエのことを考えた。
リエはいい子だ。優しい。だが、それは一般的な評価だ。俺にはただただ、気の弱い、精神薄弱な、普通の女の子にしか見えない。なにか、頼るべき拠り所がないとダメな、気の小さいコだ。確かにリエは優しいよ。俺の言うことだったらなんだってしてくれる。フェラだって頑張ってくれるし、体だって丹念に洗ってくれた。男だって、まだ三人しかしらないし、普段はこんなことはしないと言っていた。そんなことはどうでもよかった。リエは看護士だ。赤茶けた染みの着いたナース服を着させ、フェラをしてもらうのは溜らない。ただそれだけだ。俺からメールを送らなくても、リエからのメールは途絶えないだろう。ただ、自分の寂しさを補完するためだけに、俺を取り込もうとするだろう。うぜえ。めんどうくせえな。そろそろ離れないとな。
列車が荒川を渡る。二隻の船が、窮屈そうに、狭い間をすり抜けていくのが見えたが、遠く小さかった。河原では、たぶん少年野球だろう。なにやら歓声のようなものと、河岸のほうに、一箇所に集中していく人の群れが見えた。一体何個のボールが荒川には落ちているのだろうと考えた。ボールをとりにいって落ち、死ぬことほどバカらしいことはないな、と思った。
去年の夏、大学の前の川で、男の死体が引き上げられたのを思い出した。夏休みの学校は人がほとんどいなかった。川上から流れ、大学前の橋の下で、警察と、消防に回収されるまでの一部始終を俺は見ていた。友達には、川上からケツが流れてきてビビッたよ。なんて言ったが、実際はケツには見えなかった。いたるところに藻やら葉っぱであろう緑のからみついた、白い塊りだった。警察と、消防隊に回収されて、全体が明らかになった、むくんだ裸のどざえもんは、川上から見たときより思ったより緑はからまってなかった。波打った髪がべっちゃり頭皮に付着し、体のすみずみまで膠着したマネキンは、キューピー人形のように見えた。ただ、剥いた白目は仁王を思わせた。那羅延金剛だった。鬼だった。勝手に赤ちゃんの遺体だと思っていたが、翌日の新聞には三十六歳男性、と載っていた。下っ腹が異様にでていたし、なぜか裸だったからそう思ったのかもしれない。友達から見せてもらった、週刊誌の、スマトラ沖地震の被害者である子供の遺体も全く同じ体型だった。ただ、週刊誌のほうは、その後野犬に食い荒らされ、血塗れでさらにグロテスクであったが。
携帯のバイブが鳴った。小林からのメールだった。とっくに遅れている俺は、直接百貨店の裏通りの飲み屋に来いとのことだった。
スーパーアリーナが見えた。有機的に、整然と作られた新しい町並みは、人の気配を感じさせなかった。ただ、人の気配を感じさせないだけ、神聖だ。全体に、白を基調とした町並みはキレイだ。近代的だ。都内の、雑多な、ドブ臭い、ゲロ臭い酸っぱい町並みなんかよりは遥かにマシだ。たまのイベントに、大挙して来る人々を飲み込み、熱狂させるこの町は、あの宗教聖地となんら代わり映えしないと思った。
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