第一章

まっ暗だった。

 まっ暗だった。

 意識が徐々に覚醒する。やがてうっすらと目を開けた孝士は、自分が仰向けになり横たわっているのだと気づいた。

 薄いシーツのような布が頭からつま先までの全身を覆っていた。なんだよ、誰だこんなことをしたのは。孝士は煩わしそうに呻くと、布を払いのけた。

 ひんやりした空気を肌に感じる。ここはどこだろうか。とにかく暗くて、なにも見えない。

 何度か目を瞬かせたあと、肘をついて上半身を起こした。そして高さのある寝台の上からずり落ちそうになり、孝士は完全に目が覚めた。

 身体の節々が痛い。顔をしかめると皮膚が突っ張っている感覚。思わず頬に触れた手には、ざらざらとした感触があった。なぜだか知らないが、顔中に乾いた泥が付着している。

 両足を寝台からおろすと足裏が冷たい床に着いた。また、裸足だ。

 ──あれ、またってなんだ? どうしてそう思うんだろう。

 どうも頭のなかがすっきりとしない。ストレッチャーのようなものの上で寝ていた孝士は、そのまま立ちあがろうとする。しかし膝に力が入らず、よろけた。バランスを崩した彼は思わずしゃがみ込み、あやうく転倒をまぬがれる。落ち着いてから、ゆっくりと曲げた膝を伸ばす。今度は大丈夫そうだ。暗中で手探りしながら及び腰で歩くと、ふいに指先が壁に触れた。それを伝い、一方向へと歩を進める。すると数歩もゆかずに、ふたたび壁にぶつかった。

 どこかの室内のようだ。そう広い場所ではない。角を曲がり、さらに歩くと壁に切れ目があった。細い隙間。そこから先の壁はやけに滑らかな手触りをしている。きっとドアにちがいない。把手を探す。予想どおり、孝士の指はすぐにレバー式のノブを探しあてた。それを回すと、ドアは簡単に開いた。

 部屋の外に出る。暗く長い廊下が左右にのびている。天井の照明は灯っておらず、遠くの非常口を示す緑色の表示灯のほか、足元を照らす小さな常夜灯が点々と廊下に連なっていた。

 夜か、何時ごろだろう。孝士は無意識のうちに左手首を顔の前まで持ってくる。ちゃんと腕時計はしていた。暗くてよく見えなかったが、安物なデジタル時計の竜頭を押すと、液晶パネルに小さなライトが灯って時が読めた。

 午前一時五五分。真夜中もいいところだ。

 腕時計を見たついでに服の袖が目に入った。そこで孝士は違和感をおぼえ、あらためて自分の身体を見おろす。すると、自分が甚平みたいなゆったりした服を着せられているのだとわかった。患者衣のようだ。医療施設の入院患者が着る、淡いブルーの簡素な衣服。

 とすれば、ここは病院なのか。廊下には窓がひとつもなかったので、地下だろうか。しかし、こんな設備のある病院は孝士の住んでいた臼山町になかったはずだ。おそらく崖崩れに遭った工事現場から助け出されたあと、本格的な設備のあるどこか大きな病院へ搬送されたにちがいない。

 ──ん? 待てよ、崖崩れ?

 孝士の混濁した記憶が、ようやくはっきりしてくる。

 そうだ、自分は工事現場で生き埋めとなったのだ。孝士は両手を開き、自分の掌を見てみる。そして、爪のあいだに土が詰まっている指を閉じたり、開いたり。うん、ちゃんと動く。ぐにいっと自分の頬をつねると、痛かった。

 痛いということは、これは現実だ。たぶん。

 ほっとした孝士の顔に笑みが浮かぶ。とそのとき、横手で人の声が聞こえた。

 そちらへ首を回すと、白衣を着た男性が廊下の真ん中で突っ立っていた。この病院の医師だろう。銀縁の眼鏡をかけた彼は、あんぐりと口を開け、やけにせわしなく呼吸をしながら孝士を見つめている。

 孝士は医師に笑顔を向けると、

「あのう、すいません──」

「ひいっ! う、うわあああああああ!!」

 白衣をひるがえらせ、医師は悲鳴をあげつつ一目散に孝士とは反対のほうへと走っていった。

 呆気にとられる孝士。そうして彼はふと、自分がいましがた出てきた部屋を振り返った。するとそのドアの横、ちょうど目線の高さとなるあたりの壁に、四角いプレートが貼り付けてある。プレートには霊安室と書かれてあった。

 納得がいった。なんだそうか。自分は病理の、死体を安置する部屋から出てきたのか。そりゃあ、おどろくわな。

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