第102話 11日目①おっさんは戦いに勝利する

 雨上がりの湿気を含んだひんやりとした空気が拠点の中に流れ込んできて俺の意識を一気に覚醒させる。目を開けば夜明け前の薄明かりが拠点の中にあるものの輪郭をうっすらと浮かび上がらせていた。

 もし空が晴れているならこの感じだと4時頃だと思う。腕時計を付けている俺の左腕を美岬が枕にしているので正確な時間はまだ分からないが。


 寝る時は上掛け代わりに乾いている着替えを身体の上に被せているのだがそれでもちょっと肌寒かったようで、美岬は俺にぴったりくっついた状態で完全に熟睡していた。安心しきった無防備な寝顔で口の端からよだれを垂らし、ピクリともせずに静かに深い寝息を立てている。


「…………」


 成長期である若い頃は身体がある程度まとまった睡眠を必要としているというのもあり、美岬は一度眠るとなかなか起きない。

 対して俺は、今ではよほど疲れている時でもなければだいたい6時間も寝れば自然に目が覚める。美岬が俺より先に起きていたのは確か筏で漂流していた時の1回ぐらいじゃなかったかな。


 ただ、正直なところ、俺としても美岬が俺より長く寝ていてくれるのは都合がいい。

 なにしろ俺も男なので、こんな若くて可愛くて、しかも俺のことが大好きな彼女がずっと一緒にいると溜まるものは溜まるし、特に朝はあえてナニとは言わないが男の生理現象というものもある。もし美岬が俺より先に起きてソレを目撃したら色々と気まずいことになるだろう。

 それに俺も抜くものを抜かないと1日中悶々し続けることになる。だからその、美岬にはなるべく知られたくない話ではあるが、俺は美岬が起き出すより先にさっさとトイレに行って賢者モードに切り替えることを日課にしている。


 若さのピークを過ぎて次第に体力の限界を感じつつある最近ではあるが、この状況になって実感するのは、むしろ若さのピークを過ぎていて助かった、ということだ。

 若い頃は到底抑えられないと思っていた性欲をなんとか理性でコントロール出来るようになっているのはやはり年齢的なものが大きいと思う。もし10年前の俺だったら、この状況に置かれたら後先考えずにとっくに美岬と一線越えていただろう。そして、サバイバル状況下で美岬を妊娠させるという致命的な結果を引き起こすことになったことだろう。


 サバイバル状況下におけるセックスは、男にとっては快楽だが、女の側は快楽だけでは済まされない。無視できないリスクをいくつも一方的に抱え込まされることになる。

 妊娠したら胎児に栄養を取られるので必要となる食料の量が増えるし、妊娠初期は悪阻つわりが酷ければまともに動けなくなる。十分な食料の備蓄がない採集頼りの生活ではまずこの時点で危ない。

 身重になってからは通常の活動も難しくなるし、産婦人科医も助産婦もいない状況での出産は文字通り命懸けになる。

 ましてや、まだ身体が成熟していない今の美岬では成人女性に比べて妊娠と出産のリスクは何倍にも跳ね上がることになるだろう。


 これらのリスクを自分ではなく相手にだけ負わせることになるということを考えると、美岬のことを本当に大切に思っているなら、避妊できない現状でセックスを控えるのは論ずるまでもなく当然のことだ。

 ……と、そう頭では分かっているのに、本能の欲求というやつはそんな理性による正しい判断を容赦なく攻撃して陥落させようとしてくるので厄介きわまりない。


 今この瞬間も、俺の腕枕で無防備な寝姿を晒している美岬の魅力に自制心をフル動員して抗っている状態だ。

 本音を言ってしまえば今すぐ美岬を抱きたい。舌を絡め合う濃厚なキスをして、彼女の全身をくまなく愛撫して、1つに繋がって愛し合いたい。

 もしそれを俺が望めば、今の美岬が決して拒絶しないことも分かっている。むしろ美岬はエッチなことに興味津々でスキンシップも大好きだから積極的に応じてくれると思う。

 でも、だからこそ俺の方が自制しなきゃいけない。それが大人であり、美岬のことを本当に大切に想っているパートナーとしての俺が絶対に守るべきラインだ。


 そもそも美岬はしっかりしていても社会的にはまだ子供だ。大人としての責任を負うには早すぎる。肉体的には妊娠出産に耐えられるとしても、精神的に成熟して母親としての責任を果たせるようになるには、まだしばらくの時間が必要だろう。

 俺自身、今はまだ父親になるよりも美岬の彼氏でありたいし、恋人として2人だけで過ごせる時間を大切にしたいとも思っている。だから今は我慢だ。


 俺は美岬を起こさないようにそっと左腕を美岬の頭の下から抜き、彼女の頭をゆっくりと寝床に下ろす。


「…………ん……むにゃ……」


「……ふふ」


 一瞬意識が覚醒しかかった美岬だったがそのまま規則正しい寝息に戻っていき、その様子に愛しさがこみ上げてきて思わず笑みがこぼれる。今は、この幸せそうな寝顔が見られることを彼氏としての役得だと思って満足することにしよう。


「……愛してるぞ、美岬」


 美岬の前髪をかき上げ、おでこに軽くキスして、俺は拠点を出た。




 夜明け前の空は東側が明るくなっていて、群青の空に取り残された星と半分の月がささやかに存在を主張している。

 昨日の大雨はなんだったんだ? と思えるほどの雲1つ無い晴れ空。

 ただ、地面とそこに繁茂する草は雨上がりらしく濡れたままでキラキラと雫を滴らせている。


 とりあえず、昨日1日かけてアク抜きをしてきた葛デンプンの上澄みの水を捨て、底に沈殿している泥状の葛デンプンを指先で掬って味見してみた。

 ざらっとしたデンプンの舌触りと葛独特の風味があり、アクはほとんど感じられない。それでも念のためにもう一度水を足してよーくかき混ぜてから蓋をして放置する。これが沈殿し終わったら仕上げの乾燥に移ろう。


「さて、これはこのままでいいから、どうすっかな……」

 

 備蓄していた食料がかなり少なくなっているから、今日は食材の採集をメインでやる予定だ。そして昨日みたいに雨で外に出られない場合にも備えて燻製や漬け物といったそのまま食べられる加工保存食作りも進めていこうと思っている。そのために燻製を作るためのスモーカーを小さめの犬小屋サイズで作るつもりだ。


「……とりあえず燻製小屋の材料だけ集めておくかな。作るのは美岬と一緒にやればいいし」


 拠点からなたのこぎり、軍手と採集用のビニール袋を取ってきて、そのまま小川の河口付近の葦の群生地に向かい、燻製小屋の壁や屋根材に使う葦を刈って集めていく。葦は手で抜いたりちぎったりしようとすると大変だが、鋸で根本を切れば簡単に集めることができる。

 燻製小屋以外にも使いたかったのでかなり多目に集めて拠点前のかまどの近くに積み上げておく。


 それから、小川を渡った向こう、箱庭の東側の雑木林に向かう。まずは林の外縁部で立ち枯れた若木を何本か伐り、枝打ちして幹だけの丸太にして1ヶ所にまとめておく。

 次いで藤の群生地に向かい、篭に使うには細すぎるぐらいの蔓を集めて丸太のところに戻り、蔓で丸太をまとめて縛って束にした。これを拠点まで運ぶのは1人だとさすがに大変なので、あとで美岬と一緒に運ぼう。


 雑木林の中の桑の木に寄って、桑の実を採集して拠点に戻りかけたところで、足元に生えていた草が目に留まる。1本の茎にギザギザの3枚の葉が放射状についているその草は山ではわりとお馴染みの存在だ。

 しゃがんでむしって匂いを嗅いでみれば思った通りの爽やかな香り。和食の吸い物なんかの香味としてお馴染みのセリ科の香味野菜の三つ葉だ。


「三つ葉か。これは嬉しいな。これはさっそくハマグリの吸い物で使いたいな」


 ハマゴウ、ハマボウフウ、ハマダイコンに次ぐ新たな香味野菜に俺の料理人魂が疼く。とりあえず必要分を採集して俺がホクホクしながら拠点に戻ると、俺に気付いた美岬が駆け寄ってきて体当たり気味に抱きついてきた。


「お、おうっ! いきなりどうした?」


「……起きたらガクさんがいなくて、待っててもぜんぜん帰ってこなくて、心配したんすよぅ!」


「……あー、すまん。雑木林の方で作業してたら思いのほか時間が経ってたみたいだ」


 時間を確認したらすでに8時を回っていた。雑木林に向かってからすでに3時間ほど時間が経っている。今まで何も言わずに美岬をこれだけ長く1人にしたことはなかったから、さぞかし心細かったことだろう。悪いことをしてしまった。


「ガクさんのことだから心配いらないのは分かってたっすけど、姿も見えないし、どこ行ったかも分からないし、探しに行ってすれ違うのも嫌だし……ちょっとこういうのはどうしたらいいのか分からなくなるから困るっすよ」


「確かにそうだ。せめて書き置きかサインでも残しておくべきだったな。悪かった」


 置き手紙じゃなくても、サバイバルにおいて自分の行動を他者に知らせるシンボルサインはいくつかあるから、せっかくだからこの機会に美岬にも教えておこう。


 俺は小枝を3本地面に置いてやじるしを作ってみせた。


「このサインはすぐわかるよな?」


「やじるしっすね。こっちに行ったってことっすか?」


「そうだ。とりあえずこれだけでもどっちに向かったかだけはわかるだろ? あとはこれにいくつかのサインを組み合わせればもっと詳しい情報も伝えられる」


「たとえば?」


 俺は別の小枝2本でVを作ってみせる。


「Vは国際的なシンボルサインで『救助が必要』って意味だ。SOSと同じだな。じゃあ、俺が美岬へのサインとして↑とVを残してたら?」


「サインを残す余裕があるなら緊急事態じゃないっすよね。さしずめ手伝いが欲しいってとこっすかね?」


「そういうことだな。あとは、いくつかの目的地を表すサインを俺と美岬の間で決めておけばどこに来て欲しいかも分かるよな」


「葛の群生地だったらKで雑木林だったらZみたいな感じっすか?」


「採用。あと水源地をWで鉄の採掘場所をFでどうだ?」


「なるほど。あたしはそれでいいっす。じゃあ、テストして欲しいっす」


「おけ。……これは?」


 W↑に小枝を並べる。


「水源地に行く」


「正解。じゃこれは?」


 ZV↑に小枝を並べ変える。


「雑木林に行く。手伝いに来て欲しい」


「問題なさそうだな。今はとりあえずこんなもんでいいだろ。これからは美岬が寝てる間に俺が出掛ける時はかまどの辺りにサインを残しておくからな」


「ふふふ。スパイの暗号みたいでなんかワクワクするっすね」


 楽しそうに笑う美岬の頭をくしゃっと撫でてやる。


「さて、桑の実を取ってきたからこれで軽く腹ごしらえをしてから今日の作業を始めよう。美岬にも手伝ってもらいたいことはたくさんあるからな」


「あいあい。おまかせられ~♪」





 【作者コメント】

 今回の内容は今まであえてボカしていた部分だったので書くかどうか悩みました。これは岳人のある意味カッコよくない弱い一面ではあり、葛藤そのものであるので。やはり岳人も健康な男なので毎日が戦いであるのです。オーラルならいいんじゃないというご意見もありますが、岳人はなんとかして自分の性欲を満たすことではなく、なるべく性衝動を抑えたいと思っているのでこうなります。岳人は美岬に自分が我慢していることを悟られたくないので普段平静を装って、武士は食わねど高楊枝を地でやってる感じですね。

 


 地上から上空を飛ぶヘリなどに向けてメッセージを伝えるシンボルサインは↑とVだけではありません。以下はいざというときに役立つ国際的なシンボルサイン『国際民間航空機構対空信号』なので覚えておくといいですよ。


|=医者が必要(深刻な怪我人あり)

//=薬品必要

× =前進不能

F =要水と食料

LL=全員無事

K =どっちに行けばいいか教えてほしい

Y =Yes

N =No

⌋⌊=わかりません

△=着陸可能

□=地図、コンパスが必要


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