第1話 朝からなんのこっちゃ

深い、深い、海の中。


私を取り囲う空間は上下左右とも、何も存在しない。


空っぽだ。


重力に身を任せてただただ沈んでゆく。


先ほどまでは日の光が海中まで届いており、とても神秘的な光景が眺められた。


ただ、今はそんな希望たる日の光は拝めない。


視界は暗くなり、黒くなってゆく。


そう視界と同時に意識をも消えてゆきそうになるその時だった。


突然、右の足首を"ナニカ"に掴まれる。


それに反射するように私は"夢"の中で意識を覚ました。


消えてゆく命すら先ほどまではどうでもよかった。


だがいざ自身を脅かす脅威に直面した時、人は誰しも恐怖するものなのだ。


実のところ泳ぎはあまり得意ではない私だが、よくある映画のワンシーンを必死に見よう見まねする。


掴まれている右足首を振りほどく勢いでバタバタと足を動かし、自由な両手を全力で振り回す。


しかしなぜか一行に水面は近づかない。


それもそのはずだ、と必死に海の中で藻掻く私を見て私は思った。


とてもじゃないが見るに堪えない。


全身全霊であるその犬かきでは重力に逆らうことすらできないのに。


その事実に直面すると、私は段々と気が抜けていった。


深い、深い、海の中。


自然と目を閉じた。


視界は黒くなる。


いつの間にか呼吸の仕方も忘れていた。


しかし不思議と息苦しさは感じられない。


『あぁ、もうどうでもいいや。』


その諦めをきっかけに鹿野紅葉は"夢"の中で意識を落とす。


さようなら、"夢"の世界。




"夢"から覚める。


・・・良くも悪くも耳に残る"音"が聞こえてくる。


ずっと聞いていると鬱陶しくて耳を塞ぎたくなるような"音"。


今ではその"音"は悪役でしかなかった。


しかし眠る自身の"正義感"がその"音"を浄化する。


「初日から遅刻はまずいよね。」


私は長い夢から覚めたように気怠い気分で目を覚ます。


時刻は6時ピッタリ。


今の季節は春真っ只中であるが、いまだ冬の残り香はそこら中に充満している。


「うぅ~、寒い。」


日本中を覆う寒波は、この部屋にも影響ありだ。


気分的には二度寝といきたいところだったが、自身の体温で温まる毛布は今となっては"悪"だ。


名残惜しくも暖かい毛布は勢いよく吹っ飛ばして、起床する。


ここから私の"新しい"モーニングルーティンが始まる。


衣服が仕舞われているクローゼットへと足を運び、身だしなみを整え、買ったばかりの新しい制服に袖を通す。


その後、埃が積る横長の勉強机に置かれたリュックサックを持って、2階にある私の自室を後にする。


そして一階にある居間に向かうため、正面の階段をギシギシと音を鳴らしながら下る。


私の家はいわゆる木造建築というもので、まだ築10年程らしいが耳に痛い木が軋む音が階段を一段一段降りるごとに聞こえてくる。


この事象は私がこの家で生活するうえでの厄介な事象の一つでもある。


大人になったらリフォームしようと心に決めつつ、階段の最後の一段を降りた。


一階に降りると、居間の方からカチャカチャと調理器具が踊る音が聞こえてくる。


ポルターガイストか何かだろうか。


まぁ、そんな冗談はさておいて、その音を耳にした私は自然とにやけてしまっていた。


ウキウキな気分になりながら、居間へとつながる扉を開ける。


するとキッチンには大人の男性がリズミカルに朝食をこしらえている姿があった。


私はクスッと笑いながらその人物に朝一番の挨拶をする。


「おはよう、パパ。 朝からノリノリだね。」


するとパパはハッと我に返り、


「お、おはよう! 紅葉。

 娘の高校初日の朝だからな、それは気合が入るもんさ。

 少しだけ待っててくれ、もうすぐ揚がるから。」


そう返してくる。


・・・挨拶というのは正直言って、言葉の意味を理解する意味はないと思うんだ。


朝の時間帯になんとなく相手へ向かって、頭を下げたらそれは挨拶になるのではないか?


おそらくそれは挨拶になると思う。


人によってはその行為(挨拶)自体を大切にしている人もいると思うけど、挨拶なんていうものは"そんな程度"なのだ。


だから今の私もパパが返した挨拶に対して、特に何も思わない・・・ハズだった。


あぁ、挨拶返したな。程度、いやそもそもそんなことすら考える事は本来しない。


────ただ、なぜだろう。


今の挨拶には脳裏にこびりつく、朝にはそぐわない変な"ワード"が聞こえた気がする。


アガル?


アガルってなに? なんか夜のクラブとかで聞きそうなあの"アガル"?


現在時刻は、6時10分。


その"アガル"である線は極めて低い。


であれば何か。


実は答えはわかっている。


だってさっきから嗅覚に刺さるというかなんというかこう・・・


とにかく、脳が現実を受け止めたくない一心で必死に足掻いている。


私のCPUは朝から絶賛フル稼働中だ。


しかし、やはりスペックの問題か、その処理は中断され文字通り跳ね返される。


「え? 今揚がるって言った? 朝から揚げ物ナノ?」


ギクリ、とそんな効果音が似合うようなパパの反応で居間の空気が一瞬凍る。


そして次の瞬間、その空気に水を差すように・・・


────チリリリリリリン。


────チリリリリリリン。


クッキングタイマーが居間に鳴り響き、それと同時に熱々のサラダ油に深く沈んでいたふんわりと丸っとした"ソレ"が揚がってきた。


「・・・昨日の夜、カレー・・・作っただろ?」


はい、そうですね。


私が作りました。


「それでな、昨日夜と今日の朝で続けてカレーってのもなんか違うだろ?」


まぁ、言いたいことはわかる。


「だから・・・」


だから?


「カレーパンにしてみた・・・」


まぁ、朝昼晩とカレー食べてる人もいるみたいだし、私がそれに対して怒るなんて事は筋違いだ。


大体夜も仕事で帰りが遅いのに、こんな早起きして朝食を用意してくれてるんだよ?


それで怒鳴り散らかしたりしたら無礼にも程がある、と私は思いました。


だけどなんでだろう、私今チョピっとだけ反抗期なんです────。


カレーとカレーパンを同ジャンルとカウントしていない。


正直私の中でその二つは、お米とパンくらい離れた位置関係でジャンル分けされている。


もう一度さっきのことを復唱しますけど・・・私は今チョピっとだけ反抗期なんです────。


『続けてカレーはなんか違うからカレーパンにしてみた』


そんな安直な考えに現状、ただでさえ沸点が低い私は・・・


朝からご近所のご年配の方々に活気付けるような活力のある声を荒げましたとさ。




第348回居間大決戦が終えた後、仕方なく作ってくれたカレーパンをパクパクと平らげ、歯を磨く。


その後、家を出る時間までまだ余裕があったので居間でテレビを見ることにした。


ダイニングテーブルの上に置かれているリモコンに手を伸ばし、テレビの電源を付ける。


「昨夜未明、東京都内にて虚星会の幹部同士による大きな内部抗争が起こりました。」


すると重苦しい雰囲気でニュースキャスターが変わる変わる映る現場映像に合わせ、"悲劇"を伝えていた。


私は映像越しに映る酷い有様の現場映像に、歪で黒い"アレ"を捉えた。


まるで映画のセットのようだと言いたくなるような、出来の広範囲で抉られている車道のコンクリート。


歪で黒い"アレ"が残影の様に見える。


上空から見下ろすように映る、大きな公園。


木々達は倒れ、敷き詰められていた人口芝生は隠していた土や砂利と共に、そこら中に酷く散乱している。


歪で黒い"アレ"が残影の様に見える。


高層ビルの中でもひと際目立つ高さ400メートルを優に超える細長い建物。


その建物の200メートル付近では、大砲で打ち抜かれたような巨大な穴が正面に飾られている。


歪で黒い"アレ"が残影の様に見える。


「なお、この内部抗争には一般人の被害の出ており、死者は8名出ております。」


歪で黒い"アレ"がまだ残影の様に見える。


「都内にお住いの方々は、危険ですので夜間の外出を控えてください。」


歪で黒い"アレ"がまだ残影の様に見えている・・・


「紅葉? そろそろ登校の時間じゃないか? 朝からニュースを観るのは関心するけどあの手のニュースは返って心に毒だぞ?」


私はいつからだったのかいつの間にかテレビの前に釘付けになっており、パパの掛けてくれた一声で我に返る。


「・・・あ、そうだね、教えてくれてありがとう。パパ。」


時刻は6時30分、学校まではここから歩いて一時間くらいだから8時登校の"うち"としては確かにそろそろ家を出ていい時間だ。


カバンを手に取り、居間を後にする。


そして家の玄関で学校指定の革靴を履いて、扉に手を掛けようとする。


「都内みたいにここは、物騒な地域でも無いけど、夜は遅くならないようにね。」


するといつから居たのかパパが『行ってらっしゃい』の変わりなのか、そう心配してまた声を掛けてくれる。


しかしながら今日は記念すべき高校の入学式である、私のイメージだと基本的にそういった記念日?的な行事は学校が早く終わるイメージだ。


だからそのまま思ったことを口にした。


「わかった、でも今日は学校終わるのも早いから帰りが遅くなることはないかな。」


そう答えるとパパは少しにやけ顔で本当か?みたいな雰囲気で顔を覗き込んでくる。


疑われても困る・・・。ので言葉に厚みが出るように念押ししておく事にした。


「ほ、本当だって! 初日から遊びまくったりなんて絶対絶対しないから!!」


実際、本当にそんな事するつもりは毛頭ないのだから。


「ならいいんだけど。まぁ、とにかく気を付けてね。」


私はそれに対して、『はーい』と返事をして再度玄関の扉に手を掛ける。


しかしなぜだろう、このまま学校に行くのは名残惜しい気がしたので"本当"に家を出る前にふと頭に浮かんだことをパパに聞いてみた。


「パパ」


「ん? どうしたの。 一緒に学校まで行ってほしいの?」


それはどうでもいいからスルーする。


「さっき、あの手のニュースは心に毒って言ってたでしょ? なんで?」


そう本当にどうでもいいことなのだが、なんとなく聞いてみたかった。


「あぁ、さっきの話か。 いや朝からあんな見るからにマイナスイメージなニュース見てたら心が病んじゃうから毒だぞって意味だよ。」


あぁ、なんだそんなことか。


「そっか、そうなんだ。 じゃあ行ってくるね。」


「ん? あ、あぁ、行ってらっしゃい。」


パパは少し戸惑っだようだったが、"最後"にはちゃんと『行ってらっしゃい』と言ってくれた。


手を掛けていた扉を押し開き、私は家を出る。


『心が病んじゃうから』か・・・


そんなことなら気にする必要はない。


既に病んでいる心に毒を注いでもなにも変わりはしないのだから。

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