第136話 13日目⑭おっさんは過去を語る②
菜月と別れてから二年後。その時にはすでに調理専門学校は卒業し、バイトしていたレストランのオーナーからの紹介でホテルの厨房で働いていたが、そこに、俺と菜月が付き合っていた頃のバイト仲間だった女の子がたまたま異動してきて、彼女と互いに近況報告をし合う話の中で、菜月の訃報を知らされた。
「……え? は? 嘘でしょ。訃報って……ナッちゃんってもう亡くなってるんすか? まさか、別れた理由って難病が見つかったから、とか?」
「……それならまだ納得もできたし、諦めもついたんだけどな。死因は練炭自殺。車の中で間もなく二歳になる娘と一緒に見つかったそうだ」
「そんな。自殺ってなんで! しかも二歳になる娘って、まさか!?」
「そのまさかだ。別れた時、彼女は俺の子供を身籠ってて、別に好きな男ができたってのもどうやら嘘で、結局一人で子供を産んで育てようとしたけど上手くいかなくて、不況で職も失って、最後は追い詰められて娘と無理心中したっていうのが後から調べて分かった事の真相だ」
「そんなぁ! なんで? なんでナッちゃんはそんなことしたんすか! そもそもなんでお腹に赤ちゃんがいるって分かってるのに別れようなんて思うんすか! 一人で育てようとして上手くいかなかったなら、なんでガクちゃんに助けを求めなかったんすか! なんで無理心中なんて結論になっちゃうんすか!」
美岬がぼろぼろと涙を流しながら何度もなんで? と繰り返す。そして、それはまさに事の真相を知った時に俺が思ったそのままだった。
付き合ってた頃、俺も菜月もお互いに初めての相手だったということもあって危険日とか避妊とかあまりよく分かっていなくて、妊娠の可能性をあまり考えずにコンドームは着けたり着けなかったりだった。お互いにたぶん生理前が危険日なんだろうと思っていたからそういう時だけ意識していた。
ガラケーがようやく普及し始めていたあの頃は今と違って個人がネットで簡単に調べものができる時代じゃなかったし、学校でも性教育はわりとタブー視されていたから普段の生活ではあまり知る機会がなかった。
菜月と別れてからは誰とも付き合わずにこの歳になった俺自身、危険日については昨日ようやく正しく理解できたところだし。そして今なら分かる。あんなセックスをしてたら当然妊娠するだろうと。
菜月と名も知らない娘の死を知り、そこに至るまでの彼女の苦しみを、すべてが手遅れになって初めて知った時の絶望感と喪失感と後悔は筆舌の尽くしがたいものがあった。
さっきの美岬と同じように俺はなんでだよと何度も思った。
その時になって思い返してみれば、いくつもの不自然な仕草があったことに気付く。
別に好きな男ができたと言った時の彼女はしきりに髪を指に巻き付けていたがそれは彼女の嘘をつく時の癖だった。
自分から切り出した別れのくせに俺が了承した瞬間に彼女はざっくりと傷ついた顔をしていた。
別れてから彼女がレストランのバイトを辞めるまでの期間、職場で顔を合わせる度に彼女は何か言いたげな表情をしていた。
なんで俺は別れ話の時に彼女を引き留めなかった? なんであとで落ち着いて二人で話そうとしなかった? なんで俺は別れた後、彼女の今を知ろうとしなかった? なんで妊娠初期の性交痛という分かりやすいサインに気づけなかった? なんで彼女が妊娠している可能性を一瞬たりとも考えなかった?
なんで彼女は全部自分で抱え込もうとした? なんで何も教えてくれなかった? なんで追い詰められて命を絶つ前にダメ元でも頼ってくれなかった?
あまりにも悲しすぎて、なにもかもが嫌になって、自暴自棄な思いで俺はすべてを投げ出し、自殺の名所として有名な富士の青木ヶ原樹海に車を走らせ、車を乗り捨てて何も持たずに樹海に入った。
「……! 自殺……しようとしたんすか?」
「んー、そこまで明確に死ぬつもりではなかったが、別に死んでもかまわない。もうどうにでもなれって投げやりな気持ちではあったな」
「うう~……そんな辛い経験をしたら、仕方ないような気はするっす。でも、その時ガクちゃんが死ななくて本当によかったっす」
「……実際に遭難して死にかけたけどな」
「どうやって生き延びたんすか?」
樹海に入って当てもなくさまよい歩いて丸一日が経ったところで不意に我に返った。樹海の中で一夜を明かしてちょっと頭が冷えたというのもある。とにかく自暴自棄になってこんなことをしている自分のことがひどく馬鹿らしく思えてきて、帰ろうと思ったが、その時にはすでに完全に方向感覚を失っていて自分がどこにいるのかさっぱり分からなかった。
そもそもがどこに車を乗り捨てたかも記憶が曖昧なのに現在地が分かるはずもなく、なんとなく来た方だと思う方に歩いてみたが、通った記憶のない急斜面に行き当たって完全に遭難したと悟った。
幸いにして沢を見つけたので飲み水は確保できたが、持ち歩く容器も持っていなかったので沢を離れるわけにもいかず、結局沢沿いに下って人里を目指すことにした。
それから三日ほど沢沿いに移動したが樹海から抜けられず、沢の水とそこで捕まえた小魚や両生類や甲殻類を食べてなんとか生き延びていた。
「ナイフも無くよく生き延びれたっすね。ある意味今よりも過酷なサバイバルじゃないっすか」
「まったくだ。その当時はストレスからタバコを吸ってたからライターを持ち歩いてたのが救いだったな。それで一応火を起こせたし。ただ、タバコは初日で尽きて結果的にニコチンが抜けて禁煙に成功したんだから人生分からんもんだな」
「ライターのおかげで命拾いしたんすね。それでそれからどうなったんすか?」
四日目、行き倒れの遺体を見つける。死んでしばらく経っているようで白骨化が進んでいたが、荷物と一緒にあった遺言の綴られた日記ノートから身元と経緯は知ることができた。
彼は自殺志願者ではなく、登山道から外れて迷ったハイカーで、滑落して足を骨折して立ち往生したものらしかった。
ノートは防水バッグに大切に仕舞われており、家族の連絡先とメッセージも記されていたので、遺言を届けてやることがさしあたっての俺の目的となった。
食料こそなかったものの、彼の遺品である登山用品を拝借したおかげでその後は生き延びるのが楽になり、遭難してから一週間後、俺は自力で樹海を抜けて生還して彼の遺族に彼の遺品と遺言を届けることができた。
樹海での遭難から生還し、俺自身はもう死ぬ気はなくなっていたとはいえ、普段の仕事に戻れるような精神状態でもなく、しばらくは独りで自分自身を見つめ直す時間がほしかったので仕事を辞め、今度はちゃんと準備してからバックパッカーとしての旅を始めた。自分の中で気持ちに折り合いがつくまでのリハビリのつもりだった。
樹海での遭難の時は家族や同僚たちにかなりの心配と迷惑をかけてしまったので、あくまでも自分の生存報告としてSNSで旅の様子を呟いていたらそれがいつしか人気になり、アウトドア雑誌【バックパッカーズ】の編集の目に留まって雑誌にコラムを掲載することになり、それが好評だったので公式企画として予算が出るようになり、俺はそれを仕事として世界中を旅して回ってはその様子をコラムにして掲載するという生活を数年続けることになり、気づけばいつしかサバイバルマスターなどと呼ばれるようになった。
「それがシェルパ谷川のぶらり旅日記の始まりの経緯なんすね」
「そういうことだ。情けない話だろ?」
結局は死にぞこない男の自分探しの旅だったってわけだ。自嘲する俺に美岬がゆっくりと首を横に振り俺を優しくハグしてくれる。
「あたしはそう思わないっす。ナッちゃんが結局なにを考えてたかはあたしには分からないっすけど、二人の別れは決してガクちゃんが一方的に悪いものじゃなかったと思うし……悲しい結果だったっすけど、ガクちゃんが自分を責めるようなものじゃないと思うっす。……確かに、もうちょっとなんとかならなかったのかなって思う部分もあるっすけど、この話を始める前にガクちゃんが言ってたように、その時はお互いに心が大人になってなかったんだから、もうその時はどうしようもなかったんすよ。
それに、あたしは子供の頃からバックパッカーズのぶらり旅日記を楽しみにしてたんすよ。始まりがどうあれ、ガクちゃんの仕事はたくさんの読者を楽しませてきたし、その経験があったからこそあたしも命を救われて今ここにいるんすよ。誰が何と言おうとあたしはガクちゃんの人生を肯定するっす」
ずっと、誰にも言えずに自分の心の奥に押し込めていた身の上話を肯定してくれた美岬の言葉が、草木に落ちる優しい雨のようにじわりじわりと心に染み入ってきて、ずっと前から固く渇いていた心の一部を潤して柔らかくしてくれるのが分かった。
胸の奥から熱いものがこみあげてきて、それが涙となって頬を伝って落ちていく。
「……あ。…………ううっ……ふぐっ…………」
嗚咽が漏れる。抑えようとしても堰を切ったように涙が止めどなく後から後から溢れてくる。でも、その涙は決して不快なものではなく、心が次第に軽くなっていくように感じていた。
自分の弱い情けないところを見られたくないという気恥ずかしさはあったが、美岬はそんな俺の弱さを受け入れ肯定し、ただ優しく抱き締めてくれていた。それがただ嬉しく、なお一層彼女を愛しく思えた。
親しい大切な人たちをすでに全員亡くしている俺にとって、こんなに愛せる存在に出会えたことはまるで奇跡で、今度こそは、彼女だけは絶対に失いたくない、どんなことがあっても大切にしたい、ずっと彼女と共に生きていきたいという思いを新たにしたのだった。
【作者コメント】
という訳で岳人の過去話、どこにでもいる普通の青年だった岳人がなぜバックパッカーとして活動するようになり、サバイバルマスターと呼ばれるようになったかという始まりの話でした。
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