第8話 走るみたいにして

 何回かローテーションして、シュウイチと僕が走ることになった。

 シュウイチは善戦していたが息も絶え絶えになってきていた。

 それはそうだろう。いくら特化していないとはいえ、シュウイチ以外は全員最低限の身体機能のアップデートをしているのだ。

 生身のシュウイチが追い付けるわけがなかった。

 僕はシュウイチの隣に並んで、手加減をしようと考えていた。

 多分、ハルの予定ではトウマとシュウイチを仲直りさせたいがために、このかけっこを始めたはずだ。そして、完全ではないにせよ、それはもう果たされている。トウマの態度は軟化したし、シュウイチもトウマと普通に話そうとしている。

 なら、このかけっこは手を抜いていいだろう。もともとハンデがあるのだから、それは当然だ。

「位置について」

 僕らが走り出さないから、ハルはおどけていった。

「わかったよ、走るよ。シュウイチ、大丈夫?」

 疲労した様子を見せていたが、シュウイチはにっこり笑った。

「大丈夫だよ。走ろう」

 僕らはスタートの態勢をとった。

「よーい」

 ハルの声だ。

「どん」

 僕は軽く走り出した。手加減したって別に罰はあたらない。

 手加減しても、僕の隣にはシュウイチは追い付いてこない。

 ふと僕は悲しくなった。

 それは不思議なことだった。

 なぜ悲しむ必要があるんだろう。

 シュウイチに同情しているからだろうか?

 手加減するような自分の卑劣さを憐れんでいるのだろうか?

 うしろから、吐息が聞こえた。

 僕は後ろを見る。

 すぐそこにシュウイチが迫っていた。

 普段の温厚な彼のイメージとは全く違う形相をしていた。

 眉根はきつく、目は見開き、口元に笑みはなく、彼はただ、全力で走っていた。

 僕はスピードを上げた。手加減しようと思っていたのに、全力で走り出してしまった。

 アップデートしていない人間が追いつけるわけない。

 それなのに、彼はただ、ただ走っていた。

 彼の吐息が聞こえる。衣擦れの音が聞こえる。汗がとびちって、ペースは落ちているのに、前を向いていた。

 なんでこんな意味がないことをするんだろう。

 なんで必死なんだろう。

 祈ってるみたいだ。

 僕は不意にそう感じた。

 そして、同時に僕は自分が悲しく思った正体を見つけた。

 シュウイチが僕に見えたのだ。

 アップデートを重ねる以前の、僕に。


         ◯


 僕は僕に言った。

「そんなに自分を変えていったい何になるっていうの?そんなことして意味なんてないのに。君は神様の手から離れたんだ。そんな君をいったい誰が助けるっていうの?」

「それは……」

「シュウイチを見て何も感じなかったの?彼は自分だけの資質でなすべきをなすはずだ。彼はいつも精一杯やるんだ。僕は、僕たちはどうなんだよ?」

 僕は、僕の言葉に胸を詰まらせた。

 過去に置いてきた自分。今の僕は過去の自分にいつも責められている。父さんの言葉に拳を握りしめた自分が、今の僕をなじる。

「もう、意味ないよ。今更もとに戻ったとしても、過ごしてしまった時間までは残らない」

 その言葉は妥協だった。

 過去の自分が今の自分を評した妥協。

 今の僕は妥協したから、こうやって才能を得ることをためらわなくなっている。

 そして今の僕は、妥協したから、過去の自分に責められる。

 だけれど。

 だけれど、それってそんなに悪い事なんだろうか。

 生まれたままでなくても、純真でなくても、まだ僕らにはやれることがあるはずじゃないか。

 僕らにはやるべきことがあるはずじゃないか。

「僕はアップデートを繰り返す」

 僕はせき込みながら言った。

「目一杯やるんだ。人間がどこまでやれるかなんて、わかんないだろ!?いつか神様をまた見つけるかもしれない。だったら」

 目の前の色彩がにじんだ。

「お前が決めるなよ、お前みたいなやつが、訳知り顔で妥協を押し付けてくるんだ」

 泣いてた。

 僕は泣いてた。

 僕らはコインの表と裏だ。

 過去の僕が神様を探してたように、今の僕もきっと神様が欲しかったんだろう。

 方法は違うけど、僕らは同じだ。

 でも、方法が違うから、僕らは道をたがう。


         ◯


 僕は多分、自らの遺伝子に内包された、利他的な振る舞いや、良心、愛情、それを生んだ偶然を神様と呼んでるだけだ。

 そんなの、わかってる。

 わかってるけど、そのどこかに、どんな悪意も届かないような領域があると信じていた。

 アノテーティッドされた塩基配列。

 そこには愛情や利他的振る舞いに関わる遺伝子が表示されている。

 これらはもはや偶然から離れてしまった。運命から、神様から離れてしまった。

 つくられた善意、つくられた良心、つくられた思いやり。

 きっと社会は良い方に進んでいく。

 それでも、僕たちは純真を失った。

 アンタッチャブルはもうない。

 だけれど、諦めるのは少し違う。

 叫んでいるのは、きっと僕の幽霊だ。

 僕が自分を記録して、上書きして、遺書を書くたびに、そこに残された幽霊が叫ぶ。

 そこに残した幽霊たちは、いつまでも僕の背後にまとわりついて、消えてくれない。

 誰しも、誰しもきっと、そこに純真を残す。

 僕たちの良心は、モラルは、覚悟は、全部作られたものだけれど、それでも僕は進んでいく。僕らは進んでいく。

 後戻りすることはできない。

 進み続けるだけだろう。

 走るみたいにして。

 祈るみたいにして。

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