第186話 45日目⑨ダッチオーブンを活用する

 風呂の準備に向かった美岬を見送り、夕食の仕度をするために仮拠点のタープ屋根の下の調理場に入り、火の消えたかまどに掛かったままの大コッヘルに残ったぬるま湯を使って手に付着したにかわや樹脂の汚れを洗い落とす。


 さて、ダッチオーブンには朝食の海鮮中華風スープがまだ残ってはいるが、これをこのまま夕食にするのはあまりにも芸がない。もちろんこのまま温め直すだけでも十分に旨いのだが、俺という男は予想の斜め上の料理でサプライズして嫁の驚く顔を見ることにやりがいを見出す業の深い人間なので、何かしら手は加えたいのだ。


 さてどうしたものか? とりあえずインスピレーションを得るためにすっかり冷めてドロッとしているスープを一匙掬って口に含む。


「…………っ!?」


 何も手を加えていないのに、朝に食べた海鮮中華風スープとはまったく別物に変わっていた。悪い意味ではない。むしろ凄まじく旨くなっている。

 どういうことだ、と改めてスープをかき混ぜてみれば、大きめの食材がゴロゴロ入っていたはずなのにほとんど見当たらず、タイラギの貝柱に至ってはぼろぼろに解れて形を失い、糸状の繊維になって全体にまんべんなく混ざってしまっている。だがそれにより溶け出した貝柱の風味が全体をまとめ上げ、朝よりもずっと濃厚でまろやかな味わいに変わっている。

 他の具材も煮崩れしにくいシイタケなどの一部を除いて煮溶けて形を崩し、小さくなっているようだ。

 すぐにその原因に思い至る。ダッチオーブンのせいだ。


 ダッチオーブンは分厚い鋳物の鉄製だから火から下ろしてもしばらく熱いままの状態が続き、その間もずっとスープを余熱で煮続ける。しかも重い蓋によって圧力鍋のような状態になり、それによって煮崩れた食材から溶け出した旨味が混ざり合い、この複雑で味わい深いスープに昇華させたのだ。

 これは面白い。さながらデミグラスソースの海鮮版ってところか。ならせっかくだからこれを活かす方向でやってみよう。


 ダッチオーブンから現時点でのスープを一部取り分け、残りは再び火を点けたかまどに掛けて蓋の上にさらに重石を乗せて圧力を加えて完全に煮溶かす方向でじっくりと煮詰めていくことにする。

 そしてその間に他の食材も用意する。乾物を仕舞ってある木箱から燻製にしてカチカチになっている岩牡蠣イワガキ。これは一つあたりを三つか四つに分割しておく。

 採集してきた常温食材の入っているカゴからヤマイモのムカゴ。これは皮ごと水でざっと洗っておく。

 小川の冷蔵庫から、捌いて骨を取り除いた状態で冷蔵熟成中のタケノコメバルの半身と一升瓶に入った精製済みの海竜油。


 ちなみに小川の冷蔵庫は俺たちが洗い物や水汲みをする場所よりも上流側の小川の中に設置した犬小屋サイズの小さな小屋だ。屋根はあし茅葺かやぶきで、庫内の床は小川の水には直接触れないようにはしてあるが、木の枝を組んだ格子状になっているのですぐ下を流れる小川の冷気で常に内部がひんやりとした状態に保たれている。

 長期保存できるように塩漬けや燻製にしたものなら常温で保管できるが、半生の干物や生魚などの保管にはやはり冷蔵庫は必要だ。冷蔵庫ができるまでは食材をビニール袋に入れて冷水に直接浸す方法で代用していたが、冷蔵庫の便利さには到底敵わない。


 タケノコメバルは元々40㌢超えの大物だったから半身でもまだ多い。大きめの切り身を二枚切り出して残りは冷蔵庫に戻した。切り身に塩とハマゴウの粉を振って下味をつけたところで味を馴染ませるためにしばらく置いておき、その間に別の作業を進める。


 ダッチオーブンのスープが煮立ってきて、重い蓋が内部の蒸気圧に耐えきれずにガタンガタンと躍り始めたら蓋を開け、木ベラで柔らかくなった具材をあえて潰してさらに細かくしていく。入っている具材がそもそも色が濃くないので、デミグラスソースというより中華の白湯パイタンと言った方が正しいかもしれない。

 ちなみに本格的なデミグラスソースの黒さと苦味は高温の油で煮て焦がした小麦粉に由来する。最近では炒めた小麦粉を使ったブラウンソースが主流だが、油で小麦粉を真っ黒に焦がしたスペインソースソースエスパニョールを子牛の骨と香味野菜とマデラワインでじっくりと数日かけて煮込んだ本来のデミグラスソースは色が濃く、深みのある味わいとほろ苦さが絶品だ。

 久しぶりに旨いデミグラスを食いたいなぁ。てか美岬にも食わせてやりたいなぁ。


「……いや、まてよ。もしかしたら作れるか? デミグラスソース」


 木ベラでダッチオーブンをかき混ぜながら思案する。接着剤のにかわとは別に、海竜の骨と筋から採った食用の膠ゼラチンも確保してあるが、骨をただ煮出して作ったゼラチンだけでなく、焼いた骨を香味野菜と共に煮出したフォンドボーも作ってある。

 小麦粉はないが、ハトムギを挽いた粉を海竜油で焦がせばスペインソースの代用品になるかもしれない。

 マデラワインはないがブランデーはあるし、もうすぐ野生種のブドウであるエビヅルも収穫できるからポートワインもどきも多分作れる。

 もうしばらくすればトマトも手に入る。

 手間と時間はかかるが、案外本格的なデミグラスソースが作れるかもしれない。今度トマトが収穫できたら試しに作ってみるのも面白いかもしれないな。美岬も喜ぶだろう。


 気付けばダッチオーブンのスープからは固形物はほぼ無くなり、だいぶ煮詰まって量も少なくなっていた。このままでは味も濃すぎるので少し水を足して薄めてちょうどいい濃さに調整し、食べやすいサイズに切ってある燻製牡蠣と皮付きの丸ごとのムカゴをスープに加え、一煮立ちするまで火に掛けてから再び蓋をして火から下ろして後は余熱調理で完成を待つ。



 続いてはタケノコメバルだ。

 下味の馴染んだ切り身にドングリの粉をまんべんなくまぶす。

 フライパンに油を敷き、十分に予熱してから切り身を焼いていき、表と裏にしっかりときつね色の焼き色をつけてムニエルにする。

 仕上げにさっき取り分けてあったスープを絡めて中華あんかけにして完成だ。

 ちょうどそこにタイミングを見計らったように美岬が戻ってくる。


「ただいまぁ! お腹すいたー! 外まですごくいい匂いしてるー! それなに?」


「おかえりお疲れ。白身魚のムニエルの中華あんかけ」


「わあっ! それ絶対美味しいやつー!」


「それと朝のスープの具を潰して煮溶かした海鮮白湯パイタン


「もぅー! 旦那さまがあたしの胃袋を掴まえて離してくれないっす」


 望んだ通りの嫁の反応に口元がにやつくのを抑えられない。作った料理を喜んでもらえるのが料理人の、いや、主夫冥利に尽きる瞬間だよな。


「今が出来立ての一番旨いタイミングだからな。冷めないうちに食べよう」


「あいあいっ!」


 ダッチオーブンの蓋を開ければぶわっと溢れ出す旨そうな匂いと湯気。燻製牡蠣を加えたことでスモーキーフレーバーも加味されてますます食欲をそそる風味に仕上がっている。

 丼鉢どんぶりばちに白っぽく濁りドロッとした海鮮白湯をたっぷりとよそい、皿にムニエルの中華あんかけを盛り付けてテーブルに並べ、箸とスプーンを添えて、美岬と向かい合って座り、両手を合わせる。


「いただきます」「いただきまーす!」


 スプーンでスープをかき混ぜ、茶色い燻製牡蠣の身を掬って口に運ぶ。乾燥したものを戻さずにそのまま使ったから固さが少し心配だったが、小さく切ってあったので十分に柔らかく煮えており、それでいて旨味はしっかりと牡蠣の身の内部に閉じ込められていて、噛み締める度に濃厚な旨味が口の中にいっぱいに広がる。

 そして後から入れた燻製牡蠣とムカゴ以外のすべての具材が煮溶けて混ざりあったスープは、最初の具だくさんスープのようなそれぞれの食材が個性を主張し合うものではなくなったが、すべての味が調和よく混ざり合い、それまでとぜんぜん違う新たな完成された味へと昇華している。


「……ほぅ。これは旨いなー」


「はふっ! はふっ! ムカゴもホクホクに煮えてて、まるで小さいジャガイモみたいっすね! あと、このスープ! すっごく美味しい! 色んな味が複雑に絡み合ってて、なんかもう言葉でうまく表現できないけどとにかく美味しい!」


 ヤマイモの蔓に発生するムカゴは実というより小さなヤマイモそのものなので、生のまま擦りおろせばネバネバのとろろにもなるが、そのまま煮ればジャガイモのようにホクホクになる。

 皮ごと煮ているので内部まで味は染みていないが、その淡白な味がかえってスープの具として良い存在感を発揮している。

 海鮮白湯、期待以上に美味しく仕上がっている。



 続いてはムニエルだ。ドングリの粉の衣がこんがりと焼けて焼き栗のような甘く香ばしい匂いを微かに漂わせている。

 箸で切り分け、中華あんをたっぷり絡めて口に運ぶ。

 焼きたてなので外の衣はまだサクッとしていて、ほろりと崩れる白身からは上品ながら濃厚な魚の味が口いっぱいに広がる。


「んんーっ! やっぱりタケノコメバルって本当に美味しい魚だね!」


「違いない。しかもしめてすぐのじゃなくて、冷蔵熟成で最高に旨い状態まで待ったやつだから身の柔らかさと旨味もヤバいな」


「この中華あん? もすごく合ってるよね。この細かくほぐれた貝柱の繊維が魚の身に絡みついて、一緒に口に入れた時の一体感といったらもう……」


 美岬が恍惚としながらムニエルに舌鼓を打つ。その様子に思わず笑みがこぼれる。


「ふふ」


「なにー? なんかめっちゃ嬉しそうだけど。なんで?」


「いや、幸せそうに食べるなーと思ってな。俺としてはその表情かおが見たくて少しでも美味しい料理を作ろうと工夫してるから、今すごく報われた感じだ」


「ふえっ? そ、そんなに緩みきった顔してる!? いやでも幸せなのは事実だし、こんなに美味しい料理食べてポーカーフェイスとか無理だし……うぅ、ガクちゃんのお料理が美味しすぎるのがいかんのですっ!」


「ぜんぜんいかんことないだろ。みさちは美味しいものが食べられて幸せ。俺はそんなみさちが見れて幸せ。WinWinじゃないか」


「……ガクちゃんってば、あたしのこと好きすぎる上に幸せの沸点低すぎない? あたしの笑顔なんて大安売りどころかフリー素材じゃないっすか。もっとこころざしを高く持って欲しいっす」


「何を言うか。俺にとっては嫁の幸せそうな笑顔は値段を付けようがない高い価値プライスレスだぞ。そんな世界で最も価値ある宝を手に入れた俺は、世界で一番欲張りで、かつ世界で一番幸せな男だと自負している!」


 俺の自信満々の返しに美岬は絶句して顔を真っ赤にして口をはくはくと動かすが言葉にならず、しばらくしてからようやく言葉を発する。


「…………ガクちゃん知ってる? 世界最強の人間とは、世界最強の男の妻だってジョーク」


「あー、聞いたことはあるな。それで?」


「つまり、ガクちゃんが世界一幸せな男なら、その妻であるあたしは世界一幸せな人間だってことだね」


 そう言って美岬は本当に幸せそうに笑うのだった。




【作者コメント】

 さて、今だから言い(書き)ますが、当初の予定では二人が初めて結ばれる日の特別なメニューは、デミグラスソースを使った海竜シチューの予定でした。第二部の作中時間も10日やそこらではなく2、3ヶ月に及ぶ予定でした。

 二人はしばらくプラトニックなお付き合いをしながら新居を建築し、岳人が数日かけてデミグラスソースを作り上げ、そこでようやく海竜登場で肉を入手し、海竜シチューメインの特別なディナーの席で岳人が美岬にプロポーズして二人が結ばれるというのが本来予定していた第二部の流れだったのです。……まあ、書いているうちに現実的ではないなとボツ案になり、今の形に落ち着きましたが。相思相愛カップルが同棲同衾していて邪魔者もいない環境で数ヶ月プラトニックな関係でいるとかまぁ無理でしょ。もし自分が岳人の立場だったら気が狂うわw

 まあそんなわけで供養としてカキコしておきます。


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