第177話 閑話5:孤独な王の失楽園
彼は“小さき弱き者”であった。彼は共に生まれた兄弟たちと森で暮らしていた。しかし、弱き者は強き者に喰われるのが常であった。兄弟たちは生きる力の弱い者から順に強き者に喰われ、彼だけが生き延びた。
辛うじて難を逃れた彼は豊かではあるが危険の多い森ではなく、岩場に住むことにした。食べる物は少ないが、そこは身を隠すのに適していた。強き者に襲われても、岩の陰に逃げ込めばそれ以上追われることはなかった。彼はそこで俊敏さと狡猾さを身につけた。
しかし、執拗に彼をつけ狙う強き者が現れた。その者は彼が水を得るために岩場から離れるのを待ち伏せするようになった。彼が岩場から離れると岩場と彼の間に割り込み、彼が岩場に帰るのを邪魔して彼を捕らえようとした。
この強き者が複数であったなら、彼は捕らえられ喰われていただろう。
幸いにして強き者は“はぐれ”であったがゆえに、彼は辛うじて逃げ切ることができていた。
もはや岩場も安全とはいえないということは彼も分かっていた。それで、岩場の奥へ奥へと安全な場所を求めて彼は進んで行った。
幾日も闇の中をさ迷い、ただ微かに流れる風に混じる外の空気の匂いを頼りに進んでいき、彼はついに再び太陽の光の当たる場所に辿り着いた。
高い崖に囲まれたその場所は彼の故郷に似ていたが、崖から落ちる水や塩辛い水の沼など明らかに彼の故郷には存在しないものもあった。
なによりそこには大きく強き者がいなかった。
小さき者だけが通れる闇の道を通ってようやく辿り着くそこは弱き者の楽園であった。小さき弱き者たちだけが暮らす場所であった。彼はその地の森で暮らし始めた。当時、その森には彼が主食としていた虫がたくさんいた。
しかし、彼はただの小さき弱き者ではなかった。大きく強き者の仔であった。そのことが、その地に生きる弱き者たちにとっての不幸の始まりであった。
年月が経ち、彼は自分よりも小さく弱き者を捕まえて喰らうことで成長し、大きく強き者となった。その地には彼を脅かす者はおらず、彼は絶対的な暴君として振る舞った。
彼に獲物と見定められた者は例外なく捕らえられ、彼の巣穴に運ばれ、喰われた。
かつて小さく弱き者であった彼は、小さく弱き者たちについて熟知していた。ゆえに彼から逃れられた者はおらず、やがて、その地の弱き者たちは喰い尽くされた。
すべてを喰い尽くした後で、彼自身も飢えた。探せど探せど弱き者はいない。時おり塩の沼から大きく弱き者が上がってくることがあり、その者を捕まえることで飢えを満たしていた。
しかし、大きく弱き者は賢かった。ある時、焦って大きく弱き者が陸に上がる前に襲いかかった時、陸とは比べようもないほど素早く逃げられ、それ以来、大きく弱き者たちはぱったりと姿を見せなくなってしまった。
とうとう食べることができなくなり、飢えた彼は自分の生まれた場所に戻ろうと決めた。自分も大きく強き者となったのだから、かつてのように追われることはないであろうと。
巣穴の奥へ、かつて自分が逃げてきた闇の道を戻ろうとして、彼は大きく育った自分がもはやその狭き道を通れぬことを知った。
彼は激怒し、幾度もそこに体当たりを繰り返し、ついにはその道を崩してしまった。彼は戻ることを諦め、獲物を探してかつての彼の王国であった地を歩き回ったが、何も見つけることはできなかった。
そして巣穴に戻った彼もついに餓えで力尽き、自分が崩してしまった故郷への道の前でうずくまり、二度と立ち上がることはなかった。
支配者も支配される者もいなくなった楽園に永い年月が流れ、時折海の道を通って訪れる者もいたが、その者たちもいずれいなくなり、海の道の存在も忘れられて久しくなった頃、一組の男女がこの地で暮らし始めた。
ーーーーーー
LEDライトの白い光が洞窟内を照らし出す。この場所は徳助氏のベースキャンプ跡地からもう少し洞窟の奥へ進んだあたりだ。徳助氏の遺品ノートの内容を調べていた際、この洞窟の奥にこの島の秘密が隠されているから知りたければ見に行けばいい、と記されていたので、一度洞窟の奥まで行ってみることにしたのだ。俺の後ろをキャンドルランタンを手にした美岬も怖々と着いて来ている。
あの書き方からして彼は確実にそれが何か知っているし、そもそも彼がここに移住した目的そのものがそれについてじっくり調べることだったようだからさほど危険なものではないのだろうと判断した。
洞窟は十分な幅と高さがあり、それこそ牛ぐらいなら余裕で通れそうだ。入り口近くの徳助氏のベースキャンプ付近は外から流入した砂や土で床が埋もれていたが、この辺りまで来ると明らかに歩きやすいように床が平らに馴らされていることが分かる。
そこかしこの壁に古い壁画や文字のようなものが描かれ、過去に何人もの人がこの場所を訪れ、生活していたことが伺える。
俺たちの生活範囲に人工的な遺物が見あたらないのは、ここに人が住んでいたのがそれこそ100年や200年どころではない本当に昔の話だからだろう。俺たちの拠点付近も地面を掘ったら遺物や遺構が出てくるかもしれない。
入り口から50㍍ほど進むと洞窟はだんだん広くなり、古い土器や朽ちた道具や明らかに人の手で拡張された横穴なども見つかった。そちらの横穴の奥も気になるが、とりあえず今は洞窟の最奥を目指して進んでいく。
──ざく、ざく……
足元の感触が急に変わったことに気づき、照らしてみるとここから先には玉砂利が敷かれているようだ。
「え、これ……玉砂利っすか?」
「そうだな。箱庭には玉砂利はないからわざわざ島外から持ち込んだってことか。どれだけの労力をかけたのやら…………それに、この感じはまるで……というか完全に参道だな」
この先にこの島の先住民の信仰の対象があることは間違いないだろう。
洞窟の両側の壁には一定の距離ごとに松明を差すための穴があり、中には燃え残りの松明がまだ残っている所もある。触れると古すぎてすっかり脆くなっており、粉々に砕けてしまった。
「この先に……この島の秘密があるってことっすね」
「怖いか?」
「ちょっと怖いっす。でも、この先に何があるか知りたいっす」
「徳助氏があえて具体的なことを書かずに知りたければ見に行けばいいと書いてるってことからして危険は無いとは思うけどな……」
一応、腰に提げた鉈とサバイバルナイフの位置は手で確認しておく。美岬も自分の腰に提げた徳助氏の遺品の剣鉈をチェックしている。今まで必要がなかったから用意もしなかったが、杖を兼ねた槍ぐらいは作っておいてもいいかもな。
そのまま周囲に気を配りながら進んで行くと、ついに広場のような場所に辿り着いた。そこには玉砂利ではなく、大量の骨があった。
この感じは見覚えがある。……大型の肉食動物の巣だ。だが、生臭さや屍臭はまったくしないから相当古いものであることはすぐ分かった。
「ひえぇ! なにこれ? なにこれぇ!」
美岬が怯えて俺の後ろにしがみつく。
「落ち着け。安心しろ。これはものすごく古い物だから危険はない。博物館とか発掘現場と思えばいい」
「あー……うー……まあ、そう思えば、そこまで怖くないかも。……人間の骨じゃなければまだ耐えられるっす。気味は悪いっすけど」
よくよく見てみれば、骨もまったくの無造作に散らばっているわけではなく、人の手によりある程度整理されているようだ。
骨は広場の縁に寄せられ、中央部分はぽっかりと空いている。そして、広場の中央には石造りの小さな
近づいてライトの光を当てて思わず声が出る。
「うおっ!?」「ひえぇっ!?」
巨大な頭と剥き出しの
うつ伏せ状態で一部白骨化しているが、大部分はミイラ化していて原形を保っている。おそらく生前は全長5㍍はあったことだろう。全盛期であった白亜期の種に比べれば小さいが、この特徴的な姿は間違いない。
「ティラノサウルス! しかも化石じゃない! ここにはこんな奴らまで生息していたのか!」
化石ではなくあくまでミイラ化した死骸として残っているということは古くてもせいぜい数千年ぐらいだと思う。俺は考古学者じゃないから詳しいことは分からないが。
美岬はランタンの光でティラノの前に置かれている石の祠を調べている。
「……それにこの祠。もしかして
「そういえば浦嶋子が竜神のために社を
なるほど。これは確かにとんでもない島の秘密だ。以前美岬から聞いた、浦島太郎の物語の元ネタだという、美岬の故郷の島を治めていた豪族、浦嶋子の伝承の真相がここにあったのだから。徳助氏がこれの調査をライフワークにしたいと考えたのも納得だ。
俺は改めてこの広場を観察してみた。そして、脚色された伝承ではなく、この場所の真実は実のところどんなものだったのか考察してみた。
周囲に残されたたくさんの骨は元々箱庭に生息していて、ティラノに喰われた動物たちだろう。残された頭骨などからしてほとんどが爬虫類のようだ。小型恐竜や恐鳥と思われる。プレシオサウルスのものらしきヒレの骨なんかもある。
なるほど。こいつが喰い尽くしたから箱庭には陸生の動物がぜんぜんいないんだな。
小型恐竜や恐鳥たちが定着していたこの場所になにかの拍子にティラノがやってきて、元々いた連中を絶滅させたんだろうな。この箱庭はそこまで広くないから元々の生息数もそんなに多くなかったんだろう。
この広場の奥に崩れた洞窟があるようだから、このティラノも含め、ここに生息していた陸生の動物たちはそこを通って島のどこからかやってきたと考えるのが普通かな。ティラノの死後に新しく定着した生き物がいないのは通り道が使えなくなったからか。あるいは後から外部からやってきた人間たちに駆逐されたか。
骨の中には人間の物は無さそうだ。ということは先住民がこの場所に到達したのはこのティラノが死亡した後である可能性が高い。たまたま偶然あの海のトンネルを通ってやってきた人たちが洞窟の最奥に鎮座するこのティラノの骸を見つけて、竜神として祀ったというのがこの島の竜神伝説の真相ってことかな。
ここまでの洞窟内の整備は到底、浦嶋子一人でできるような規模じゃない。間違いなく多くの人手と時間がかかっている。では、ここに住んで竜神を祀っていた先住民たちはどうなったのだろう?
想像だが、この箱庭は多くの人間を養うには狭すぎる。だから、この島で竜神を祀っていた人たちは人数が増えたら徐々に近隣の島──美岬の故郷の島などに移り住んで行って、最終的にこの場所を放棄したのではないだろうか。
そして移住した元島民によって竜神伝説が広まっていき、その末裔が浦嶋子で、先祖から密かにこの島の秘密を継承していたというのなら色々と辻褄は合う。
そんな考察を美岬に話してみると、美岬も納得してくれた。
「そういえば、うちの島に古くから伝わる民謡に南風と共に小舟に乗った男たちがやってくるのを女たちが踊って迎えて家族になるって内容の歌詞があるんすけど、そういうことだったのかもっすね」
「なるほど。それは興味深い内容だな。この場所のことも、あの崩れた洞窟の先がどうなっているのかも興味は尽きないが……とりあえず一旦ここまでにした方がいいだろうな」
「そっすね。これは調べだしたら
「そうだな。正直これは専門家がライフワークとして取り組むような代物だからな。余裕ができたら色々調べてみたいが、今の俺たちにはマイホーム造りと冬への備えという大事な仕事もあるしな」
そんなわけで島の重要な秘密の一端に触れた俺たちだったが、これ以上調べるのは一旦棚上げして普段の生活に戻ることにしたのだった。
【作者コメント】
浦島太郎のモチーフとなった豪族、浦嶋子の伝承については9日目④を参照のこと。一応、奈良時代~平安時代頃の実在の人物らしいですが詳しいことは分かっていません。房総半島に伝承が伝わっていますが、蓬莱と貿易して多くの富を持ち帰ったとかなんとか。この作中の設定はオリジナルです。
*2024.9/8ここまで改稿完了。
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