真珠の片想い

すきま讚魚

前編 月のしずく

「あんさんが一緒ならァ、水底ってェのはあたたかく、存外悪いところでも無いみたいやなぁ」


 ……ならばもろとも。


 それは、願うだけなら、許されるのでしょうか——。




***




 それはもう、ええ、まさに夢見心地のようでした。


「そなたはまことに美しいな」


 わたしはまだ子クジラでしたが、一言一句たがわずその夜のことは覚えています。


 なんだか心が溶けてしまいそうな、ぽっと花が咲いたような、あの不思議な気持ち。なんてお伝えしたらいいのでしょうか。




 緩急様々、大小様々な渦潮の浦、関門海峡。

 わたしの棲み処は水底みなそこにあるおやしろの端っこ。此処は古きより多くの伝承が伝わる海なのです。


 古来より、この海には竜神さまがいらっしゃいました。

 その遣いとして我ら長須鯨ナガスクジラの一族が。おおよそ、八十から九十の歳月を我らは生きると云われておりますから、神々や海の精霊の皆さまをのぞけば、我らの一族がその歴史の語り継ぎも担っておったと云っても過言では無いはず。


 しかし、わたしはどうしてか。

 その誇り高き一族の中で、一頭だけまっしろな子クジラとして産まれ落ちてしまったのです。物心ついた時にはもう一頭きりで漂っておりましたので、両親のことはまるで覚えておりません。


 群れの皆はわたしのことを『しろんぼ』と呼びました。


 わたしは身体も小さく、海流の中を泳ぎ抜けるには非力で、自分で餌を獲ることもままなりませんでした。

 長須鯨はその身体の特性故、死せば早々に沈んでしまうと云われております。

 ですがわたしは鯨のくせに、息も続かず満足に潜ることすら叶いませんでした。


 『しろんぼ』は揶揄からかわれ突つかれはしますが、だぁれもその心に寄り添ってくれるものはおらず。群れはあれども、常に独りぼっちで不器用に浅瀬を泳いでおったのです。


 だけども、『しろんぼ』は唄うことが大好きでした。

 唄には多少自信があったのです。

 波の静まった夜の海、月を仰ぎ見て唄うわたしの声を、何処で聴いたか竜神さまはたいそうお褒めになりました。


 うつつよの 月になみだと口遊くちずさ


 ——お月さまもこのわたしを哀れんでくだすったのでしょうか。


 その日より、唄は、わたしのいのちとなりました。


 だけども、蔑み小馬鹿にしていた、独りでは餌も獲れぬ『しろんぼ』を今さらあっさり受け入れるクジラは群れのどこにもおりませんでした。



 海より仰ぎ見る広大なお空と、その間にあるのは地上と云う場所であるとは、海の精霊たちが教えてくれました。

 しかし波に漂うわたしには、その世界は関わることのない、ひたすらに平らな場所だとしか思えなかったのです。


 時折、その平らな世界からはヒトと呼ばれる泳げぬ者たちがやって参りました。彼らはヒレでなく、二つに割れた脚と呼ばれるものがあり、地上を自由に駆け回ると云うのです。


 小さきその者どもはこの浦を越えようと、必死にふねと呼ばれるものを作り渡ってゆきます。海に棲まう雑多な奴らめが、おもしろ半分でヒトを引きずり込んでいる光景を目にすることも。


 海は、海に棲まうものたちの場所です。

 我らが地上を闊歩できぬように、ヒトもまた海を自由に謳歌することはままなりません。


 そうやって、古来より生きとし生けるものの中で棲み分けがきっちりとされているものだと。幼いわたしは思っていたのです。




 いつかの春の頃、この海峡をまたいで大きな大きなヒトの争いが起きました。


 海はヒトの血と、屍体と、船や彼らの鋭利で重き装備の残骸でいっぱいになってしまいました。

 しかも、あろうことか。負けを察した側のヒトの陣営が、死に場所にと次々に波の底へと飛び込んでくるではありませんか。


 海が、ぐわんと膨れました。

 ヒトの怨念、無念、哀しみ、幼いわたしにも伝わってきます。そのとてつもない大きな感情の澱みが海の底に沈むのを見ました。


 どうか、どうか、おやめくださいませ。

 わたしは小さな、満足に泳ぎもできぬ子クジラですが。海を哀しみに満ち満ちた有象無象の場所にはしてほしくなかったのでございます。


 ああ、幼子まで。

 わたしは、必死に何度も何度も潜り、その身体を押し上げました。

 しかし非力なわたしは息が続かず。苦しくて海面に上がれば、その間にもヒトはどんどんとその身体を海に沈めてゆくのです。


 とうとうわたしは力尽きてしまいました。このままでは息ができずに死んでしまう……そう思いましたが、身体は云うことを聞かずに意識は深い深い底へ。


 できることなら。

 苦しみよりも怨念よりも。

 誰かのために唄っていたい。

 言伝ことづてよりも、わたしに褒められるところがあるとすればこの唄声だけだから。


 ああ、せめて。

 わたしも皆のように。あいする誰かに出逢ってみたかった。

 とうさま。かあさま。わたしは、白く生まれてしまった故に、ふたりにあいされなかったのでしょうか……。



 そんなわたしの気持ちを、海の精霊たちが、竜神さまが、どなたかが……憐れんでくださったのでしょうか。

 それとも何かのお役目を授けてくださったのでしょうか。

 水面みなもに揺らぐ月より何かがぽとりと。その涙のような雫を口にすれば、幾つものあぶくに包まれ息は続き、海面へと何かの力に押し上げられて。


 ああ、たすかった。たすかってしまった……。



 べべんっ——。


 その時、確かに聴こえたのです。


 ——べんっ。


 不思議な、不思議な。優しくて、哀しい音。


 不思議と、力が湧いてくるような気がして。

 わたしはその音の聴こえる浅瀬の方へと泳ぎました。



「あなや、海坊主であろうか」


 幼くも聴こえる、まろやかなヒトの声が聴こえてきます。しかし。


 ……海坊主とは、なんと失敬な。

 わたしは確かに『しろんぼ』ですが、うら若き乙女なのですけど。


「……ど阿呆ゥ、ありゃあ鯨だ」

「くじら……?」


 そうです、わたしはクジラなのです。

 もうひとつ響いてきた、からりとしたヘンな声に同意し、わたしはひとつ声を上げました。


 そこで、わたしの声に気づいたのか。

 波間に足をつけて、こちらへひとり。


(わぁ、なんと綺麗な——!)


 驚きました。ヒトの幼子にも見えるそのお方は。

 わたしのように真っ白で、その髪も少し黄みがかった海月くらげの紡ぐ糸のようで月の光に透けるような……。

 何よりも。その瞳がまるで血赤珊瑚ちあかさんごの如く、深く蠢き透き通るような紅で。


 わぁ、お揃い! でも貴方の目はそれ以上にとても美しいのですね!


 思わず、伝わるわけもないのに語りかけてしまいました。

 わたしは疎まれる『しろんぼ』ですが、この時ばかりは白という色がとても美しく感じられたのです。


「そなたも、白いのだな」


 紅き瞳が、わたしをまっすぐ見据え、そのお方はそう口にしました。


 ええ、お恥ずかしながら。でも貴方の白はとてもとても美しいのですよ!


 なぜでしょう。初めてお揃いの色のものを見たからでしょうか。

 とても心が踊るような気持ちで、わたしは一生懸命語りかけました。


「白とは、忌み嫌われる色と、今日の今日まで思うておった。しかし、ちごうたようだ。そなたはまことに美しいな」


 わぁっ——。


 どうしましょう。気恥ずかしいような嬉しいような。

 泣きそうなくらいに幸せな気持ち。なんでしょうこれは。


「そなたも、少しのはぐれものか?」


 その方は優雅に微笑み、わたしの頭を撫でてくれたのです。


 貴方も? そんなに美しいのに? そこまでお揃いなのですか?


 そう問いかけてももちろんのお方にはわたしの言葉など通じません。しかしこんな海辺に幼子がひとり、確かにそのお方の纏う空気は少し寂しそうにも見えました。

 

「せめて、祈ろう。この疎まれし身なのが申し訳ないが、そなたに幾許いくばくかの長寿と多幸があらんことを」


 そんな、わたし如きにもったいない。

 でも、そうですね、せめてお礼に、この海峡を渡すお手伝いでしたら。


 そう思い、わたしはくるりと背を向けました。


 伝わるかしら……?

 どうぞ、どうぞこの背にお乗りくださいませ。舟と、良い舵取りがいなければこの海峡は少々危ないのでございますよ。


「乗せてやるってよ、この海峡には舟と良い舵取りが欠かせないんだとさ」


 ……さっきのヘンな声。どこから話しているのでしょうか?

 なんだか呆れ気味の声音が少々不服ですが、わたしの気持ちを伝えてくださったので良しとしましょう。


「ったく……。おめぇはそうやってよゥ」


 ぶつくさ聞こえる声は、どうやら彼のお方の背にある箱からのようです。

 なにやら、このヘンないきものとは妙な火花が散りそうな予感がしております。


「そうだ、そなたに名をつけよう」


 彼のお方は、わたしの背に乗り優しく撫でてくれながら、まるで歌を詠むかのように囁いたのです。


「そうじゃ、真珠しんじゅ、真珠はどうであろうか?」


 ……そのような美しい名をわたしに?


 語りかければ——もちろんその言葉は通じてはおりませんが——、ふふっと彼のお方は雅に微笑みました。


「左様か。気に入ってくれたのか。そなたは、まことに美しいな、真珠よ」


 竜神さま、海の皆さま、わたし名をいただいたのです。

 お揃いの色をしたこのお方に。

 とてもとても、美しい、でもぴったりとこの身に染みつくような名を。


 ですから、わたしはこのお方が海峡を渡るときのおふねになります。


 唄い、幾日もこの水底の御霊を鎮めましょう。


 わたしは、真珠。

 血赤珊瑚のきみにいただいたこの御名を、生涯大切にいたしましょう。



「おめぇ、さすがやんごとなきクソぼんぼんだなァ、このたらしがよゥ」


 ヘンな箱が何か云っておるようですね。

 その姿を視ましたが、なにやら不思議な魂の形……何者でしょうか。



 貴方が美しいと云ってくれたから、わたしは自分のことがすこしばかり好きになりました。


 ……なんなのでしょう、このくすぐったい気持ちは。

 ぱっと、冷たかった心の臓に刺さった棘が溶けてしまったかのように。

 仄かに暖かくて、月の映る海にとろけそうな。


 ……もっとおおきくなれば、この気持ちがなんなのかわかるのでしょうか。



 わたしはクジラ、白きクジラの真珠です。


 今日もこの、有象無象の渦巻く海峡で、白き彼のお方を待ちわびるのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る