あなたの残響

沢田和早

あなたの残響

 桜もそろそろ見納めだ。

 花びらが雪のように舞い落ちている。

 これまで何度この樹の下に立ったことだろう。

 嬉しい時はもちろん、つらい時や泣きたくなるような時でも、

 ここへ来れば笑顔になれた。

 ここにいたのは桜だけではなかったから。

 ここにはあなたもいたから。


 最初の言葉はここで聞いた。

 最後の言葉もここで聞いた。

 そしてあなたは旅立った。桜とあたしとその言葉をここに残して。

 今も聞こえる。あなたの言葉。いつでもあたしを笑顔にしてくれた言葉。


 桜の花びらが舞っている。四月の空に雪が降っている。

 四月? おかしいな。さっきまでの青空はどこへ行ったのだろう。

 頬に吹き付ける風が冷たい。いつのまにか綿入りのジャケットを着ている。

 冬だ。今は冬なんだ。

 舞っているのは花びらじゃない。本物の雪だ。


 ああ、そうか。これは小学生のあたしだ。

 過去へ戻ったんだ。最初にあなたの言葉を聞いたあの時へ。


 悲しみが胸の中に広がる。記憶が蘇った。

 先日、大好きだった犬のシロが死んでしまったんだ。

 あたしは泣いた。今も泣いている。

 この桜の樹の下へ来ても悲しみは少しもなくならない。

 どうして神様はこんな過去へあたしを戻したんだろう。

 まだシロが元気だったあの頃へ戻してくれればいいのに。


「あれ、泣いているの?」


 声を掛けてきたのは小学生のあなた。

 そう、これがあなたと言葉を交わした初めての時。


 小学校に入学した時からずっと同じクラスだった。

 でも話をしたことは一度もなかった。

 あなたは愉快で明るくて男女から好かれる人気者。

 あたしは引っ込み事案で無口で親友が一人しかいない暗い児童。

 話をする機会なんて一度もなかった。

 だからあなたがここにいて、泣いているあたしに声を掛けて来た時は本当に驚いた。

 驚いて声が出なかった。


「どうして泣いているの? 誰かにいじめられたの?」

 あたしは無言で首を振った。


「何か悲しいことがあったの?」

 あたしは無言でうなずいた。


「もしかしたら、飼犬が死んじゃったの?」

 驚いて首が動かなかった。

 あたしが犬を飼っていることをどうしてあなたが知っているのか、その理由を訊くこともできなかった。


「ここでいつも犬と遊んでいたよね。そうか、死んじゃったのか」


 突然、あなたは四つん這いになった。それからあたしの周りを走り始めた。


「わんわん。ねえ、今日からボクが君の犬になってあげるよ。わんわん。そしてここで毎日遊んであげるよ。そうすれば悲しくないでしょう。わんわん」


 全然予想できなかったあなたの行動。

 明るい声で犬の泣きまねをするあなたの愉快な顔。

 涙が止まった。思わず笑いがこぼれた。

 そしてあなたはその言葉をあたしにくれた。


 それからあたしの毎日は明るくなった。

 あなたはただのクラスメイトから仲の良い男友達に変わった。

 仲の良い男友達から気になる異性に変わった。

 高校生のあたしたちは恋人同士になった。


 雪はまだ降っている?

 違う、これは桜の花びら、春だ。でも元の時代に戻ってはいない。

 高校を卒業したあたしだ。


 今度は18才のあたしへあたしを連れてきたのか。

 最低だ。神様は本当に意地悪だ。

 どうせなら楽しかった高校生活をもう一度味わわせてくれればいいのに。


 あたしは泣いていた。悲しくて悔しくて胸が潰れそうだった。

 受験に失敗したのだ。

 絶対にあなたと同じ大学へ行く、そう決心して一校しか受けなかった。


 あなたは合格した。そしてあたしは落ちた。

 順調に進んでいたレールから弾き出されたような気がした。

 自分の人生が終わったような気がした。

 この世で無価値な人間だと宣告されたような気がした。


「気を落とすことはないよ。君がどんなに頑張ったかボクは知っているんだから。ちょっと運が悪かった、それだけのことだよ」


 あなたの慰めの言葉を聞いてもあたしの絶望は消えなかった。

 見下されているような気さえした。


「合格おめでとう」

 そう答えるのがやっとだった。


「君は、やっぱり浪人するの?」

「うん。あなたの後輩になっちゃうね」

「君の先輩にはなりたくないかな」


 いきなりあなたはあたしの前に封筒を掲げた。

 合格通知書と入学手続きの書類が入った封筒だ。

 怒りが込み上げた。


「そんなもの、あたしに見せないで!」


 信じられなかった。自分の合格を見せびらかして自慢しているとしか思えない。

 あなたってこんなに嫌味なヤツだったの?

 でも、それは違った。

 次にあなたが取った行動はもっと信じられなかった。


「な、何をしているの!」


 気でも狂ったのかと思った。封筒をビリビリと破り始めたのだ。

 何の迷いも躊躇もない。

 あなたの顔は充足感に満ち満ちている。


「ボクも浪人するよ。君とはずっと同級生でいたいから」


 呆れた。本当にあなたの行動は読めない。そして常軌を逸している。

 涙も悲しみも悔しさも吹っ飛んでしまった。


「あなた、救いようのないバカね」

「そうだね。そしてそんなバカが受かった大学に落ちた君は大バカだね」


 何もかもバカバカしくなった。

 たかが一年の道草で落ち込んでいた自分が愚かに思えて仕方がなかった。

 知らぬ間に笑っていた。あなたも笑っていた。

 二人で顔を見合わせて笑った。

 そしてあなたはその言葉をあたしにくれた。


 それから二人で仲良く浪人した。

 せっかく一年間も道草を食うのだからワンランク上の大学を受験、見事合格。

 入学して卒業して就職して結婚した。

 あなたはあたしの夫になった。


 桜の花びらはもう舞ってはいない。

 枝には青葉が生い茂っている。

 暑い。半袖のワンピースは汗で湿っている。


 ああ、そうか。今度はこの過去へ戻されたのか。

 最悪だ。人生で一番つらかった時に連れて来られるなんて。

 心だけでなく体も痛い。


 退院したのは昨日。

 桜の樹にもたれて泣いた。寂しさと自責の念に押し潰されそうだ。


 結婚してもなかなか子宝に恵まれなかった。

 原因はあたしにあるようだった。

 のんびりと不妊治療に力を貸してくれるあなた。

 その甲斐あってようやく授かることができた。

 今度ばかりは神様もあたしたちに味方してくれた、そう思った。


 でも違った。

 死産、そして二度と妊娠できない体になった。


「残念だったね」


 泣いているあたしに声を掛けるあなたの声はいつもと変わらず明るい。

 自分だってつらいはずなのに。

 ふと、子供の頃に死んでしまった犬のシロを思い出した。

 あの時はあなたが犬の身代わりになってくれたっけ。


「もしかして、今度はあなたが子どもを演じて慰めてくれるの?」

「ううん、それは無理。君だけの子じゃなくてボクの子でもあったから」

「そうね」


 さすがのあなたも今度ばかりは落ち込んでしまったみたい。

 そう思ったあたしはまだまだあなたのことがわかっていなかった。

 あなたは得意げにこんなことを言い始めた。


「演じてくれるのはボクじゃなくてこの桜の樹さ。ねえ、今日からはこの桜の樹をボクらの子と思って生きていこうよ。命日は誕生日。年忌法要はお誕生日会。名前はサクラでいいかな」

「サクラ? それ男の子なの。それとも女の子?」

「う~ん、両方でいいんじゃないかな。ひな祭りも端午の節句も楽しみたいから」


 本当にあなたはへこたれない。いつだって前向きに考える。

 桜の幹を撫でて笑った。二人で幹を抱き締めて笑った。

 そしてあなたはその言葉をあたしにくれた。


 それからあたしたちは桜の樹を今まで以上に可愛がった。

 桃の節句、端午の節句、七五三、入学式、卒業式。

 できるだけの行事を桜と一緒に楽しんだ。


 そして成人式で一区切りつけると、それからは長い黄昏たそがれの日々が始まった。


 幸運だったのはあなたの甥夫婦が近所に住み始めたこと。

 老人が歩いていくには遠すぎる桜の樹まで快く車で連れて行ってくれた。

 金婚式を済ませ、男性の平均寿命を超え、女性の平均寿命を超えた頃には、

 あたしたちはすっかり老いてしまった。

 桜の樹へ通うこともほとんどなくなった。


「今日は行ってみようか」


 四月に入ったある日、あなたは言った。

 それはきっと何かの予感だったのだろう。


 甥夫婦に連れられてあたしたちは満開の桜の下に座った。

 何年経っても変わらない春の風景。

 何もかもが懐かしかった。

 あなたは桜を見上げて笑った。あたしも笑った。

 そしてその言葉をあたしにくれた。


 それが最後の言葉だった。

 目を閉じて倒れたあなたは病院に運ばれ、

 そのまま意識が戻ることなく旅立った。


 あれから一年。

 あたしは今、散り際の桜を見上げている。


 聞こえる、あなたの言葉が。

 長い年月を経て減衰してしまっても、

 世の中の雑音や人々のお喋りに紛れ込んでしまっても、

 耳を澄ませばあなたの声が聞こえてくる。

 あなたの残響はまだこの空間を満たしている。


 それは小学生のあなたの幼い言葉。

 高校生のあなたの大人ぶった言葉。

 中年のあなたの精力旺盛な言葉。

 人生を終えようとしているあなたのしわがれた言葉。

 これまでのあなたの言葉は全て重ね合わさり、

 様々な音程を響かせるひとつの歌となってあたしの心を満たしてくれる。


 そしてあたしも、今、あなたの言葉にあたしの言葉を重ね合わせる。

 これまで何度もあなたがあたしにくれた、

 言おうと思って一度もあなたに言えなかったその言葉を。



「笑顔を見せてくれてありがとう」

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