いかばかり思ひけめかも
白瀬直
第1話
幼い頃から見続けている夢がある。
誰のものか判らない骨を、手に持っている。
割と大きくて、太くて、小学校の時に人体模型で確認した限りでは肋骨とかその辺のやつ。
初めて見た時、大きさから大人の骨なんだろうなと感じてはいたけれど、大人になった今見る夢の中でもそんなに変わっていなくて、多分今では私の骨もそのくらいの大きさだと思う。自分の骨見たことないけど。
夢の中の私は、それが何の骨なのか、手掛かりを探して歩くけれど誰とも出会わない。それは深い山の中だったり、暗い海の底だったり、ただ広い灰色の空間だったりその時々で歩く場所は違ったけど、どれでも結末は同じだった。
どこまで行っても何も見つからない、誰にも会わない。しばらく歩いて、それがいつも見ている夢だと気づいて、目が覚める。夢の中の私が気付くまで、誰にも会わずに歩き続けるだけの、静かな夢。
物心ついたときからずっと、そんな夢を見続けている。
◆
川上なずなの寝顔を見ることが出来るのは世界で私だけだ。あんまり近くにあったものだから、思わず息を止めて観察する。形のいい目と鼻。瞼から流れるように長いまつげがすごく特徴的。
三度の食事より寝ることが好きと公言しているなずなの寝顔は、本当に優しい。赤ん坊のような愛らしさと、芸術品のような美しさが同居していて、見ている者全てを幸せにする。まぁ見ている者は前述のとおり私だけなんだけど。少なくとも、ここ1年くらいは。
在宅で働くなずなと違って私には、起きなきゃいけない時間がある。幸せの享受もほどほどにしないといけない。
「おはよう」
「んー、おはよぉ」
ふんわりした声を出すなずなの顔をふにふにと触って、なずな成分を吸収。指の腹で耳、頬、唇となぞると隙間からチロリと舌が見えた。触れているとどこまでも時間が盗まれてしまうので今日はこのくらい。
「なずなもちゃんと起きなね」
「うぁ~」
呻き声だけを残してまたシーツにくるまる生き物。
私は、川上なずなのことが好きだ。
愛しているという表現をしても差し支えない。
そのはずなのだ。
◆
昼休憩も終わり際、エプロンを付けながらスマホを確認するとLINEの通知が来ていた。送り主はなずな。
『筋トレの本とかあったら借りて来てくれない?』
そんな短い一文。何の影響を受けたのかは知らないけど、体を動かすのは良いことだ。私も少し気になってる時期ではあるし、付き合ってもいいかもしれない。なずなのことなので長続きはしなさそうだけど。
筋トレの本って言葉を聞いて頭の中にいくつか候補が浮かぶ。新刊で予約の多いあの本は借りられないだろうから、7類のあの辺にあった本から2冊くらい借りていこうか。
了解の意を示す、敬礼のスタンプ。すぐに既読が付き、
『晩御飯は何かお肉が良いです』
運動後のたんぱく質は大事らしい。何か買って帰るとしよう。
「山岸さん、配架行ける?」
「あ、はい」
先輩に言われてカウンターの側を見ると、「本日の返却本」のブックトラックが全段埋まっていた。載らないからといって文庫本を縦に2列並べておくのはあくまで緊急処置。よろしいものではない。
昼休みのタイミングで返却本が重なったのだろう。職員も何人ずつか順番に休憩を取るので、カウンターや電話対応があると配架までは手が回らない。
「じゃあ……ちょっと文庫片付けますね」
パッと眺めて、文庫本コーナーには利用者が居なさそうだったので、すぐに回れてブックトラックの空きが確保できる分だけ左腕に載せていく。持つのではなくて載せるのがコツ。
腕にずしりと本の重みを感じながら書架を歩く。本って結局のところ密度の高い木みたいなものなので、腕に載せられるだけ載せると結構な重さになる。司書って仕事は結構体力を使うのだ。
書架整理をしているときに、ふと夢占いの本を手に取った。
腕に配架中の本を載せたまま左手で本を開き、右手でパラパラとページを繰る。索引に「骨」の項目が用意されていたので、そこから飛んでみると、数ページに渡る章立てになっていた。骨、そんなに出てくるのか。
『物事を支える存在』『役割を終えたもの』『心身の不調』なんかの項目が並んでいて、まぁ確かに骨から連想されるものだなぁなんて感想。
その下には『骨の太さで意味合いも変わってくるかも?』みたいなことが書いてあって、もともと薄かった私の信憑性がどんどん薄くなる。『思いっきりリフレッシュする必要がありそうです!』なるほど、当たり障りがない。
『部位によって警告が違う』。警告って言い方だと悪いものなのかって身構えてしまうけれど、まぁその辺も色々だった。
肋骨に追われる夢……目標が外れるかも。
肋骨が折れる夢……体調が崩れるかも。
肋骨に触れる夢……友達と喧嘩してしまうかも。
肋骨に成り代わる夢……災いを象徴します。
肋骨と話す夢……悔やむ出来事が起こるかも。
肋骨が鳴く夢……好きな人に出会うかも。
んー、肋骨って話したり鳴いたりするのか。追われるってなんだろうな。肋骨が走ってくるのかな。今のところ、夢の中の肋骨は何もしてないけれど。ふわふわしてる頭の中のイメージを固めながら本を捲っていると、声が掛かる。
「あ、山岸さん、新規登録の方お願いしてもいいです?」
「はーい行きます」
アルバイトの子は新規登録ができないのだ。代わりに配架の続きをお願いしつつ、急いでカウンターに戻る。
「お待たせしましたー、じゃあまずこちらの記入、あ、お済みですね。ありがとうございますー」
利用者に対応しながら、さっきのページの中身を思い出す。
『物事を支える存在』
確かに。そんな感じの夢だ。
誰かを探し回っているっていうのも納得で、いつか夢の中でその持ち主に出会うんだ。その持ち主こそが、私を支える「誰か」なんだろう。
そしてどうやらそれは、なずなではないらしい。
◆
「ふんっ~~~~~~~~!」
苦しそうな声。
案の定、普段運動をしていないなずなは筋トレの正しいやり方も知らなくて、本の通りにちゃんとやってみようとすると腕立て伏せなんか一度もできない。
背中が床から浮いたかなくらいのところまでしか上がらない腹筋も、多分もっともっと軽いメニューからやらないと意味が無さそうだ。
「腕立ては机とか使ってやるといいんじゃない?」
「それでいいの~? 軽ない~?」
「出来ること繰り返して負荷がかかるならそれでいいんだって」
せっかく借りて来たんだから少しくらい読め。
キャミソールとショートパンツという部屋着そのままで筋トレするなずな。見える体のラインはそんなに凹凸も激しくなく、でも肉が付いている方でもない。床に伸ばしたふくらはぎや太腿は確かに筋張ってはいないけれど、このくらいは健康的な柔らかさだと思う。
そんな風に眺めながらスクワット。始める前に付けておいた冷房の風が心地いいくらいになってきた。良い感じに乳酸が溜まっている感覚、でいいのかなこれは。脳の酸素が全身に持っていかれているような気がして変に高揚してくる。
大きく息を吸って吐くと、鼻にわずかに汗のにおいが残る。肌にもはりついていないしどこからも流れてはいなさそうなのに、空気中には出てるんだろう。
「うぇ~あっつい~」
ついになずなはキャミソールまで脱ぎ捨てる。
「はしたないザマス」
「こういうのも好きっしょ?」
むん、と両手を曲げて見せるけれど上腕はまっ平らなまま、カッチカチな筋肉なんてどこにもない。
好きな人の裸を嫌いなわけはないんだけれど、それにまっすぐ返事をするのもはばかられる。
こういう風になずなの体を眺めて、その確信が強くなる。
私があの夢で持っている骨は、なずなのものではない。
なずなの服の下を見るのは、もう数えきれないくらいだ。初めては高校の水泳の授業の時だったか。今では週に何回も一緒にシャワーを浴びるし、もう何度か分からないくらい肌を重ねている。
その度に、というと言い過ぎだけれど、何度も見たなずなのあばらが、美しいとは思うけれど、あの夢で見るそれと一致しない。
勿論、実際のなずなの肋骨を見たことはないし、夢の中だから比べたりも出来ないんだけれど、形も、大きさも、違うものだという確信がある。
それは、説明できるものじゃない。
言ったところで理解はされないだろうし、そんな夢のことに囚われてるなんておかしなことだと自分でも思う。
秘密というほどのものじゃない、ちょっとだけの「引っかかり」。気にするほどでもないと判ってはいるし、だから何かをしようということもない。なずなに対する気持ちだって変わらない。
でも、あの夢に見る度、私が探しているのはなずなではないのかと、そういう疑念に囚われてしまう。
夢の中身くらい好きに弄れればいいのに、そういう風に思ったりもする。
◆
「胡桃さ、最近なんか隠してることない?」
寝る直前。お風呂上がりの暖かくふわふわした空気の中でなずなが急に切り出した。ドライヤーをあてたばかりの長い髪がふわふわしてるから何を喋ってもふわふわに聞こえる。
思い当たることといえば、なずなが買ってきてたプリン勝手に食べたけどまだ報告してないなとか、美味しかったからお詫びに2個買ってこようと思ってたの忘れてたなとか、それくらいだけれど別に隠してるってほどのことではないしな。
「それは知ってる」
「冷蔵庫見ればわかるもんね」
「3個買ってきて」
「はい」
ということで真面目な話っぽそうだったのでなずなの正面に座る。身長はわたしの方が少し高いけれど、椅子に座るとテーブルはなずなにも私にもちょうどいい高さ。
なずなは、頭を左右に揺らしながら、
「浮気……とかそんなこと。浮気ってほどじゃないんだけど、私以外の誰かを気にしてる気がする」
雰囲気とは全く違う尖った言葉が飛んできて、胸の真ん中に刺さった。
「え、な……」
声が出なかった。シャワーを浴びた後で体温は高いはずなのに、体から出ていた汗が全部止まる。暑いのか、寒いのか、そんな感覚すら失われたような感覚。
どこか遠くから、自分の声でそんなバカなって聞こえる。それはそう。私も同じ意見。覚えはない。本当に何もない。今日に限らず、今週、多分なずな以外の誰にも触れてない。
「あら、マジ?」
マジじゃない。そんなこと、してない。今日だって、朝だって、ずっと、
「あ」
一つ、思い当たる。
なずなは、もしかして、夢の話を、してる?
「ごめん、嘘なら嘘でもいいよ。でも結構長いこと好きでいるから、なんとなーく判っちゃうんだよね。ってことで、お話は、聞きたい」
目敏いとか耳聡いって言葉があるけど、この場合は心が敏いって言うのだろうか。
どこを見てたら気付くんだろう。
「一方的な表現で申し訳ないけど……」
一度うつむいて、また顔を上げて、言う。
「捨てられてしまうんだったら、私は、すごく悲しい」
なずなの声は全く震えていなかった。悲しいのは本当で、それをちゃんと伝えるために、感情を載せないようにしてる。そんな言葉。
そんな声を出すなんて知らなかった。
そんな声を出せるなんて知らなかった。
なずなは、普段から感情を表に出すタイプだ。感動して涙を流すところは何度も見た。誰かのために泣いているところも、誰かを喪って悲しんでるところも見たことはある。
それでも、「悲しい」と人に伝えるための言葉をなずなの口から聞いたのは初めてだった。
知らなかったのは別に悪いことじゃない。知らずにいられるならそれでよかったとも思う。でも今、私はそれを知った。
そして、そんな声を出させたのは、私なのだ。
「違う」
はっきりと口にする。
「私はなずなが好きだし、別れようとか、そういうことも全く思ってない。他に好きな人が出来たわけでもないし、浮気なんて勿論してない」
真っ直ぐ、なずなを見る。
視線が合って、私の周りをちらちらとさまよって。
「嘘は言ってなさそう」
どうやら判るらしい。
「新しい友達でもできた?」
「そういう……わけでもないんだけど」
迷った。
多分、なずなが言っているのは「夢」のことなんだと思う。つい最近見たそれで、また変なことを思い出して、それでもなずなのことが疎かになったわけではないと自分では思っていたけど、なずなはそれを感じ取った。
本当に、私は行動の上では何もしていない。それでもなずなは、私が「自分以外の誰かを見ている」と感じたのだ。
その「誰か」なんて、どこにもいないのに。
それでも、証明するのは難しくない。
正直に話せば、なずなは判ってくれる。何を感じていたのかちゃんと聞いてくれる。そうでなければ、違和感に気付くこともないはずなのだ。
話したところで、って怖さは少しあった。でも、話さなくてもなずなは悲しい想いをしてしまったのだ。その解決になるのなら、私はこれを話さないといけない。
突拍子が無くても、信じてもらえそうになくても。
「あのさ……」
「うん」
「夢の……話なんだけど」
◆
「はぁ」
なずなのリアクションは想定の数倍悪いものだった。理解しきれてないのか、呆れているのか。嘘ではないと判った上で判断しかねる、そういうようなやつ。
正座させられているわけでもないのに、いたたまれない感じになってる。本当に、浮気したわけでもないのに、言い訳じみた言葉が口をつく。
「だ、だから、何もないんだけど、なずなで、いいのかなって」
「なずなで?」
「あ、いや、私は、なずながいいんだけど、なんで、なずなじゃないんだろう的な、そういう、夢に対する文句です。ハイ」
右手の指が不定期にタタタタンとリズムを奏でてる。なずなほど感情の機微に敏くない私でも、怒ってるっぽいのは何となくわかる。
「んー、」
目をつむったまま首をグリングリンと動かしてなずなが答えを作る。待ちの姿勢の間も空調の音以外には自分の耳鳴りくらいしか聞こえなくて吐き気がしそうになってきた。
何でだろう。何もしてないのに。本当に私何もしてないのに。
なずなが、息を吸う。
「その、夢のそれに向き合うのが悪いとか、そんなことは言えないし、言わないけど。そういう、『運命の人信仰』的なやーつ? ですわね? 多分、そういうのなんだけど、そんなもの無いんだと思う。運命の人を好きにならなきゃいけないってことはないし、運命の人でなくても好きになっていいし、そもそも運命の人って何やねん小学生かってなってるんだけど、でもそれはいい。別にいいんだ。胡桃の感情の話だから。ね、それは、別にいいんだけど」
そこまで一旦話しきって、息を整えて、もう一度。
「で、それと同じように、
掌でバンバンと2回机を叩いて、意思表示。
「胡桃は、夢の中の誰かさんにかまけて、現実のなずなさん疎かにしたわけだ」
瞳には少し暗い光。
普段では絶対しないような機敏な動きで腕を掴まれ、椅子から立ち上がらされる。そのままぐいぐいと部屋を引きずられて、投げるようにソファに放り込まれた。
私より小さい身体の、腕立て伏せも碌にできないその腕の、どこにそんな膂力があるのか。
腰を埋めた私に、なずなが飛び乗ってくる。膝立ちになって、上着を脱ぐ。
「なずなっ……」
頬に、汗でない液体が落ちた。すぐになずなに舐めとられる。
「昨日もし……っ!」
「今日は、ちょっとおこです」
口をふさがれ、なずなの体がのしかかる。まず感じたのは心地よい軽さで、その後は、それ以上の快楽がしばらく続いた。
◆
再び見たあの夢の中で、やっぱり誰とも出会わなかった。
なずなが出て来てくれたなら言うことはなかったのだろうけれど、そういうこともなく。右手に持った骨を見て、やっぱりなずなのじゃないなって思いだけが強くなった。比べたことなんてないのに、その確信は私の中にずっとある。
その夢がいつもと違ったのは、私が夢だと気づいてもほんの少しだけ続いたことだ。
何もない灰色の広い空間で、右手に骨を持ったまましばらく立ったままでいた。
夢だからなんだろうけれど、立っている感覚もない。暑さも寒さも、明るさも感じない。ただ、右手の感覚だけがあって、骨をぎゅっと握るとその不思議な硬さが返ってきた。掌だけでなく、腕もちゃんと動かせた。
なので、その骨を投げてみた。
骨の端の方をもって、ブーメランを投げるみたいに肘から先を振ってぶん投げた。
骨は、想像した通りの速さで回りながら飛んでいく。想像したとおりの距離だけ飛んで、音もなく地面に落ちた。
少し遠いところに落ちたそれは、しばらくするとさらさらと砂になって解け落ちていく。傍から見ると微グロテスクかもしれない映像だけど、不思議と怖くはなかった。
骨の形が完全に消えて無くなる前に、夢は終わった。
◆
頭が覚醒していく。肌触りの良いシーツの感触と、心地よい暖かさ。そして、ほんの少しだけ汗のにおいが鼻をついた。
いつの間にベッドに移ったのだったか。昨日の記憶は半分くらいが抜け落ちている。そんなに遅い時間ではなかったはずだけど、別に今日だって休日じゃないのに。
「シャワー、浴びなきゃ……」
目を開くと、目の前になずなの胸があった。控えめに膨らんだ乳房の下で、肉付きの薄いあばらがうっすらとその影を見せている。
す、となぞるように指を動かして、触れるほんの少し手前で止めた。
やっぱり、違う。
でも、もう良いのだ。
もう二度とあの夢は見ない気がする。
これは確信とかじゃない、なんとなくくらいのやつだ。それに、ほんの少し願望も入っている。
あれが、あの夢の終わり。私の、「見たこともない誰か」との決別と決意の証。
私は、川上なずなのことが好きなのだ。
きっと、これからも。
いかばかり思ひけめかも 白瀬直 @etna0624
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