しかし残念ながら

 しかし残念ながら孝士の願いは叶わなかった。

 病院を退院して自宅へ帰った孝士のもとへ、折戸から連絡があったのだ。その夜、どうやって調べたのかはわからないが、彼のスマホに一本の電話がかかってきた。

『いよ~う、おれおれ』

「は? 誰ですか?」

『折戸だよ。おーりーど。ほら病院で会ったろ、霊バンの』

「うっ……」

 晩ご飯のあと、自室のパソコンでまったりとしょーもないネット動画を眺めていた孝士は、いきなり現実へと引き戻された。

『入社の日取り決まったから、その連絡な』

「え、いつです?」

『明日』

「明日!? ずいぶん急なんですね……」

『辞令の書面もそのときに渡すから。あ、うちの事務所の場所、知ってたっけか?』

「いえ、知りませんけど」

『臼山神社だよ。そこの敷地内にあんの。まあ、くりゃわかるよ』

 臼山神社といえば孝士の住んでいる臼山町にある古いお宮だ。場所は臼山町の住民なら誰でも知っている。孝士は幼いころ七五三詣でかなにかで訪れた神社を頭に思い浮かべた。だが、あんな町の外れに会社の事務所なんかあったろうか。

『おーい、聞いてる?』

「あ、はい……」

『じゃ、伝えたからな。明日は身体ひとつでいいから。朝の八時前くらいに事務所へ顔出してくれよ』

 そう言うと折戸は一方的に通話を切った。

 なし崩し的に事態が進んでいる。孝士は身体の震えを感じた。きっと死刑囚が刑の執行を知ったとき、このような気持ちになるのだろう。

「はあああああああああああああああ!!」

 突然、孝士は自室の万年床へダイブすると、枕に顔を埋めて雄叫びをあげた。

 針村孝士、二四歳。いま絶対にあらがうことのできない大きな波に翻弄されるこの男は、いい歳ながら新しい環境へ足を踏み出すのを最も苦手としている。要は肝っ玉が小さい。絶望に打ちひしがれる彼は、布団のうえでごろごろと無様にのたうちまわった。たとえば明日、勤めている会社へいきたくないとブルーな気分になるのは、社会人ならばどなたでも経験があることだろう。しかし、こいつはまだ一回も出社してないのにこの体たらくである。生来の、それも筋金入りのなまけ者といえよう。

 が、そのうちいくらか落ち着いてくると、孝士はのろくさと明日の準備に取りかかった。そうせざるをえなかったからだ。さすがに死にたくはない。もしこのままドタキャンなどすれば、あの簾頭鬼という悪魔になにをされるかわからないのだ。姿をくらますことも考えたが、夜逃げにせよ失踪にせよ、将来的な展望がなさすぎる。いくらなんでもこの年齢で人生を棒に振るなんて、まっぴらごめんだった。

 ついこの前は死んだほうがよかったなどと考えていたはずだったが、いまの環境に慣れてしまうともうこれである。そのあたりからも、孝士の身勝手さがよく窺い知れる。

 仕方がない。こうなってしまえば、もう腹を据えるしかない。開き直りだ。いざとなればサボタージュでもなんでもやってやる。そうだ。自分が使い物にならないポンコツだとわかれば、向こうもあきらめるだろう。なさけないことに、この時点でもう逃げ出すことしか考えていない孝士だった。

 万年床から起きあがった孝士は押し入れの襖を開いた。そこへは普段使わない品々が、ごっちゃりと詰め込まれている。とりあえずは数年前に就職するとき購入したリクルートスーツや革靴、ビジネスバッグの代わりになりそうな地味めのリュックなど、必要と思われるものを押し入れの奥から発掘して揃えた。いつも建設会社の作業着なため、スーツを着るのはひさしぶりだ。念のため試着してみるか。くそ、ズボンがきつい。日頃の不摂生の悪影響がまざまざと実感されて、孝士の意気消沈はさらに募った。

 で、気づけばもう寝る時間である。重い気分のまま孝士は床に就いた。ああ、寝ているあいだに隕石が地球に激突して爆発しないかな、などと考えつつ。いいかげん、このなにかにつけての他力本願な妄想癖は直したほうがいいと思う。

 そして夜が明けた。

 ろくに眠れなかった孝士は腫れぼったい目をしょぼしょぼさせて起床した。もちろん地球は爆発していない。

 朝食を摂り、顔を洗って歯を磨き、最低限の身だしなみを整える。

 転職については前もって両親に話してあったが、特に反対もされなかった。息子の自発的な行動──ほんとは流されるままにそうなったのだが──に、やや驚いていたようだったが、生死の境をさ迷ったばかりであるので気を遣われたのかもしれない。

 やがて、家を出る準備が整った。孝士の覚悟以外は。

 自宅の玄関から外に出ると陽の光がまぶしい。朝の空気は冷たく、さわやかだ。しかし孝士の心は正反対に憂鬱である。そのせいなのか、やけに重く感じる自転車のペダルを踏み、彼は泣きそうな顔で臼山神社を目指して出発した。

 臼山町は周囲を丘陵に囲まれた土地にあり、西側を日本海に面した田舎町だった。地図で見ると細長い形をしており、孝士の自宅はそのほぼ真ん中に位置する。霊界データバンクの円島支社があるという臼山神社は、町のずっと北のほう。孝士は時間に余裕を見て家を出たが、あまり足を運ぶことのない町の外れでちょっと迷った。だが、臼山町はそう広くない町だ。

「着いてしまった……」

 自転車を停めた孝士は、ぽつりとひとりごちた。いま彼の正面には石造りの大きな鳥居がある。その向こうは見あげるほどの石段。そして傍らには苔むした小さな石碑。風雨にさらされたそれには、百萬坊大権現という文字が刻まれているのが、かろうじて読めた。

 ここが臼山神社である。上の境内につながる石段はおよそ三〇段くらいだろうか。ほかに登り口が見あたらなかったので、孝士は自転車にワイヤーロックをかけてその場に残し、石段をあがった。たいした段数でもなかろうに、上までたどり着くころには息が乱れている。石段を登りきった孝士は、その場でへたり込んだ。

 しゃがんだまま息を整えつつ、玉砂利が敷き詰められた境内を見渡す。

 背の高い木々に囲まれた臼山神社はこぢんまりとしてはいたが、やはりそれなりの厳かな雰囲気が感じられる。石段を登ってすぐの左手には手水舎があった。正面には飛び石を並べた参道がのび、先に鈴紐が垂れた本坪鈴と賽銭箱。その向こうが拝殿だ。参道の両脇には一対の狛犬がいる。片方は前脚で鞠を押さえていた。反対側のは脇に子供の狛犬が寄り添っており、金運と子宝というわけだろう。

「やあ、おはようさん」

 ふいに誰かが声をかけてきた 。孝士がそちらへ首を回すと、狛犬が乗っている台座の横に、いつのまにか竹箒を手にする男性が立っていた。

 柿渋色の作務衣を着て頭に手ぬぐいを巻いた初老の男性である。見た目からして孝士の父親よりも年齢が上に思える。六〇代前後といったところだろうか。彼はにこやかな表情で孝士のほうへと歩み寄ってきた。

「針村くんだね?」

「あ、はい」

「わたしは中田だ。臼山神社の宮司をやってる。雇われだがね」

 そう言って中田と名乗った男性は静かに笑った。

 中田といえば、たしか折戸が話していた支社長の名前じゃないか。その場でしゃがんでいた孝士は、思わず立ちあがった。

「えっと、じゃあ霊界データバンクの──」

「ああ。そっちの仕事も任されてるよ。ま、ここじゃなんだ。とりあえず事務所のほうへいこうか」

 手振りで促された孝士は中田のあとにつづいた。ふたりは砂利を踏み、境内の入口から向かって右手のほうへと歩く。その先にはおみくじの結び処と絵馬掛けがあり、そういった物品を販売する建物が見える。平屋の建物は大きさからして、たぶん社務所も兼ねているのだ。中田はその裏手に回り、勝手口のようなドアを開けて孝士をなかへ招いた。

「ここだよ。狭いところだけど、うちの支社は人が少ないからね」

 中田は出入口にある申し訳ていどの三和土で雪駄を脱ぎ、小さな簀の子の上で靴箱に置いてあったスリッパへと履き替えた。孝士もそれに倣って、なかへと足を踏み入れた。

 事務所内は意外と広かった。室内の壁際にはなんらかの資料を収めたファイルキャビネットが並び、デスクトップパソコンと液晶ディスプレイの置かれた事務机が四台ほどくっつけて中央に寄せられている。ふつうの商社となんら変わらない感じである。いちばん奥には大きめのデスクがあり、おそらくそれが支社長の中田の席にちがいない。

「おーい、噂の新人がきたぞ」

 中田が声をあげると、事務所の奥にいた女性がふたりを振り返った。

「えっ、どれどれ!?」

 ノースリーブのサマーニットを着た女性が、ロング丈のスカートを揺らしながら駆け寄ってきた。彼女は孝士の正面で前のめりの姿勢となり、興味深そうな目を向けてくる。

「へえ~」

 微笑を浮かべ孝士を凝視する女性は、控え目にいって美人だ。年齢的には孝士と近いだろう。毛先のほうだけパーマをかけた栗色の長い髪を、胸の前に垂らしている。にしても、距離が近い。間近からくりっとした目で見つめられているのに加え、甘い香水の匂いに鼻腔をくすぐられて、孝士は思わず尻込みしてしまう。異性に対しての免疫がほとんどないのである。しかし内心では、こんなきれいな人といっしょの職場なら、ちょっといいかもなどとまんざらでもない様子だ。

「どうも、針村といいます。よろ、よろしく……」

「こらこら麻里ちゃん、見世物じゃないんだぞ。彼、困っとるじゃないか」

 と中田が女性を窘める。

「あはっ、ごめん」

 孝士のことをじっと眺めていた女性は、すぐに姿勢を正してかしこまった。

「わたし、寺石麻里です。ここの事務やってます。よろしくね」

 首を横に傾げた寺石が、にこりと微笑む。つられて孝士も笑みを返したが、彼のはぎこちなく引きつったような表情だった。こういうとき第一印象が最悪になるのは、孝士にとっていつものことである。

 孝士の背後で事務所のドアが開く音がした。

「うーっす」

 眠そうな顔をして戸口に現れたのは折戸である。彼は孝士に気づくや、口の両端を吊り上げてにやりとなった。

「おう、ハリソンきたか」

「どうも。おはようございます」

 先輩にぺこりと会釈する孝士。その横で、寺石が折戸に訊いた。

「なにハリソンて?」

「こいつのあだ名。命名、おれ」

「えー、わたしより先にもう仲よくなってるう~」

 寺石が甘ったるい声で言う。折戸に向けて身体をくねくねさせながら、ぷっと頬を膨らませる彼女に孝士は戦慄をおぼえた。絵に描いたようなかわいい仕草である。容姿といい行動いい、この人まさかアニメかギャルゲーのなかから抜け出てきたんじゃあるまいな。いや、それが気に入らないわけではなかった。逆にむしろ、孝士の理想のタイプだ。

「ようし、全員そろったな」

 中田が言って、事務所の奥にあるデスクに着いた。すると折戸も自分が使っている事務机の椅子に座り、孝士はその横の空いているらしい席に着いた。寺石がコーヒーメーカーのサーバーから熱いのをマグカップに注いで、めいめいに配りはじめる。

「それでは今日の業務をはじめるか──」

 あらたまって表情を引き締める中田。しかし、その彼の顔つきはすぐに和らいだ。

「といっても、新人が加わった以外は相も変わらずだ。折戸とは前にも会っているから、紹介の必要はないだろう。それでだ針村くん、きみの仕事は外勤が主になる。しばらくは折戸といっしょに動いてくれ。現場はわたしよりも彼が詳しいからね。たのんだぞ、折戸」

「へーい」

 椅子にだらしなく腰掛けた折戸が中田に生返事をする。

 孝士は拍子抜けした。霊界データーバンクの円島支社は、ずいぶんゆるりとした職場のようだ。もしかしたら簾頭鬼や折戸が言っていたように、ほんとうに誰にでもできるラクな仕事なのかもしれない──と、このころの孝士はそう思っていたのだった。

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