第6話 染み抜き作業

 装飾係の作業場には、肖像画の清掃作業を終えた後も時々顔を出している。

 目的は午後のお茶とお菓子なのだが、作業の様子を見るも楽しい。


 肖像画の清掃作業を行っている時に、隣のスペースで作業を行っていたクラッセンさんからは、腐食した金属の清掃作業も頼まれた。

 クラッセンさんは鎧の修復を専門に手がけていて、穏やかな表情を絶やさない落ち着いた人物だ。


 というか、装飾係の作業場で働いている人達は全員が穏やかな性格で、雑務係の詰所や厨房のように怒鳴り声が響くことは一度も無い。

 皆さん穏やかな人ばかりで驚いていると話すと、クラッセンさんが理由を教えてくれた。


「ここで行われている作業は、みんな繊細な作業だし、多くは失敗の許されないものだからね。カリカリと頭に血が上った状態では、とても上手くは出来やしない。心を落ち着けて作業するのは、ここではとても重要なことなんだよ」


 作業場にいる全ての人が穏やかに、それぞれの専門知識を用いて、時にアドバイスを求め合いながら静かに仕事を進める。

 そんな作業場の空気が、俺にはとても心地良かった。


「どうかね、ユート。上手く除去できそうかい?」

「なかなか境界の設定が難しいですね」


 クラッセンさんから頼まれた、鎧の腐食部分の清掃は困難を極めた。

 腐食部分は、鎧を形作っている金属が酸化したものだが、酸化している部分としていない部分の見極めが難しいのだ。


 転移魔法を使った清掃作業を行う場合には、転移させる汚れと付着している物体の境い目を設定する必要がある。

 そもそも、どうしてその境い目を認識できるのか理論的なことは全く分からないが、おそらく転移魔法の使い手としての能力の一部なのだろう。


 対象となる物体に意識を集中すると、物体の断面図のようなものが脳裏に浮かび、そこに境界線を引くように境い目を設定する。

 転移させる物と残す物の性質が似ているほど、その境界を設定するのが難しくなるのだ。


 今は、腐食したコインを使って練習している段階だ。

 クラッセンさんの話によると、小物のパーツならば薬剤に漬けて処理すれば綺麗になるが、鎧として組み上がった物を分解して組み直すのには膨大な手間を要するそうだ。


 勿論、歴史的に価値の高い品物は、手間暇掛けて修復するそうだが、全てを分解修復する訳にはいかないので、腐食の度合いに応じて様々な方法を用意しておきたいらしい。

 こうした考えは、他の品物を修復している人達も同じように考えているようだ。


「ねぇ、ユート。こうした染みの除去とかは出来ない?」


 ハルミーレさんは、ドレスの修復を担当している四十代ぐらいの小柄でほっそりとした女性だ。

 青みがかった銀髪は、染めているのではなく自毛のようだ。


「生地に付いた汚れですか……そうですね。生地が染めていない物であれば出来ると思いますが、色や模様を染めたものは練習が必要ですね」

「見ての通り、これは元から染めていない生地だけど、ちょっとやってみて」

「いいですよ。では……転移」

「ほぉぉ……」


 お茶の席で、ハルミーレさんに差し出されたハンカチ程度の大きさの生地から、染みになっている汚れだけを転移させて取り除くとテーブルを囲んでいた皆さんから感嘆の声が上がった。

 渡された布地に付いていた古そうな染みは、綺麗サッパリ落ちている。


「ユート、ちょっと……ちょっと来て」


 染みが一滴残さず落ちたのを見て、ハルミーレさんが俺を作業場へと引っ張っていった。

 何が始まるのかと、他の人たちもゾロゾロと席を立って付いてきた。


「ユート、この染みを取れる?」

「これは、婚礼用の衣装ですか?」

「そうよ。出来れば、この大きな染みを綺麗にしたいの」


 ウエディングドレスと思われる純白の衣装の胸元には、薄っすらと紫色の染みが残っている。

 既に染み抜きを試みたものの、薄く残ってしまったようだ。


「これも染色はされていませんよね?」

「ええ、生地は最上のスパイダーシルクよ」


 日本でもクモの糸を使った生地が話題になったが、たぶんこちらの世界のクモは俺の知っている大きさではないような気がする。

 スパイダーシルクは素晴らしい手触りと光沢で、染みが残っていない部分は輝くような純白に見えるので、余計に染みが目立ってしまっている。


「やってみます……」


 意識を集中すると、スパイダーシルクは先ほどの布よりも遥かに微細な繊維で出来ていて、その間に染みとなる物質が絡め取られてしまっているのが分かった。

 それでも、素材となるスパイダーシルクと汚れの成分は全くの別物なので、比較的容易に境界の選別が出来た。


「転移!」


 たった1ミリしか移動させられなくとも、布から染みを抜き出すには十分すぎる距離だ。

 一発の転移魔法で純白の輝きを取り戻したドレスを見て、ハルミーレさんは息を飲んで言葉を失っていた。


「す……素晴らしいわ、ユート! あぁ、見てちょうだい、まるで仕立て上がったばかりのような美しさよ」


 ハルミーレさんだけでなく他の作業担当や、居合わせたエッケルスさんからも賞賛の言葉をもらった。


「素晴らしいよ、ユート。これは第二王妃シャルレーヌ様の婚礼衣装でね、第一王妃クラリッサ様の不注意であのような染みが出来てしまったのだが、いや素晴らしい、これで王家の遺恨が取り除かれたよ」

「そ、それは……お役に立ててなによりです」


 エッケルスさんの声には、言葉とは裏腹に剣呑な響きが混じっている。

 ここが第二王妃派の領域だと分かっていたつもりだったが、また意図せず王位継承争いに加担してしまったようだ。


 ついでに、コインからの腐食部分の除去と、染色し模様の描かれた布からの染みの除去という課題を出されてしまった。

 腐食して色の変わったコインを数枚、それに失敗しても構わない布を一束渡された。


 期限は設定されなかったが、催促が来る前に結果を出した方が良い気がする。

 この日から、三日に一度程度のペースで進捗状況の報告に行くようにした。


 寝る間を削って二日間はトライ&エラーを重ねて、その結果を三日目に報告する感じだ。

 正直、大変だけど、美味しいお茶とお菓子、何より自分の身の安全のためだから仕方ない。


 作業に集中したことで、三日目にはコインの腐食を取り除けるようになった。

 腐食によって出来た微細な穴からも変質した金属部分を取り除き、ピッカピカの輝きを取り戻せるようになった。


 もう何というか、境界の設定が電子顕微鏡レベルで行われている気がする。

 更に三日後には、均一に染色した布からは染みを取り除けるようになった。


 これは、大きな副産物を俺にもたらした。

 それは、洗濯が不要になったのだ。


 これまでは、空き時間を見つけては手洗いで洗濯をしていたが、雑務係の作業服には色々な汚れの染みが残ってしまっていた。

 特に、厨房の掃除で付いた油汚れはお手上げで、厨房自体はピカピカになったのに、俺の作業着には染みが増え続けていたのだ。


「いくぞ、転移……転移……転移……よしっ!」


 洗濯前の作業着を竿に吊るして、そこで一気に転移魔法を使えば、染みになった汚れは強制的に転移させられて綺麗サッパリ落ちた……と言いたかったのだが、油汚れは生地から抜け出して落ちる過程で別の場所にくっついてしまった。


 それに、綺麗に汚れが落ちたはずの場所も、何となく臭いは残っているような気がする。

 生地から抜け出た汚れの粒子が、再び付着しているのかもしれない。


「何だよ、せっかく楽に洗濯が済ませられると思ったのに、結局洗わないと駄目なのか……いや待てよ」


 洗濯は、宿舎近くの水路で行っている。

 この水路は、城の庭園の噴水などで使われた水が流れてくるもので、宿舎近くは城から出て行く直前の最下流にあたる。


 ただし、水路のあちこちに浄化の魔道具が仕込まれているので水質が保たれているらしい。


「空気中で転移魔法を使うから、汚れの再付着に気を遣わなければならなかった。それなら、流水に漬けた状態でやったらどうなるんだ……転移!」


 水路に作業着を漬け込んだ状態で転移魔法を発動させると、汚れは水によって流されていった。

 更に水路から取り出した作業着に三回ほど転移魔法を掛けて水分を取り除けば、下ろしたてのように綺麗に仕上がった。


 装飾係の作業場では、この方法を応用して、風で汚れを飛ばしながら転移魔法を使うという方法を取った。

 水で濡らしてしまうと、生地によっては縮んだり、型崩れしてしまう恐れがあるからだ。


 金属の腐食部分や、一面を染色した布からの染み抜き方法は確立したが、模様を染めた布からの染み抜きは困難を極めた。

 模様を染めた布であっても、新しい汚れや染みならば何とか取り除けるのだが、古い布に染み付いた古い染みは、模様なのか汚れなのか判別が出来なかった。


 エッケルスさんから修復不能で廃棄処分が決まった古いドレスを渡され、そこに染み付いた古い染みで試してくれと言われたのだが、なかなか打開策が見つからなかった。

 寝台と小さな棚しかない狭い部屋の壁に、華やかな模様の古びたドレスが掛かったままの日々が続く。


 夜中に清掃、昼間に仮眠の昼夜逆転の生活の中で、目を覚ます度に女の幽霊が枕元に立っているようでギョっとさせられる日が続いた。

 結局、十五日間も女の幽霊ならぬ古いドレスとの同居生活は続いた。


 古いドレスとの格闘は、正常部分との比較、推察、そして更なる境界確定精度の向上をもたらした。

 こうした転移魔法に関する技術の向上が、後の俺に大きな転機をもたらすとは、この時はまだ思ってもみなかった。

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