午後になるとさらに

 午後になるとさらに気温が高まった。円島市の郊外から市中を西へ横断し、つぎに折戸が訪れたのはさびれた海港である。

 堤防の手前に停めた軽四から降りると、途端に汗が噴き出した。日射しが強い。折戸はたまらず上着を脱いで、ネクタイも緩める。

 さほど大きくない港とはいえ、埠頭はけっこうな広さだ。港内ですぐ目についたのは、左手にある倉庫みたいな建物だった。その脇に付帯しているのは、たぶん漁協の事務所かなにかだろう。折戸は生臭い潮の匂いに辟易しつつ、そちらへ歩く。途中、海のほうに目をやると沖へのびる波止場には何人かの釣り人の姿が見えた。近くの磯辺には海パン姿の小学生くらいの子供たちもいる。いま埠頭の岸壁に係留されているのは小型の漁船が一隻だけ。この時間は干潮らしく、港湾の遠くにテトラポッドを積んだ防波堤が大きく顔をのぞかせていた。そのさらに先、きらめく海原のはるか向こうでは、水平線が陽炎に揺れている。

 目指していたかなり古い建物のドアには鍵がかかっており、誰もいないようだった。

 今日は日曜日であるから、予想はしていた。折戸は自分のいる場所から少し離れたプレハブ小屋に目をやった。港の職員でなくとも、話を聞ける誰かがいるかもしれない。

 プレハブ小屋の表へ回ると、そこは釣り客を沖へ連れてゆく乗合船の受付所だった。小屋の横に立て看板が置いてある。料金はおひとり八千円。仕立船だと終日チャーターで六万円だそうだ。

 港にはプレハブのほかにさっきの建物しか見あたらない。出入口のガラス戸から内を覗くと、留守番らしき女性がひとりいた。戸を引き、なかに入る。

「すんません。笠井さん、いらっしゃいます?」

 小屋の奥で安っぽいソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めていた女性は、ふいを衝かれたようにくるりと首だけを回して折戸のほうを見た。途端、そう若くはない彼女は表情を曇らせる。脱いだスーツの上着を肩に引っかけた折戸は、あきらかに釣り客ではない。

「警察の人? あの子、またなんかやったの?」

 女性は酒に焼けた嗄れ気味の声で、開口一番にそう言った。

 いやちがいますと否定し、折戸は今度もニセ名刺を使って身分を偽った。そして自分が笠井という少年に会いにきた旨を伝えた。笠井は例の少年四人組のうち、まだ生きているふたりの片方である。漁師の見習としてここで働いていると調べはついていた。にしても、当人は警察の訪問を受けることがめずらしくない、周知の札付きだったようだ。

 尋ね人は水揚げ場にいると教えられ、折戸は礼を告げてから最初に寄った大きな建物にまた戻った。そういえば、遠くからでは倉庫に見えた部分には、まだ足を運んでいなかった。

 水揚げ場は海に面したほうの壁がなく、半開放的な構造だ。天井は低いが学校の体育館ほどの広さで、卸売市場を思わせる。実際、円島市の漁業が盛んだった昔は、そういった目的で使用されていたにちがいない。だが現在は骨組みの鉄骨に塗布してあった塗料が剥げて、いたるところに錆がきている。屋根にもいくつか穴が空いていた。海のそばの建物は塩害により老朽化が早いものだ。

 だだっ広いだけでなにもない水揚げ場を見回すと、片隅にふたりの漁師らしき姿が見えた。白いタオルを頭に巻いた男性と、腰の曲がった老婆。年の差のある男女は親子だろうか。地面に置いた発泡スチロールの箱を前に、なにやら言葉を交わしている。目的の相手ではなさそうだったが、折戸はふたりへ近づいた。

「なんすか、これ?」

 地面に置かれている発泡スチロールの箱を見た折戸は、思わず声をあげた。ひょっこり現れた彼へ、そこにいた両者はほぼ同時に目をやった。するといかにも海の男といった感じの男性のほうが、

「最近よく網にかかるんだ。深海魚だな」

「へえ、深海魚──」

 折戸は腰を屈めて、汚れた発泡スチロールの箱の中身をよく見てみる。そこには何匹かの魚が入れられていたが、一匹だけ名状しがたき姿の魚がいた。

 全長は一メートル足らずで、尾の部分が箱からはみ出ている。体色といい質感といい、ぶよぶよとした牛脂の塊のようだ。目がなく、やけに口が大きい。ノコギリ状に細かい歯が並んだ顎だけで、身体の四分の一ほどを占めている。尾びれはあるが背びれや腹びれといった部位は見られず、何本もの細い触手がエラの後ろから生えていた。

「食えんのかなあ?」

 と折戸。深海魚は脂が多く、意外とうまいのだと聞いたことがある。

「朝に水揚げしたやつだから、もう悪くなってるよ」

 言われてみれば、それはしぼんだ風船のようで、あきらかに鮮度が感じられなかった。漁師の男は不気味な怪魚の尾を摑むと手荒くバケツに移した。そうして彼は手をズボンで拭い、

「長いこと海で漁やってっけど、あんま見ねえな、こんな魚」

「なんかよくないことの前兆かねえ。つるかめつるかめ……」

 白くなった髪を頭の後ろでひっつめた老婆が、目を閉じて拝むように掌をこすりあわせた。信心深く純朴そうなその姿を見て、折戸の顔には自然と笑みが浮かんだ。

 水揚げ場の遠く離れた反対側にはもうひとり誰かがいる。折戸は漁師たちのもとから離れ、そちらへ向かった。紺色のツナギを着た男性がホースの水とブラシを使い、魚を入れるプラスチック製のトロ箱を洗っている。近くまでゆくと、相手は折戸が声をかける前に靴音を聞きつけ、顔をあげた。どこか少年ぽさの残る顔立ち。彼が笠井だろう。耳にピアスをつけ、ツナギの作業着とは不釣り合いなNBAのチームロゴが入ったキャップをかぶっている。

「こんちわ」

 折戸が人なつっこい感じで言うと、向こうは露骨にあやしむ目を向けてきた。

「笠井くんでしょ?」

「誰、あんた?」

「リサーチ会社の調査員。いまこの町で起こってる、ある事件のことを調べてるんだ。こう言えばわかるよね」

 回りくどいのは避けた。すると笠井は小さく舌打ちしてから、ホースをつなげてある蛇口の栓をひねった。水音がなくなり、あたりが急に静かになる。

「まず名前を言えよ」

 折戸はスーツの懐から、またしてもニセ名刺を取り出して相手に示した。笠井はそれをひったくるようにしてもぎ取ると、一瞥をくれてからぞんざいに突き返す。

 折戸が受け取ろうと手をのばした。しかし彼が摑む寸前、笠井がわざと手を離したので、名刺はひらひらと濡れた地面に舞い落ちた。

 折戸はなにも言わず、ただ口の片端を吊り上げた。束の間、互いの目を見交わすふたり。が、そのうち折戸のほうが、

「お友達ふたりのことは残念だったね。それについて、話を聞かせてくれないか」

「リサーチ会社ってなんだよ? 警察じゃないなら、話す義務はねえよな。まあ、誰がきても同じだけど。おれはいっさい関係ない」

「関係なくはないだろ。つぎは自分の番かも──そう思ってるんじゃ?」

 図星をついたようだ。笠井が目を細め、ぎろりと折戸を睨む。

「いやなふうに聞こえるのはわかってるよ。だけど勘違いしないでくれ。おれはきみを怖がらせたり、非難しにきたんじゃない。ただ、この事件は連続殺人になりうる可能性が高い。そうならないようにするのがおれの仕事なんだ」

 それを聞いた笠井はかぶっているキャップを脱ぐと、手の甲で額の汗を拭った。そして、わずらわしそうに大きなため息をついて見せる。

「そうかよ。でも、いま言ったぜ、おれは関係ないってな」

「亡くなった友達とは学校を出てからも会ってたんだろ? ふたりの周囲で、なにか変わった様子はなかったのかい?」

 こちらを疎んずる相手にかまわず、食い下がる折戸。すると、いきなり笠井がキレた。

「あんた、ちょっとしつこいぜ! 話すことなんかなんもねえんだよ!」

 啖呵を切った笠井は、水揚げ場の鉄骨の柱に立てかけてあった柄の長いデッキブラシを摑むと、殴りかかる素振りで脅してきた。

「おいおい、待てよ。こっちはただ話を聞きにきただけで──」

「うるせえ、漁師なめんな!」

 こりゃだめだ。先方ははなっからけんか腰で、話にならない。

 折戸はまるで狂暴な野良犬でも相手にしている気分になってきた。

「わーかったよ。帰る帰る」

 声を高くしてそう言った折戸は、相手を押しとどめるように片手の掌を前にかざす。そして、

「名刺に連絡先が書いてあるからさ、なんか思い出したら連絡してよ」

 なるべくやんわりと言い残し、おとなしく踵を回した。少し歩いたころ、背後で笠井が水揚げ場の床にデッキブラシを叩きつける音が聞こえた。

 あれが平素からの態度なのか、それとも命の危険を感じている精神状態からくるものなのかは、わかりかねた。だが実際に笠井と顔を合わせて判明したことがひとつある。彼に霊的ななにかが憑いている様子はなかった。いま現在、このあたりに幽霊らしき気配はまったくない。とすれば犯人は四人のうち、笠井を後回しにして最後に始末するつもりなのだろうか。

 だが犯人を霊的な存在だと仮定すると、おかしな点がある。すでに二件の殺人を犯した幽霊は、なぜ霊界データバンクの霊子センサーに反応しないのか。日本中どこにでも設置されている霊子センサーは、定期的に幽霊をキャッチする探知波を発している。一度や二度の漏れがあったとしても、いずれは必ずどこかのタイミングで網にかかるはずだ。それがないのはおかしい。

 謎が深まる。まるで光明の見えない先行きに折戸は気が重くなった。そもそもこういった役割は、彼のような地域巡回スタッフが担う仕事ではない。霊界データバンクには、幽霊の犯罪を扱う専門のセクションがあるのだ。ところがいまはお盆でどこも忙しいからと、今回は急遽、折戸のところへお鉢が回ってきたのだった。この件を命じた中田支社長は形だけの調査でよいと言っていたが、そうもいくまい。人が何人も亡くなっている。さきほどの笠井にしても、礼儀を知らない小僧だったが、さすがに死ねばいいとは思わない。

 襲われる危険のあるふたりのうち、残るひとりは西浦という少年だった。しかしこちらは現在のところ行方がわからなくなっている。ふたり目の犠牲者が出た時点で、どこかへ姿をくらませたのだ。折戸は念のため、本人の自宅まで足を運んで家族や近所の住人に話を聞いて回ったが、役に立つ情報は得られなかった。

 結局、その日はめぼしい手がかりを得られずに終わった。

 陽が沈むころ、折戸は円島支社に連絡を入れて、そのまま自宅へ直帰した。そして翌日、彼は朝のテレビニュースで、笠井が何者かに殺されたことを知った。

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