第1章 白と黒が崇拝される世界

1. 端を発する




 空に大きな入道雲が浮かぶ夏の朝。

 真っ白なワンピースに白いトートバッグを持って青々と生い茂る草木を掻き分ける。


 ──やっぱりサンダルで来るんじゃなかった。


 家を出る際に私の足元を見て、眉間に皺を寄せた母の言葉を思い出しながら、少し後悔する。


 葉先が足の甲を撫でる感覚に嫌気が差し始めた頃、漸く目的としていた場所に辿り着いた。


 小さな森の中にある、小さな小屋。


 毎年夏、祖父母の家へ帰省した際にここへ訪れるのは私の密かな楽しみとなっている。

 この森は祖父母の私有地で、この小屋は森で遊ぶことが好きだった母のために祖父が建てたらしい。

 何十年と経ち、随分と古くなってはいるが、扉を開けた時にほのかに香る杉の香りを私は気に入っている。


 小屋に入り、少し建て付けの悪い窓を開ける。

幼い頃に読み古した植物図鑑やきのこ図鑑、昆虫図鑑などが収められた本棚の側にある木の揺り椅子に腰掛けた。


 目を瞑り、小さく息を吐く。


 ここは電波の届かない森の中。

 SNSが苦手な私は、夏休みくらいは──と携帯電話を家に置いてきたため、今私を邪魔するものは何もない。


 鞄の中に入れていたフランス語の参考書と水筒を机に出す。

 机に置かれた白い水筒には母の字で「月森彩」と私の名前が書かれている。


 私は今年で20歳になる。

 この歳で持ち物に名前を書くのはどうかと思うが、母に買ってもらった手前強くは言えず、結局私の持ち物の大半にはしっかり名前が書かれている。


 水筒に入った水を一口飲み、参考書のページを捲る。


 その時、ふと陽光で反射した七色の光が机に見え、首から下げたネックレスに手を伸ばした。

 美しく輝くダイヤモンドのような無色透明の宝石が埋め込まれた指輪をネックレスにした物。


 これは昔、私がまだ7歳だった頃。


 母の言いつけを破り1人でこの小屋に来た時に、体も羽も全てが真っ白な、でも七色にも見える不思議な蝶がカラスに襲われていたのを助けたことがあった。


 カラスを追い払った後、その不思議な蝶は私の頭の周りを2、3回くるりと回り、開けっ放しだった小屋の扉から小屋の中へと入っていってしまった。

 思わず追いかけた私は急いで小屋に入ったが、蝶の姿は見えず歩きながら辺りをきょろきょろと見渡していると、机の脚の角に足を引っ掛け転んでしまった。

 その際に壁で強く頭を打ち、私は気絶してしまったようで、気がつくと祖父母の家で寝かされており、心配そうな顔をした祖父母と母の顔が見えた。


 言いつけを破った私は母に酷く叱られた後、気絶していた私が握り締めていたというこの指輪を渡された。


 ──私のじゃない。


 そう母に伝えようとしたが、なんだか助けたあの綺麗な蝶が私にくれた物のような気がして、何も言わずに指輪を受け取った。


 それからは、祖母に頼み込んで指輪をネックレスにしてもらった物をこうして毎日肌身離さずにつけている。

 これは私の唯一の宝物だ。


 再び参考書に目をやり、数十分程経った頃。

小さく雨の音が聞こえてきた。


 帰る頃には止むといいな──。


 しとしとと降る雨の音に、段々と眠たくなってきた私は、参考書はそのままに机に突っ伏した。


 こうやって、何も考えずただ穏やかな時間がずっと続けばいいのに──。


 私はゆっくりと目を閉じた。

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