第三十一話
眼鏡を掛けているけどあれは絶対に百井。しおらしい佇まいが物語っている。何の変哲もない眼科が華やいで見える。それにしてもなぜこんなところに。
ともかく絶好の好機。
けれども、私は眼科に用はない……いや、あるかも。この頭痛は眼精疲労によるものかもしれない。
診療時間ギリギリだけど院長とは顔見知りだし、相談という名目で眼科の敷地に入る大義名分はある。
しかし、意気揚々と話しかけていいのか。昨日の出来事が再び繰り返されるのではないかと不安が浮かぶ。
そんな不安も一瞬のうちに消える。百井がそこにいる。この状況を無駄にしては昨日と同じ轍を踏む。
ならば私がやることは一つ、直往邁進のみ。
覚悟を決め、傘を持つ右手に力が入る。なんだか体も温まってきた。とは言え、逃げられたら流石にショックなので顔が隠れるように傘を深く構えた。
百井は眼科の入り口近くにある待合用のベンチに座ろうとしている。
一歩、また一歩と駐車場を歩き、百井との距離を詰める。
そして百井が目の前に。
「おや、やっぱり百井だ」
私は深く構えていた傘を少し上げ、百井に声を掛けた。
「わっ、誰かと思ったら白川さん……」
「おはよう百井」
「おはよう……?」
百井は明らかにバツが悪そう。それでも立ち去ることはしないようだ。逃げないのであればこっちのもの。
普段とは違う眼鏡の百井を凝視。新鮮である。
冒険していないデザインの眼鏡に黒いパーカーにキャスケット。髪はまとめている。手には箱状のものが透けたビニール袋。処方されたものだろうか。
百井の私服を見たのは夏の浴衣を除けば六月以来。
あの時は確か……淡い色合いの綺麗めな服だったような気がするけど、今回のラフな恰好も似合っている。なんだろう、このしっくりくる感じ。
見つめていると百井は視線を逸らした。やれやれ。
「あ、こんばんは、だったかも。それはそれとして特に用は無いから」
「え?」
「雨も降ってることだし。それじゃ」
私はそう言い、踵を返した
長期戦を見据えた一手。まずは押す前に引いてみる。
それにすんなりと拝めた百井の顔は幸福度が高かった。今日はよく眠れそうだ。
「あの、ちょっと待って!」
百井は律儀に私を呼び止める。
「何? 私、学校の帰りで疲れてるし、急いでるんだけど」
私は流し目をしつつ答えた。
「あ、その……」
「はあ……冗談だよ」昨日は私が呼び止めても止まらなかったくせに。まあいい。とりあえず百井に向き直る。「学校休んでたけど、どうしたの?」
「今日は……気分が乗らなくて」
「サボりか。そんな日もあるよね。もう帰り?」
私は眼科の入り口を一瞥して言った。
「うん」
「で、傘持ってないの?」
「午前中は晴れてたから傘を持ってきてなくて」
確かにこの時期の天気は変わりやすい。されど備えあれば患いなし。持っててよかった折り畳み傘。
「それで雨が止むのを待っていたと」
「そんな感じ」
「すぐに止みそうではないね」
「そうだよね……」
百井は気落ちした様子で言った。
「なら傘入ってく? 私の家ここから近いし、家に着いたら大きい傘を貸すよ」
私は合理の極みにある提案をした。
私は折り畳み傘を持っていることを自慢するために百井に近づいたわけではない。事情はなんとなく察していた。
百井を雨風に晒さず家に帰したい。そして私は頭痛が辛くなってきたので早く家に帰りたい。あわよくば昨日の出来事についての言及。
これらを同時にこなすためには、二人で相合傘をして帰るのが手っ取り早い。
尤も、今回の場合は自分のことを優先して百井を捨て置き一人で帰ることが合理的だけど、私は甘ちゃんだからそれはできない。
「いいの?」
「百井の家まで少し遠回りになるけど、こんなところで時間を無駄にするよりはいいでしょ?」
「まあ確かに。でも……」
む、私と相合傘したくないとな。わかるよ、その気持ち。傘の権利を他人に握られるのは存外煩わしい。
それに少し我慢すれば周辺のコンビニで傘は買える。いじらしい百井をもっと見ていたいけど出過ぎた真似だった。
「もしかして雨に濡れるのが好きだったりした? 百井の楽しみを奪うのは心苦しいよ。それじゃ」
「あ、待って待って! そんな趣味はないから! 途中まで一緒に帰ろう!」
百井は慌てて言った。
「よろしい。折り畳み傘だから狭いけど、どうぞ」
傘の右側のスペースに収まるように百井を促す。
「失礼します……」
「ちなみにそこ、ナメクジいるよ」
私はそう言い、百井の足元を指した。
「えっ!!?」
慌てた百井は被っているキャスケットを落としそうになった。
「ごめん嘘」
「……意地悪」
百井は眼鏡の奥の瞳から抗議の視線を送ってきた。
「たまにはいいでしょ。ほら行くよ」
百井を道連れにして眼科を後にした。
今日の雨はまだ止みそうにない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます