初恋の帰り道
チェシャ猫亭
夕焼けの中で
彼は私を「冴子さん」と呼んだ。
小学六年生。男子は女子を名前や苗字で呼び捨てが普通だった頃、なぜか船越実くんだけは私を、さん付けで呼んだ。
大人扱いされてる気がして、どきどきした。
やさしい顔立ちで穏やかな彼を、いつの間にか好きになっていた。
といって、親しくなろうとは特にしなかった。だから、あの日の学校帰り、どうしてあんなことになったのか全くわからない。
秋のある日、私は船越君といっしょに帰宅した。家の方向が同じだとは知っていたが。
小さな町だ。校門を出て商店街に抜け、しばらく行くと橋があり、その先は両側が水田。稲刈りは終わっており、早くも空は茜色に染まっていた。
十五分ほどの帰り道で、覚えている会話は、
「私、『フランダースの犬』が嫌いなんだ」
「どうして?」
「だって、悲しすぎるもん」
それだけだった。
貧しくも精いっぱい生きたネロとパトラッシュが死んでしまうラストは、いま思い出しても胸が痛む。
中学生になると、船越君とはクラスが別々になり、結局、三年間、そのまま。二年、三年。今年こそは期待しがダメで、次第に彼への思いも忘れかけていった。
三年の秋の文化祭。
なぜか船越君が、劇の主役を務めた。
貧しい農民の話で、最後に、彼のせつない心情が切々と語られる。
こんなに胸を打つ演技をする人だったのか。
暗い舞台、スポットライトの中の船越君に目が釘付けになり、幕が下りると手が痛くなるほど拍手した。
忘れかけていた思いが熱くこみあげてきて、また彼のことが気になり始めた。
しかし受験が近づいている。勉強に集中しなくては。成績からいって。たぶん船越君は私と同じS高志望だろう。しっかり勉強すれば、春から同じ高校に通える。列車通学の合間に、また彼と話せるかもしれない。
それを励みに、私は受験勉強に精を出した。
三月。
合格発表は卒業式の後。落ち着かない日々が続いたが、私は志望校に合格できた。船越君も受かっていた。一緒に列車通学、を期待していた私は、うちのめされることになった。
船越君のお父さんが病気で亡くなったのだ。
「実の、S高の制服姿を見たかった」
病床で、そう仰っていたそうだ。
船越君は、お父さんの実家のある、隣県の高校に進んだ。
私の記憶の中の船越君は、舞台姿が最後だ。
秋の夕焼けの中、彼との帰り道。
あれが確かに、私の初恋だった。
「フランダースの犬」の話題を耳にするたび、小学六年生の自分と船越君を思い出してしまう。
初恋の帰り道 チェシャ猫亭 @bianco3
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